月満ちる国と朔の姫君

トグサマリ

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【第三章】

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 明日は潔斎に入る日。その夜。
 キディスはこの日に届くと聞いていたけれど、テイムールがやって来たという話は聞かなかった。
 お守りになるはずだったけれど、間に合わなかったのか。
 潔斎が終わると、ついに器の儀式が始まる。
 どんな儀式なのだろう。どんなことが起こるのだろう。自分に、いったいなにが起こるのか。
 なにもかもが判らないから、不安ばかりに捕えられてしまう。
 どうかどうか、何事もなく無事に過ぎていきますように。
 バルコニーの手摺に腕を預け、夜の祈りを終えたディーナは、少し残念な思いを引きずりながら部屋へ戻ろうと一歩を踏み出した。そのとき、視界の隅にジャファールの姿が映った。
 胸に、はっと甘い熱がひるがえる。そしてそんな詮無い思いを一瞬でも抱いてしまったことに、小さな溜息が出てしまう。
 自分のもとに来るとは限らないのに、なんとなくその場で彼を待ってしまうディーナ。
「遅くなったが、先程届いた」
 彼はディーナの前で足を止め、手にしていた包みを開いた。
 どうしてジャファールは、いつもと変わらない態度でいるのだろう。
 ジャファールが自分に会いにきてくれた。ただもうそれだけでこちらは胸が張り裂けそうなのに。
 自分の気持ちを抑えこみながらも、目の前に差し出されたジャファールの手を覗き込むと、諦めていたキディスが、その中で輝いていた。
「これ……」
 見上げると、ジャファールはまるで無防備な笑みを浮かべている。
「ああ。着けてみて」
 幾つもの銀の輪が絡まりあって魚と月の意匠を描いているキディス。要所要所にラピスラズリがちりばめられていて、かわいらしく、けれど決してくどい印象はない。
「あの。わたしが触ってもいいんでしょうか?」
 できあがったばかりのキディスは、夜の中にあっても、ほのかな明かりの受けて白い輝きを湛えている。
「もちろん。ディーナのものだからね」
「あた……わたしの、ですか……」
 ごくりとひとつつばを飲み込んで、おっかなびっくりな様子でディーナはキディスに指で触れ、恐るおそる手に取った。
 取ったはいいが、
「―――えと。どっちの腕に着ければいいんですか?」
 手にしたままで固まるしかできない。
「できれば、左腕に。右にはライラさまのキディスがあるから」
「あ。そ、そうですね。そうですよね」
 そんなことも知らないのかと莫迦にするようなジャファールではないだろうけれど、なんとなく恥ずかしい。
 ―――が。
「あの、どっちを上にして着ければいいんでしょうか……」
「……。貸してみて」
 言われるまま、ディーナはジャファールにキディスを渡す。
(あたしの莫迦。きっと、呆れてる)
 キディスを手にしたジャファールは、模様の一部をいじって留め金を外す。
 消え入りたいと真剣に願ったディーナだったが、ジャファールに左手を取られた瞬間、思考は一気に飛んだ。
「失礼するよ」
 その言葉とともにジャファールは、するするとディーナの左上腕へと滑らせた。袖の中に入っていくジャファールの手。目の前のその光景、肌に触れる手の感触に、顔は真っ赤になってしまう。
 ジャファールは、自分がなにをしているのか自覚しているのだろうか。こんなこと、袖の中に男のひとの手が滑り込んでくるなんてこと、現実とは思えない。エル・ザンディとは違い、バハーバドルでは普通に誰もがするのだろうか?
 とにもかくにも夜でありがたかった。明るい所だったら顔が真っ赤になっているのがばれてしまう。
 かちり、とかすかな音がした。留め金が留められた音だ。
 するりと袖からジャファールの手が離れていくのを、ほっとしつつも寂しく感じてしまう自分を、ディーナは自覚せざるを得ない。
「あああの、えと。ありがとうございます」
「……」
 ジャファールは無言で、手を取ったままのディーナの腕に視線を落としていた。
 見慣れた自分のものとは違い、あまりにも細いディーナの腕に驚いていた。
(こんな細くて小さいのに、バハーバドルを支える責務を課せられているのか?)
「あの、ジャファールさま?」
「違和感はないか? 細工のどこかが痛いとかは?」
「だ大丈夫です」
 大丈夫でないのは、ずっとジャファールに手を取られている自分の心臓だ。こちらから引っ込めるのも感じが悪いし、でもこれ以上触れていたら、きっと血が上った頭が沸騰して倒れてしまう。
「儀式の場には、陛下とおれもいるから」
 なんでもないように、ジャファールは手を離してくれた。こちらは悲鳴をあげて駆けずりまわりたいほど頭が沸騰しているのに、彼はいつもと全然変わらないでいる。その余裕っぷりは感心を通り越して憎らしいほどだ。
(どうせあたしは、全然そんな対象じゃないですけどッ)
「……。聞いてた?」
「え? あ、な、なんでしたっけ……」
 他事を考えていた失態に、自分で自分を叱りつけたくなる。
「器の儀式のとき。陛下とおれも、その場にいる」
「……―――そうなんですか!」
 自分の間抜けさに落ち込みかけていたが、ジャファールの言葉に、思わず目を輝かせてしまった。儀式に出るのは、自分ひとりだけだとずっと思っていた。
 ジャファールの眼差しが、ディーナを映したままとろけるように和らぐ。
「不安だろうけど、独りきりじゃないから」
「よかった……。あの、これ、キディス。お守りにします。大切にします」
「ああ」
 室内からの淡い明かりに照らされて、ジャファールは満足そうに頷く。
 胸が、甘く震えた。
(いま……あたし、ジャファールさまとふたりきりなんだ……)
 バルコニーには、ディーナとジャファール、ふたりしかいない。中庭は静寂の闇に沈み、深い夜空には無数の星々が煌めいている。
 ふたりだけだった。
(もっと……)
 もっともっと、ジャファールと一緒にいたい。ずっとずっと、彼とこうしていたい。自分だけを見つめてもらいたい。
〈そうか〉
 耳の底に、突然響いてきた声があった。
 ―――あの声だった。
「! グリュフォーンさん?」
 想いを見透かされた気がして、一気に現実に引き戻された。
「グリュフォーン?」
 怪訝な声でジャファールが尋ねる。
「まだ話しかけてくるのか?」
「はい。相槌を打ってくるだけなんですけど」
「相槌?」
「えと、あたしの考えてることとかに」
「考えていること」
 う、と喉が固まるディーナ。
 さすがに、内容までは言えない。
 ジャファールは眉間に小さなしわを寄せ、難しい顔で考え込んでしまった。ややして、
「明日は朝が早い。不安もあるだろうが、もう休んでおくといい」
「はい……。あの、本当にキディス、ありがとうございます」
「ああ。おやすみ」
 おやすみなさいと、ディーナは頭を下げて内心逃げるようにして部屋へと戻った。

