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【第三章】
一
しおりを挟む翠蘭と風騎が牆壁越しに言葉を交わすようになってしばらくが経った頃だった。
ついに、その〝時〟が訪れた。
中餐を食べて少しした頃、突然太監が現れ、言った。
「今宵、万歳爺のお召しがある」
と。
太監とは、宦官の長のことである。
突然のことになにを言われたのか、翠蘭は一瞬理解できなかった。が、すぐに『万歳爺』が皇帝陛下本人のことだったと思い出す。
皇帝に召されることは、妃嬪としては途方もない幸運。誰もがそれを望み、しかし願ったほとんどはそれを叶えることができない。
背筋が、音をたてて冷えていくのが判った。
自分は、違う。願ってなどいない。ただの一度も。身代わりで李昭儀のふりをしているだけだ。皇帝に召されてしまっては、鈴葉が見つかっても入れ替わることができなくなる。
(鈴葉さま……!)
最悪、鈴葉が見つからないまま召されることもあると、頭では判っていた。だがいざその通告を受けると、恐ろしさが足元から這い上がってきて、息は苦しくなった。
鈴葉は、李家の捜索を逃げきったのだ。
たとえいま、この瞬間に鈴葉が見つかったのだとしても、もうどうすることもできない。夜がくる前に入れ替われるはずもなく、夜伽を仰せつかった妃嬪は夜になる前からその準備に取り掛からねばならない。
手遅れだったのだ。
足はがくがくと震え、目の前が真っ暗になる。足元が崩れ、千尋の谷底に落ちていく自分を、翠蘭は感じた。
自分に課せられていた使命。
真っ先に頭に浮かんだのは、風騎のことだった。
あの、穏やかな優しい声。
身体が、引き裂かれていく。
いままでと同じように、まっさらな想いで言葉を交わすことができるだろうか?
―――できるわけが、ない。
誰かに抱かれた後ろめたさを感じずに、逢えるわけがない。
(いやだ)
手放したくなかった。風騎との時間を、壊したくなかった、壊されたくなかったのに。
あの時間を大切に感じているのは自分だけかもしれない。風騎にとっては、ただの気晴らしでしかないかもしれないけれど。
翠蘭にとっては、なににも代えがたい幸福な時間だった。
牆壁越しに聞こえる穏やかな笑い声
―――あれは後宮の庭で見たただの夢。密やかな、淡い夢だったのか。
自分は官吏だと、彼は話してくれた。
官吏と、妃嬪。届くはずのない想い。触れ合うことのできない立場。
言葉は交わせても、あの紅い牆壁より高く厚い見えない壁が、ふたりの間には、厳然としてあったのだ。
(届かない……、想い……?)
するりと自分の気持ちの出した単語に、翠蘭は呆然となる。
彼を思うと感じる、締めつけられるような胸の痛み。それと同時に生まれる、甘い熱。
ああと、翠蘭の意識が、たったひとつの言葉へと収斂されていく。
(わたし)
風騎と話しているときの胸躍る心地よさ。別れるときの孤独な思い。牆壁の上に青い小鳥を見つけたときの眩しく弾けるような嬉しさ。
そうして、決して逢うことのできない現実。
(わたしは……)
他の男に召される立場の自分。
(風騎さま、が)
彼の声にこみ上がる幸福感。
ようやくこの日がやってきたと、傍らで喬玉や柑華が浮かれている。華やぐふたりのそばで、翠蘭は動くことすらできず、袖の中でぎゅっと拳を握りしめていた。
(わたしは風騎さまが、好きなんだわ)
いまさらになって、自覚した。
深い水で包み込むような穏やかな声の風騎。官吏を監察する御史台で働いていると言っていた。科挙には二度の挑戦で通ったという。結婚しているかは知らない。聞いていない。聞くのが怖かったのだといまなら判るが、年齢が二十九と言っていたから妻子はいるに違いない。
牆壁越しのやり取りで知ったのはそれだけだったが、それ以上に、自分を語る声、口調、間の取り方が、雄弁に彼の内面の懐の深さを語っていた。
話せば話すほど、言葉を交わすほど、風騎の魅力に取り込まれていた。
風騎が―――妻子がいるであろう風騎は、自分に僅かも恋情など抱いていないだろう。そんな素振りすらなかった。
それでも、気付いてはなかったけれど、
(風騎さまのことが好きだったんだ、わたし)
