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【第三章】
二
しおりを挟むいつもより早い時間だからだろうか、牆壁には青い小鳥は留まっていなかった。それとも、今日は仕事で来られないのかもしれない。
今日に限って。こんなときに限って。
伸びた下草を踏みしめ、翠蘭はただじっと、牆壁を見上げ続けた。
やがて牆壁の向こうから、さくさくと石畳を歩く足音が聞こえて来、すぐそこで止まった。じっと翠蘭が食い入るように見つめる先に、ややして現れた青い小鳥。
張り詰めていた気持ちが溶けだしていくのが判った。
「どこから来た青い鳥なの?」
声が、震えそうだ。
「逃げてしまわないよう、足には糸が結わえてある」
いつの間にかそうなっていた合い言葉を口にすると、牆壁の向こうの声も答えを返してくれた。
「風騎さま……!」
「もしかして、待たせてしまったか?」
「いいえ、そんなことはございません」
気遣わしげな声すらも愛おしい。胸の底を疼かせる甘い声。この声に、風騎にすがりつきたかった。
この数尺の牆壁の厚み。なんと呪わしい。
「済まなかったな、忙しいだろうに待たせてしまって」
「いいえ。いつもお待ちいただいているのは、わたくしのほうですし」
どうして、彼と出逢ってしまったのだろう。出逢わなければ、なにも知らないまま夜伽への覚悟がついたのに。
「不安なことでもあるのか? 声が、乱れているが」
「!」
心の臓を摑まれたかと思った。
(どうして……!)
風騎は、いつもこうやって翠蘭の気持ちを見透かしてしまう。普段だったら「そんなことありません」とかわせるのだが、さすがに今日は無理だった。すがりたい気持ちが、唇を素直にさせた。
「不安、ばかりです」
「どうした? 家族になにかあったのか? ……もしや、李昭儀さまが無理難題をおっしゃったとか?」
風騎の声色が変わる。
「なにがあった? 話してくれないか? 話せば、それだけでも気持ちは軽くなるぞ」
翠蘭は首を振る。
話せるわけがない。夜伽のことを口にすれば、きっと風騎は離れていってしまう。
身分を偽っていた翠蘭を軽蔑するかもしれない。もしくは真実の身分に距離を置き―――去っていく。二度とここにはやって来ない。翠蘭を置いていってしまう。御史台に勤める彼は、自分を律して他人行儀になるどころか、妃嬪と言葉を交わしたという罪に自らを厳しく罰するだろう。
彼に話せるものが、だからなにひとつとしてない。
「いいえ。なにも」
だが声はどうしようもなく震えてしまって、風騎には言葉どおりには伝わらなかった。
「!」
翠蘭の耳に、遠く背後から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。重たい現実へと引きずり戻され、ぞっとなる。昭儀さまと呼ぶかすかなその声は、いまはまだ牆壁の向こうの風騎には聞こえていないだろう。
「もう……行かなければ」
「翠蘭」
身じろぎする彼女に、心配する声がかかる。
「無理は、無茶はするな。泣き言があれば聞いてやる。些細なことでも、愚痴や恨みごと、悪口も聞こう。詳しく話さなくたっていい、辛い思いは全部わたしが聞いてあげるから。だから、負けるな。―――いや、負けてもいい。負けてもいいから、思いつめないでくれ」
とん、と、牆壁を叩く気配があった。風騎が叩いたそのあたりに、翠蘭はそっと手を重ねた。
ならば、一緒に逃げてくださいますか?
それだけの言葉なのに、喉を震わせることができない。言ったところで、拒絶されるに決まっているから。
「李昭儀さまもきっと判ってくださる。そなたの良さを。そのときまでともに堪えよう。な? 翠蘭?」
壺世宮の住人に優しい言葉をかけて得られるものは、政治への影響力しかない。風騎の目的は出世だろうか。だから翠蘭に期待させるような言葉をかけるのか。
そう勘ぐってしまう自分が、嫌になる。
そう勘ぐらないと、自分の想いに決着がつけられない。
「明日も逢おう。この時刻に。―――頼むから、是と言ってくれ。わたしを安心させてくれ」
「心配をかけるつもりではなかったんです。ただ、風騎さまのお声を聞きたくて」
「わたしとて、そなたの声を聞きたくてここに通っている。そなたの奔放な歌や裏表のないお喋りが、どれだけわたしを和ませてくれたか」
被さるように風騎の声が降ってきた。
(本当に?)
嘘偽りを感じさせない透明な声だった。
風騎は、心のほんの一部分だとしても、自分を大切に思ってくれている。僅かではあっても、気持ちは通じ合っている。そう思わせる言葉だった。
そうして、すとんと、なにかを抜けたのを感じた。
(あぁ、そうよ)
たとえこれから自分の身になにが起ころうとも、風騎を慕う気持ちは変わらないだろう。風騎が自分を気にかけてくれている―――政治的な思惑がなんだろうと、自分の歌やお喋りを楽しみにしてくれていたことは、事実に相違ない。
それで、いいではないか。想いは叶わなくとも、気持ちは充たされるではないか。
この思い出を宝物にしていけばいい。
皇帝に召されたあとも、彼が自分を気にかけてくれたそのことを、拠り所として自分自身を支えていけばいい。
彼に寄り添う代わりに、翠蘭は牆壁に身を寄せた。
「わたくしは幸せ者だわ」
「不安にさせるようなことは言わないでくれ、翠蘭。お願いだから」
切々と訴える声に、翠蘭を呼ぶ声が細く重なる。あれは、柑華の声だ。
「大丈夫です。風騎さまのお声を聞けたので、少し力が湧いてきました。ちょっと、いろいろ考え込んでしまって、弱気になっていただけで」
「それを信じていいんだな? そなたになにかあれば、わたしは一生己を悔やむことになる」
「責任重大ですね」
「ああ、そうだ。そなたは、わたしの一生を背負っているのだぞ」
「既に家族六人を肩に乗せているんですよ。そのわたくしに更に風騎さまを背負えと?」
「あとひとりくらい増えても、たいして変わらないよ」
「風騎さま、二百斤(約120kg)あるなどおっしゃりませんよね?」
軽く笑う声が聞こえた。
「二百斤あっても背負ってもらうよ、力持ちさん。―――大丈夫なようだね」
「ええ。風騎さまのおかげです。ありがとうございます」
孤独を思ったときに出逢った風騎。牆壁越しの彼が、こんなにも大きな存在になるとは思ってもみなかった。
柑華の声は、もうすぐそこにまで届いている。
風騎がいてくれる。たとえ彼を裏切る結果となったとしても、この思い出に、どんな困難にだって立ち向かえる気すらした。
「本当に、もう行かなければ」
「明日、逢えるか?」
「……お逢いしたいです」
この気持ちのままでいられるかは不安だったけれど。
それではと言い残し、翠蘭は急いで桂池へと小径を戻った。
桂池のほとりでは柑華が所在なげに翠蘭を探していた。ひょっこりと木々の間から現れた女主人に、柑華は文字どおり胸を撫で下ろした。が、ほっとした表情の彼女の口から出たのは、「ぼんやり散策などしていらっしゃる時間はございませんのよ!」という叱咤だった。
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