 ディーナの考えに相槌を打ったというグリュフォーン。
 いったいなにを考えていたのだろう。事実上、明日の潔斎から始まる儀式への不安に対して、グリュフォーンがなにかを答えたのだろうか。
 バルコニーの手摺にもたれ、ジャファールはディーナの戻っていった部屋の窓を見遣った。カーテンが引かれ、もちろん中の様子は窺いしれない。
 あの細い腕を思い出す。
 見慣れた自分のものとは違い、ディーナの腕はあまりにも細かった。手のひらで包み込めてしまえるほどに華奢だった。ライラの手が大きくて力強い印象だったのは、自分がまだ幼かったからだったのか。
 ライラのキディスが右腕にあることを理由に、わざと左腕にあのキディスを着けさせた。
 ディーナは知らなかったようだ。
 男が女に贈るキディス。左腕に着けてもらうのは、友情のキディスではない、ということを。
 かといって、踏み込んだ関係を意図してのことだったのかと問われると、答えに窮してしまうのだけれど。
 キディスを着ける名目で袖の中に手を差し込んだ自分に、彼女は戸惑っていた。それもそうだ。ジャファール自身、女性の袖の中に手を入れたことなどない。
 儀式の同席を伝えたときの、あの心がほどけるような晴れやかな表情が脳裏によみがえる。
 ディーナを思い浮かべるだけで、胸がほんのりとあたたかくなる。
 これ以上は越えてはならないというぎりぎりのところに、来てしまっているらしい。
(やばいよな)
 冷静にならなければ。
 深い呼吸を数度繰り返し、ジャファールは自室へと足を向けた。
 途中、イマードの部屋の前を通ると、部屋からこちらを見ていた祖父と目が合った。
 予想してはいたが、ぎくりとした。
 なにもしてはいませんよ。
 眼差しで言い訳をすると、苦い表情ながらも頷きがひとつ返ってきた。
 どこか忌々しく思いながら、ジャファールはそのまま、自室へと戻ったのだった。



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