乾宮――昔がたり

トグサマリ

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【第六章】

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 長い長い時間が、それから流れていく。
 満月事件によって華涼かりょうは廃后となり、彼女が生んだ太子は廃嫡、幽閉先で一生を過ごすこととなった。代わって華涼より数ヵ月遅れで出産したしん美人びじんの息子が太子となる。
 その、太子瑛晶えいしょうが十七になろうとする頃だった。
 けん国第七代皇帝志勾しこうは、朝議の終わりに、とんでもない発言をした。
 あまりのその衝撃に、瑛晶をはじめ丞相じょうしょうしゅ歩偉ふいも顔色を失い、水を失った魚のように喘いだ。
「まことに恥ずかしきことながら、畏れ多くも陛下のお言葉を聞き逃してしまいまして」
 青い顔で言葉を詰まらせる朱丞相に、志勾は再び同じ文言を繰り返した。朗々と朝堂にその声を響かせて。
しょうが十七となるのを機に、玉座をこれに譲る」
「父上……」
 祥とは、瑛晶のいみなである。あと数ヵ月で十七になる瑛晶は、少年の名残はあるが、すっかり青年としての風格を持っていた。幼少時から皇帝になるための教育を受け、父王の仕事にももう随分以前から関わるようになっている。
 だからこそ、彼には痛いほど身に染みている。
 父王に、自分は遠く及ばないと。
 国を背負って立つ自覚はある。玉座に座り、乾を動かしていきたいという野望もある。だが、まだ早すぎる。父王は五十を越えたばかり。自分はまだ青い。まだまだ教えを請わねば国に呑まれてしまう。
 そんな恐れを眼差しに乗せる瑛晶に、志勾は眼差しを深くして頷いた。
「そなたにならできる。決して乾は安寧な国ではないが、それを支えられるだけのものを、そなたは持っておる」
「父上の御世は永久に続かねばなりません」
「息子からそのような言葉をかけてもらえるのは、平和であったということか」
「感慨にふけっている場合ではございませぬッ」
 しゅ丞相じょうしょうから叱咤が飛ぶ。十数年もの間、志勾のもとで丞相として国を治めてきた彼は、皇帝を素で叱ることのできる数少ない男である。そんな彼になんの相談もなく、朝議をぶち壊す発言をしたことへの後ろめたさは、さすがに志勾にもある。
「皆の者よいか。陛下はなにも発言はしておらぬ。お前たちはなにも耳にしてはいないし、なにも見てはおらぬ。ゆめゆめ忘れるでないぞ」
 声を裏返しながら、朝堂の官たちを追い返す朱丞相。
 ひと払いがされ、しんと静まり返った朝堂には、志勾と瑛晶、そして朱丞相の三人だけとなった。
 志勾のもとへ、朱丞相はずいと身を乗り出す。
「何故事前にひと言もなかったのですか」
 食い入る表情のしゅ丞相じょうしょうに、思わず志勾の頬に笑みが浮かんだ。
「『玉座を譲るとはどういうことか』とは問わないんだな」
「陛下がなにをお考えだったかは、一応わきまえておるつもりでしたので」
「? どういうことだ丞相」
 瑛晶えいしょうが朱丞相の発言をいぶかしみ、言葉を挟んだ。
「父上のお考えとは、―――なにか、あるのですか?」
 不安に曇った表情を、志勾に向ける瑛晶。それを受け止める志勾は、凪いだ湖のような静かな眼差しで口を開いた。
「わたしはこれまで、そなたに国を無事な形で譲るために玉座にあったのだ。〝皇帝〟というものから、解放されるために」
「!?」
 目をみはる瑛晶。しかし朱丞相を見れば、静かな顔をしていて志勾の言葉に驚く様子もない。
「即位を前にしたそなたには辛い物言いかもしれぬが、わたしは皇帝ではないひとりの男として、生を終えたいのだ」
「……?」
「わたしが愛するのは、皇后ではない」
 はっとする瑛晶。
淑妃しゅくひさま、でございますか」
 息子の口からこぼれたその名に、志勾はゆっくりと頷いた。
 李淑妃―――昭儀しょうぎは満月事件の後、淑妃しゅくひの位に上げられていた。
 政争によって命を落とした李淑妃。彼女の死に、父王は壺世宮こせいきゅうのしきたりを踏み倒してその場に駆けつけ、むくろとなった李淑妃をかき抱いたという。上衣きものの下に隠されてはいるが、頸飾くびかざりの先に、李淑妃の遺髪を収めた銀の小筒を肌身離さず下げている父。瑛晶の知らない、父王が愛した女人―――。
「わたしは、愛した女人を死なせてしまう星を持っているらしい」
 悲しげな声を漏らす志勾。薄く浮かんだ笑みが、逆に抱えている悲痛さを色濃くさせていた。
「それでも、翠蘭すいらんが愛しくてならないのだ。亡くしてもなお、この想いは消えぬ。二十年以上が経つのに、愛しさは募るばかりだ」
 淡々とした話し方。だからこそ余計に滲む強い悲哀。
