乾宮――昔がたり

トグサマリ

文字の大きさ
8 / 22
【第三章】

しおりを挟む


 翠蘭すいらん風騎ふうき牆壁かべ越しに言葉を交わすようになってしばらくが経った頃だった。
 ついに、その〝時〟が訪れた。
 中餐ちゅうしょくを食べて少しした頃、突然太監たいかんが現れ、言った。
「今宵、万歳爺わんすいいぇのお召しがある」
 と。
 太監とは、宦官かんがんの長のことである。
 突然のことになにを言われたのか、翠蘭は一瞬理解できなかった。が、すぐに『万歳爺わんすいいぇ』が皇帝陛下本人のことだったと思い出す。
 皇帝に召されることは、妃嬪ひひんとしては途方もない幸運。誰もがそれを望み、しかし願ったほとんどはそれを叶えることができない。
 背筋が、音をたてて冷えていくのが判った。
 自分は、違う。願ってなどいない。ただの一度も。身代わりで昭儀しょうぎのふりをしているだけだ。皇帝に召されてしまっては、鈴葉りんようが見つかっても入れ替わることができなくなる。
(鈴葉さま……!)
 最悪、鈴葉が見つからないまま召されることもあると、頭では判っていた。だがいざその通告を受けると、恐ろしさが足元から這い上がってきて、息は苦しくなった。
 鈴葉は、李家の捜索を逃げきったのだ。
 たとえいま、この瞬間に鈴葉が見つかったのだとしても、もうどうすることもできない。夜がくる前に入れ替われるはずもなく、夜伽を仰せつかった妃嬪は夜になる前からその準備に取り掛からねばならない。
 手遅れだったのだ。
 足はがくがくと震え、目の前が真っ暗になる。足元が崩れ、千尋の谷底に落ちていく自分を、翠蘭は感じた。
 自分に課せられていた使命。
 真っ先に頭に浮かんだのは、風騎のことだった。
 あの、穏やかな優しい声。
 身体が、引き裂かれていく。
 いままでと同じように、まっさらな想いで言葉を交わすことができるだろうか?
 ―――できるわけが、ない。
 誰かに抱かれた後ろめたさを感じずに、逢えるわけがない。
(いやだ)
 手放したくなかった。風騎との時間を、壊したくなかった、壊されたくなかったのに。
 あの時間を大切に感じているのは自分だけかもしれない。風騎にとっては、ただの気晴らしでしかないかもしれないけれど。
 翠蘭にとっては、なににも代えがたい幸福な時間だった。
 牆壁かべ越しに聞こえる穏やかな笑い声
 ―――あれは後宮の庭で見たただの夢。密やかな、淡い夢だったのか。
 自分は官吏だと、彼は話してくれた。
 官吏と、妃嬪。届くはずのない想い。触れ合うことのできない立場。
 言葉は交わせても、あの紅い牆壁かべより高く厚い見えない壁が、ふたりの間には、厳然としてあったのだ。
(届かない……、想い……?)
 するりと自分の気持ちの出した単語に、翠蘭は呆然となる。
 彼を思うと感じる、締めつけられるような胸の痛み。それと同時に生まれる、甘い熱。
 ああと、翠蘭の意識が、たったひとつの言葉へと収斂しゅうれんされていく。
(わたし)
 風騎と話しているときの胸躍る心地よさ。別れるときの孤独な思い。牆壁の上に青い小鳥を見つけたときの眩しく弾けるような嬉しさ。
 そうして、決して逢うことのできない現実。
(わたしは……)
 他の男に召される立場の自分。
(風騎さま、が)
 彼の声にこみ上がる幸福感。
 ようやくこの日がやってきたと、傍らで喬玉こうぎょく柑華かんかが浮かれている。華やぐふたりのそばで、翠蘭は動くことすらできず、袖の中でぎゅっと拳を握りしめていた。
(わたしは風騎さまが、好きなんだわ)
 いまさらになって、自覚した。
 深い水で包み込むような穏やかな声の風騎。官吏を監察する御史台ぎょしだいで働いていると言っていた。科挙には二度の挑戦で通ったという。結婚しているかは知らない。聞いていない。聞くのが怖かったのだといまなら判るが、年齢が二十九と言っていたから妻子はいるに違いない。
 牆壁かべ越しのやり取りで知ったのはそれだけだったが、それ以上に、自分を語る声、口調、間の取り方が、雄弁に彼の内面の懐の深さを語っていた。
 話せば話すほど、言葉を交わすほど、風騎の魅力に取り込まれていた。
 風騎が―――妻子がいるであろう風騎は、自分に僅かも恋情など抱いていないだろう。そんな素振りすらなかった。
 それでも、気付いてはなかったけれど、
(風騎さまのことが好きだったんだ、わたし)
 叶うわけもない、一方的な自分の想い。
 いまさらになって気付くだなんて。
 ―――嫌だ。
 片想いであっても、最初から自分がここに入れられた目的が太子を産むことだと判ってはいても、それでも嫌だった。
 けんを治める唯一無二の天子も、翠蘭にとっては知らない男でしかない。そんな男の夜伽など、務めたくない。すべてを放って、逃げだしたかった。触れたいと思うのは風騎であり、逢いたいのも風騎だ。
 皇帝ではない。
 こんな栄誉などいらない。全然嬉しくもないし、ありがたくもない。
「さ、昭儀しょうぎさま。さっそく準備にかかりましょう。時間はまだございますけど、念には念を入れて、毎夜のごとくお召しがかかるようにいたしませんと」
「そうですわ。昭儀さまは少々現実が疎かになるきらいがございますから、今宵ばかりは気を引き締めなければなりませんわよ」
 浮かれる喬玉こうぎょくたちは翠蘭のまわりで好き放題騒いでいたが、ようやく女主人が硬い顔で黙り込んでいたことに気付く。
「昭儀さま? 聞いておいでですか?」
「……」
「昭儀さま?」
「ふたりは、こうさせたかったんでしょう?」
 喬玉たちが、はっとしたように顔を見合わせる。だがすぐに、こわばった表情を翻す。
「もちろんですわ。わたくしたちがお仕え申し上げているのは、昭儀さまなんですから」
「本当に仕えたいのは、別のひとなんでしょう? そのひとをお助けしたいから、わたしを」
「昭儀さま」
 ぴしゃりと喬玉が遮る。
「わたくしどもがお仕え申し上げているのは、李昭儀さまです。その幸福を願わぬはずはありません」
「どの〝李昭儀〟の幸せを願ってるのよ。鈴葉りんようさまがお幸せであれば、それでいいんでしょ? わたしがどうなろうと、どうでもいいんでしょ? わたしが夜伽を命じられれば鈴葉さまをここ」
「昭儀さま!」
 声を荒げる喬玉。翠蘭のその先の言葉は、決して口にさせてはならないものだった。強い意志を眼差しにこめ、彼女は女主人をひたと見据えた。
「わたくしどもがお仕え申し上げているのは、あなたさまです」
 繰り返されるその言葉。
 彼女の眼差しを受け止めるも、信じられるわけがない。いつだったかの祖母の言葉が頭によみがえる。
『お姫さんには、心をこめて仕えるんだよ。恋をするように、お姫さんのことだけを考えるんだ。なにがお姫さんにとって良いのか、幸せなのか、どうすべきなのか。それが結局、お前の為になる』
 喬玉たちは、鈴葉のことを思って行動しているだけ。ただただ鈴葉を思って、翠蘭に仕えている。
 翠蘭の想いなど、どこにもない。
 どこにも。
「―――ひとりにさせて」
「昭儀さま」
「ひとりにしてと言ったのッ!」
 以前だったら、嫌だとは思っても仕方がないと夜伽に臨めただろう。だがいまは、風騎と出逢ってしまったいまは、身が引き裂かれていくばかりだ。割り切ることができない。
 想いを交わし合ったわけでも、貞操を誓ったわけでもない。けれど、自覚したばかりの想いが翠蘭を苦しめ、苛立たせていた。
「出てって! ひとりにさせて!」
 翠蘭は立ち上がり、ふたりを無理やり房室へやから追い出した。
 閉めた扉に、寄りかかるように崩れる。
(嫌だ)
 絶対に嫌だと、ただそればかりが脳裏を駆けめぐる。
 明日のいまごろ、いったい自分はどうなっているのだろう。
 明日も、風騎はあの牆壁かべのもとにやって来るのだろうか。
(こんなの……)
 どんな顔をして、どんな声で彼と話せるというのか。
 風騎に逢いたくて、逢いたくてたまらない。
 繋ぎとめてもらいたかった。
 行くなと言って欲しかった。夜伽など行くなと。
 どうして抱き締めてもらえないのだろう。どうして、声しか聴けないのだろう。
 自分の詮無い願望に、翠蘭は身を震わせることしかできなかった。
(風騎さま……!)
 夜伽のあとで、彼に逢うことなんてできない。
 逢えるのは、これが最後かもしれない。
 そんな大袈裟な考えも、いまの翠蘭には冗談でもなく身に迫った現実でしかなかった。
 逢いたい。
 ただその想いを胸に、翠蘭はゆるゆると扉を開け、きざはしを降り、園林ていえんへと、桂池けいちの牆壁へと向かった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領

たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26) ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。 そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。 そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。   だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。 仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!? そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく…… ※お待たせしました。 ※他サイト様にも掲載中

おばさんは、ひっそり暮らしたい

波間柏
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。 たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。 さて、生きるには働かなければならない。 「仕方がない、ご飯屋にするか」 栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。 「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」 意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。 騎士サイド追加しました。2023/05/23 番外編を不定期ですが始めました。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

冷徹宰相様の嫁探し

菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。 その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。 マレーヌは思う。 いやいやいやっ。 私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!? 実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。 (「小説家になろう」でも公開しています)

ストーカー婚約者でしたが、転生者だったので経歴を身綺麗にしておく

犬野きらり
恋愛
リディア・ガルドニ(14)、本日誕生日で転生者として気付きました。私がつい先程までやっていた行動…それは、自分の婚約者に対して重い愛ではなく、ストーカー行為。 「絶対駄目ーー」 と前世の私が気づかせてくれ、そもそも何故こんな男にこだわっていたのかと目が覚めました。 何の物語かも乙女ゲームの中の人になったのかもわかりませんが、私の黒歴史は証拠隠滅、慰謝料ガッポリ、新たな出会い新たな人生に進みます。 募集 婿入り希望者 対象外は、嫡男、後継者、王族 目指せハッピーエンド(?)!! 全23話で完結です。 この作品を気に留めて下さりありがとうございます。感謝を込めて、その後(直後)2話追加しました。25話になりました。

幼馴染を溺愛する旦那様の前からは、もう消えてあげることにします

睡蓮
恋愛
「旦那様、もう幼馴染だけを愛されればいいじゃありませんか。私はいらない存在らしいので、静かにいなくなってあげます」

【完結】番である私の旦那様

桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族! 黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。 バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。 オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。 気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。 でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!) 大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです! 神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。 前半は転移する前の私生活から始まります。

処理中です...