叶うわけもない、一方的な自分の想い。
いまさらになって気付くだなんて。
―――嫌だ。
片想いであっても、最初から自分がここに入れられた目的が太子を産むことだと判ってはいても、それでも嫌だった。
乾を治める唯一無二の天子も、翠蘭にとっては知らない男でしかない。そんな男の夜伽など、務めたくない。すべてを放って、逃げだしたかった。触れたいと思うのは風騎であり、逢いたいのも風騎だ。
皇帝ではない。
こんな栄誉などいらない。全然嬉しくもないし、ありがたくもない。
「さ、昭儀さま。さっそく準備にかかりましょう。時間はまだございますけど、念には念を入れて、毎夜のごとくお召しがかかるようにいたしませんと」
「そうですわ。昭儀さまは少々現実が疎かになるきらいがございますから、今宵ばかりは気を引き締めなければなりませんわよ」
浮かれる喬玉たちは翠蘭のまわりで好き放題騒いでいたが、ようやく女主人が硬い顔で黙り込んでいたことに気付く。
「昭儀さま? 聞いておいでですか?」
「……」
「昭儀さま?」
「ふたりは、こうさせたかったんでしょう?」
喬玉たちが、はっとしたように顔を見合わせる。だがすぐに、こわばった表情を翻す。
「もちろんですわ。わたくしたちがお仕え申し上げているのは、昭儀さまなんですから」
「本当に仕えたいのは、別のひとなんでしょう? そのひとをお助けしたいから、わたしを」
「昭儀さま」
ぴしゃりと喬玉が遮る。
「わたくしどもがお仕え申し上げているのは、李昭儀さまです。その幸福を願わぬはずはありません」
「どの〝李昭儀〟の幸せを願ってるのよ。鈴葉さまがお幸せであれば、それでいいんでしょ? わたしがどうなろうと、どうでもいいんでしょ? わたしが夜伽を命じられれば鈴葉さまをここ」
「昭儀さま!」
声を荒げる喬玉。翠蘭のその先の言葉は、決して口にさせてはならないものだった。強い意志を眼差しにこめ、彼女は女主人をひたと見据えた。
「わたくしどもがお仕え申し上げているのは、あなたさまです」
繰り返されるその言葉。
彼女の眼差しを受け止めるも、信じられるわけがない。いつだったかの祖母の言葉が頭によみがえる。
『お姫さんには、心をこめて仕えるんだよ。恋をするように、お姫さんのことだけを考えるんだ。なにがお姫さんにとって良いのか、幸せなのか、どうすべきなのか。それが結局、お前の為になる』
喬玉たちは、鈴葉のことを思って行動しているだけ。ただただ鈴葉を思って、翠蘭に仕えている。
翠蘭の想いなど、どこにもない。
どこにも。
「―――ひとりにさせて」
「昭儀さま」
「ひとりにしてと言ったのッ!」
以前だったら、嫌だとは思っても仕方がないと夜伽に臨めただろう。だがいまは、風騎と出逢ってしまったいまは、身が引き裂かれていくばかりだ。割り切ることができない。
想いを交わし合ったわけでも、貞操を誓ったわけでもない。けれど、自覚したばかりの想いが翠蘭を苦しめ、苛立たせていた。
「出てって! ひとりにさせて!」
翠蘭は立ち上がり、ふたりを無理やり房室から追い出した。
閉めた扉に、寄りかかるように崩れる。
(嫌だ)
絶対に嫌だと、ただそればかりが脳裏を駆けめぐる。
明日のいまごろ、いったい自分はどうなっているのだろう。
明日も、風騎はあの牆壁のもとにやって来るのだろうか。
(こんなの……)
どんな顔をして、どんな声で彼と話せるというのか。
風騎に逢いたくて、逢いたくてたまらない。
繋ぎとめてもらいたかった。
行くなと言って欲しかった。夜伽など行くなと。
どうして抱き締めてもらえないのだろう。どうして、声しか聴けないのだろう。
自分の詮無い願望に、翠蘭は身を震わせることしかできなかった。
(風騎さま……!)
夜伽のあとで、彼に逢うことなんてできない。
逢えるのは、これが最後かもしれない。
そんな大袈裟な考えも、いまの翠蘭には冗談でもなく身に迫った現実でしかなかった。
逢いたい。
ただその想いを胸に、翠蘭はゆるゆると扉を開け、階を降り、園林へと、桂池の牆壁へと向かった。
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