 父王のそんな言葉を聞くのは、初めてだった。
 あまりに偉大な王だった。大陸の東のほとんどを占めるけんを背負う重責も苦悩もなにひとつ縁がないような―――いや、問題がなかったわけではない。ただ、どんな難題も父王は必ず乗り越えていた。苦悩することも多かったはずだが、それを言い訳にして懊悩する姿を見たことはない。
 父は、皇帝というだけの存在ではなかった。
 愛した妃の息子ではない自分を放っていたわけでもなく、ふとした瞬間に、父親の穏やかで甘やかな眼差しが注がれていたことを知っている。手を繋いでもらって庭院にわを散策した記憶もある。無意識に歌う父親の不可思議な鼻唄を聞くのが密かな楽しみだった。広い背に負ぶってもらうのが好きだった。背に負われて、高い木の枝の先に触れるのが大好きだった。
 たくさんの笑顔を知っている。その陰で、どれほどの悲しみを堪えていたかなど知らなかった。
 父が、死した妃を想い、愛をいまだ抱いていたとは。
 淑妃しゅくひの名を、いま初めて父王の口から聞いた。
 皇帝ではない、ひとりの男としての父が、そこにはいた。
 ひとりの男でしかない父が、いまにも遠くに行ってしまう気がして、瑛晶はすがるように問う。
「父上は、皇帝でもあり、同時にひとりの男でもあります。それでは、だめなのですか」
「約束をしたのだ」
 翠蘭に、いつかリュバーニャにともに行こうと。
「いつかは叶うと思っていたが、皇帝の座にいる限り、リュバーニャには行けぬ」
「リュバーニャ? 父上の、故郷ですか」
「わたしの故郷を見てみたいと言われて、いつか連れて行ってやろうと約束をした。あれから二十年以上も経ったのに、叶えてやれていない。わたしは、あの者の願いをなにひとつとして叶えてやれなかった」
「リュバーニャで、残りの人生を過ごすおつもりだと?」
「ああ。愚かな男のわがままを、聞いてもらいたい」
「愚かなど……」
 言葉を呑む瑛晶えいしょう。リュバーニャは晋塀しんへい自治区の首府。ここ龍黎りゅうれいからは千里(約500km)以上とあまりにも距離がある。加えて最近怪しげな動きのある胡慶こけい国と国境を接しているため、皇帝が自ら足を運ぶには、さまざまな意味であまりにも危険だった。
 その地に、父は赴こうというのか。皇帝の地位を放棄してまで。
 李淑妃の約束とともに。
「失礼ながら、それだけの理由で玉座を降りることは認められません」
 しゅ丞相じょうしょうが控え目に口をはさんだ。
「陛下がこの国のため、すべてを犠牲にしてこられたことは重々承知しておりますが、だからといって、聞き入れるわけにはまいりません」
「丞相……」
 困ったように顔を歪ませる志勾に、しかし朱丞相は顔色を変えずに続ける。
「別の理由をご提示くださいませ」
「!」
「官のすべて、国民ひとりひとりが納得できるような理由でなければ、陛下の退位を認めるわけにはまいりません」
「しかし丞相。父上は国の要だ。どんな理由があろうと、退位など……退位など……」
 唇を引き結び、苦悩する瑛晶だったが、こちらへと向けられる父王の穏やかな眼差しと視線がぶつかった。
 ときおり見せる父王の切ない眼差しを、瑛晶は知っている。
 小さな頃から、どうしてあんなにも遠い目をするのだろうと感じていた。
 父王は、―――父は、胸を貫く深い嘆きに苦しんでいたのだ。
 淑妃しゅくひの喪失。
 いまだにその悲しみの底で、もがき苦しんでいる。
 このくにを背負いながら。
 ぎゅっと瑛晶は拳を握り締め、あらためて父王を見つめ返した。
「父上は、それでよいのですね? それが、父上の幸せなのですね?」
「国とともに在る幸せより、ひとりの娘を選ぶわたしを、そなたは軽蔑するだろうか」
 そう問う志勾の顔は、けれどどこかすっきりとしている。時を経た父王の決意は固く、潔い。羨望すら抱かせるほどに。
「―――父上が、幸せでおいでなら、どうして軽蔑できましょう」
 己の寂しさを堪えて答える瑛晶に、志勾の表情は穏やかに和らいだ。
「乾を頼む、しょう。朱丞相。祥をよく助けてやってくれ」
「それはもちろんにございます」
 瑛晶の正妃は朱丞相の末娘である。瑛晶は正妃を愛しんでおり、翠蘭のような悲劇は起こらないだろう。
「さて。退位にはどのような理由がよいだろうか」
「父上……」
「ああ、ほら。そなたはすぐに涙ぐむ。―――即位までには、なんとかするんだぞ」
「な、泣いてなどおりませぬ」
「そうだな。目から汗が出ているだけだったな」
 小さな頃からそうやって、瑛晶えいしょうは自分の涙脆さを言いつくろっていた。幾つになっても、己の涙にうろたえるさまは変わらない。
 もう瑛晶は、十七になる。
 出逢ったころの翠蘭も、これくらいの年齢だったか。
(長い年月がかかったな……)
 知らず、志勾は小さく吐息を落とす。
