鎖でつないで、ここにとどめて

青埜澄

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9話

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「……ノラ?」

 震えた声が、夜の静寂を裂くように響いた。
 玄関先に佇む狼は、呼ばれると小さく首を傾げた。その仕草が、靖一には“うん”と頷いているように見えた。
 次の瞬間には、もう抱きしめていた。
 厚く柔らかな毛並みに顔を埋める。自然に口から言葉がこぼれる。

「……おかえり、ノラ」

 狼の尻尾が、ぱたぱたと静かに揺れた。
 人目につけば通報されるかもしれない。
 靖一は狼─ノラを抱くようにして家の中へ入れた。まるで宝物を隠すように。
 浴室にぬるま湯を張り、ノラの身体を丁寧に洗ってやる。
 泡立てたシャンプーを毛にのせ、指でゆっくりとかしていくたび、体温と感触が掌にしみ込んでいった。
 ノラは目を細め、うっとりとした表情を浮かべていた。
 シャワーで泡を流し、タオルで水分を拭き取ると、ノラは満足げにソファの上に丸くなる。

 靖一もシャワーを浴び、リビングに戻った。
 ノラの横に腰を下ろし、静かに毛並みに触れる。
 しばらくして、言うつもりのなかった言葉が、ぽつりと零れた。

「……昨日は、悪かった」

 ノラは応えない。ただ、耳を少し動かしただけだった。

「……従兄の結婚式に行ってたんだ。ああいう場所に行くと、自分がどれだけ“まともじゃない”のか思い知らされる」  

 靖一は撫でる手を止め、目を伏せた。

「ゲイで、サディストで……誰も愛せない。そんな人間が、誰かに好かれようだなんて──おこがましいよな」

 喉が詰まり、言葉が重く沈む。

「母親にさ、“育て方間違えた”って言われた。今さらそんなこと……言われる筋合いないのに。……でも、効いたんだ。ちゃんと」

 ノラの耳がぴくりと動いた。

「──本当はさ、お前と出会った夜、死ぬつもりだった」

 その瞬間、ノラが身を寄せてきた。
 靖一にぴたりと寄り添い、その温もりを全身で伝えてくる。

「でも、“飼って”って言ったお前の言葉で……救われたんだ」

 靖一の手が、ノラの頭を撫でる。
 毛並みの感触に、ざわついた心が少しずつ落ち着いていく。

「嬉しかったよ。お前がいてくれると、自分が、世界から見放されたただのゴミじゃない気がしたんだ」

 言葉が途切れ、静寂が訪れる。だがそこには、後悔や照れではない、確かな真実があった。

「……好きなんだよ。お前といるのが」

 ノラは何も言わない。ただ静かに、靖一の隣にいた。

「……でも別に、お前が特別ってわけじゃないし。恋愛なんて、俺には必要ない」

 それは、どこか哀れで不器用な防衛線。
 その言葉で、何かを守れる気がしていた。

「……だからさ。出て行きたいなら、出て行っていい」

 そう言いながら、靖一の心は“否”を強く願っていた。
 けれど狼は、言葉を返すことも、人の姿に戻ることもせず──

 ただ静かに、靖一の腕に体を預け、目を閉じた。
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