「ただひとつ、問題がございますよ、陛下」
 感傷に浸っていた志勾の意識を引き戻す朱丞相の声があった。彼は難しい顔をして眉間にしわを寄せている。朱丞相の言わんとしていることは、志勾にも判っていた。
ひつぎに入れる、身体のことだろう?」
然様さようにございます。こればかりは偽ることはなりませぬ。なんらかの形でもってご用意いただきませんと」
 判っていると、志勾は頷く。
 けんが建国される以前の古代から、この大陸の東を支配した国々の王の遺体は、必ず棺に入れられる。戦国の時代であっても、それは変わらない。たとえ干乾びた指先のかけらだけであっても、王の肉体は棺に入れなければならないのだ。長い歴史の中、何度かそれが叶わない事例があったが、そのような国はどういうわけか必ず次の代で滅んでしまうのだった。新王に無残な死が訪れるだけではく、国の末端にまで災厄が蔓延した。
 例外はただひとつもなかった。偶然だと片付けるのは、皇帝としてあまりにも無責任である。
 朱丞相から棺の遺体について説明をされた瑛晶の顔は、真っ青になった。
「父上……」
「言ったであろう、祥。わたしはこの国を、そなたに譲るためにこれまでやってきたのだと。己の欲望のために、大切な愛する息子とこの国を、滅ぼすつもりはない」
 揺るぎない声だった。瑛晶えいしょうは、己の恐怖を恥じるように唇を引き結ぶ。そんな息子に、志勾は優しく諭す。
しょう。わたしは市井に降りる。市井のどこかにわたしが生きていると頭にあれば、無謀な決断や道を外すような愚かな振る舞いはせぬだろう。玉座は誰もが憧れるものだが、誰からも理解されぬ切り離された孤独な場所だ。お前は優しい心を持っている。情を忘れてはならないが、情に流されてはならぬ。時には、自分の親を斬る覚悟も必要だ。そのすべての決断を背負えるだけのものを、お前は持っている。―――わたしにそれがあれば、あの者を死なせることもなかったろうに」
「父上は、偉大な皇帝です。出過ぎた口かもしれませぬが、淑妃しゅくひさまが、羨ましくあります」
 瑛晶の言葉に、志勾の唇がほころぶ。
『もう。やっとですか? リュバーニャに行けるの、ずーっと待っていたんですよ』と、翠蘭は唇を尖らせるだろうか。それとも、リュバーニャに行ける嬉しさに、愉快な歌を踊りながら歌うだろうか。
 翠蘭を想い、志勾は胸に手を遣る。上衣きものの下から、頸飾くびかざりの小筒が感触を返す。
「陛下のご覚悟は、瑛晶さまでも覆せませなんだか」
 しゅ丞相じょうしょうの嘆息は、突き放した物言いではなく諦めをはらんでいた。
「二十年以上も考えておられたことですからな、陛下の強情さはまったく並々ならぬ」
「褒め言葉としてとっておこう」
「ところで父上。まさかとは思いますが、御身ひとつで市井に降りられるのではありませんよね?」
「なんの地位も持たぬ〝かく風騎ふうき〟になるのだ。ひとりに決まっておろう」
 当然のことのように答えた父王に、思わず額に手をやって肩を落とす瑛晶。市井で育ったせいなのか、父王はときおり、王族にはあるまじき奔放な感覚を披露することがある。
「せめて期門ごえいはおつけくださいませ」
「王族でなくなるのに、彼らを付き合わせるわけにはいかぬ」
 期門キームンは、天子の私的な警護を務める部隊である。皇帝を退いて市井に降りる者を彼らに守らせるわけにはいかない。
「大仰な警備隊を引き連れてくださいというわけではないんです。三人……ふたりでも構いません。どうかこればかりはお聞き入れください。父親を御身ひとつで宮城より放り出したとなれば、子々孫々、祖廟に顔向けできなくなります」
「しかしだな」
「陛下」
 苦い顔の志勾に、朱丞相が瑛晶を援護する。
「異国の無頼者にかどわかされたらどうなさいますか」
「かどわかされるってね……」
淑妃しゅくひさまに似た御婦人を見かければ、どうせほいほいついていらっしゃるでしょう? 瑛晶さまにどんなご覚悟があろうと、乾にとって陛下は大切な御方です。一庶民になりはてようとも、御自身の出自だけはお忘れくださいますな」
「……」
 無理難題を押しつけられているのではない。
 彼らはふたりとも、志勾の意思を受け入れた上での発言をしている。無理を通そうとしているのは、志勾自身だ。
 これから起こるだろう朝廷の混乱も、彼らが主導になって乗り越えていかねばならない。志勾の勝手で、その頭痛の種を増やすべきではない。
 自分につけられる期門ごえいには、迷惑をかける。おそらくは、二度と龍黎りゅうれいには戻れない運命だ。
 済まない思いで胸がいっぱいになった。
 志勾は瑛晶と朱丞相に、深く深く頭を下げたのだった。


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