百合の匂い

青埜澄

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6-1話

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 佑の誕生日から、十日ほど経った日の夕方。
 果物工場の更衣室には、作業終わり特有の甘ったるい匂いがこもっていて、誰かが開け放した窓からぬるい風が流れ込んでいた。汗と果汁が混ざったような匂いは、どこか喉の奥に残る。
 本来なら今日は、笠松が「上村くんの誕生日祝いに飲みに行こう」と張り切っていた日だった。
 だが当日になって、彼は申し訳なさそうに手を合わせた。
「すまん。おじさんが若者の邪魔しちゃあかんって、妻と娘に怒られてな。今日は早よ帰ってこい、ってさ」
 困ったように笑う笠松を見て、佑は胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
 何も嫌だったわけじゃない。ただ、張りつめていたものがわずかに弛んだ。
 隣で修が軽く手を振る。
「じゃあまた別の日に。無理せんでください」
 その言い方がいつも通りで、佑は内心ほっとする。
 更衣室を出ると、外の空気は湿っていて、明日にでも雨が来そうな気配を含んでいた。
「どうする?」
 元々、笠松の車で行く予定だったから、修も今日は車を置いてきている。
 足を失くした二人は、工場の駐車場でしばらく立ち尽くした。
 修はスマートフォンを見下ろし、佑は雲の切れ間から覗く夕焼けをぼんやり眺める。
 その沈黙のあいだに、修は何か提案をしてくれるだろうと佑は返事を待った。 
「佑だけなら……家で飲む?」
 修がぽつりと言った。
「うん、いいよ」
 考えるより先に言葉が出た。それが修の提案ならきっとどこであってもそう答えていた。
 二人は近くのスーパーに寄り、惣菜と缶チューハイをいくつか篭に入れた。
 年齢確認を求められて、佑は慌てて身分証を出す。ついこの前まで十九歳だったという事実が、急に遠いものに感じられた。
 外はすっかり暗くなっていた。バスを待つのも面倒で、二人は歩いて修のアパートへ向かう。夜風はまだ生温く、どこか肌にまとわりつく。
 修の住むアパートは、外壁こそくすんで年季を感じさせたが、部屋に入ると意外なほど整っていた。薄いカーテン越しにオレンジ色の街灯が揺れ、狭い室内に柔らかな陰影を落としている。
「思ったよりちゃんと一人暮らししてる」
 冷蔵庫を開けた瞬間、整然と積まれたタッパーを見て、思わず声が漏れた。
「家事歴が長いもんでね」
 冗談めかした口調だったが、修はすぐに視線を落とした。
「この前、実家帰ったらさ。家ぐちゃぐちゃで……また知らん男がおってん。母親と喧嘩して、“あんたと縁切る”って言われた」
 〝また〟という言葉が、佑の耳に残る。
 だがそれを掘り下げる勇気はなく、部屋の静けさだけがじわじわと広がった。
 佑は惣菜を並べながら、言葉を探す。
「……修は、それでいいの?」
「いいよ。俺からも縁切ったるわって出てきた。これで俺、ほんまに一人や」
 笑ってみせる横顔は、どこか張りついて見えて、佑は視線を逸らした。
 あの日、修が不機嫌だった理由はこれか──佑は憶測だがなんとなく、そう思った。
「俺がおるやん」
 言ってから、自分の声が思ったより頼りなく聞こえた。
 それ以上の言葉は出てこなかった。
「そやな。お前、俺以外に友達おらんもんな」
 修は軽く笑う。
「おるけど……」
 言いかけて、佑は頬に痛みを感じた。
 修がつねった手を振り払って言った。
「まあ、修ほど近い存在はいないよ」
 修は「ふーん」とだけ返し、缶を開ける。プルタブの音がやけに大きく響いた。
 酒を口に含むと、熱が喉の奥にゆっくり染みていく。気分が良くなる、というよりは自分の身体がアルコールに支配されていく心地がする。
 修はそれ以上、家族の話をしなかった。
代わりにバイトや大学の話を、少し面白くなるように盛って話す。佑はそれを聞きながら、けらけら笑った。
 酒が進むにつれ、テレビの音が心臓の鼓動と混ざり合い、地面の下から何かが鳴っているように感じられた。
「修、酒強いんやな」
「佑が弱すぎんねん。ほら、水。無理すんなよ」
 差し出されたコップを、佑はほとんど一気に飲む。
「ごめん……トイレ借りる」
「吐くん?」
「いや、普通に」
 廊下に出ると、古い床が小さく軋んだ。
 トイレに座った瞬間、心臓の音が一段大きくなる。
 やっぱり俺、酒弱いんかな。ぼんやり考えながら立ち上がろうとした、そのときだった。
 体がぐらりと傾き、壁に手をつく。

 ──ウィーン。

 機械音と同時に、下から勢いよく水が噴き上がった。
「え、ちょ……待って……!」
 冷たい水が太ももを打ち、跳ねたしぶきが壁に散る。
 頭が回らず、慌てて手で水の勢いを抑えようとしたが止まらない。
 咄嗟に便座に尻を落としたが、ズボンが濡れていく感覚に、余計に混乱した。
「修!ほんまにごめん!助けて!!」
 ドアが開いた瞬間、修は一度目を見開き、次の瞬間には廊下に崩れ落ちて笑い出した。
「なにしてんの……!なんでウォシュレットに打たれてんの!」
「ごめん……ほんまに……」
 必死に弁解しようとする佑の声を、修の笑い声がかき消す。その笑い声に冷静になった佑はやっと停止ボタンを押した。
「雑巾……拭くから……」
「ええって。俺がやる。濡れた服全部洗面所置いとけ」
「全部濡れた」
「……全部置いとけ。明日予定は?無いなら泊まってけ。服貸す」
 笑いの余韻を含んだ声が、なぜか優しく聞こえた。
 その優しさに、身を預けていいのかどうか、考える余裕はもうなかった。
 佑はうなずき、シャツとハーフパンツを借りて浴室へ向かう。
 シャワーを浴び、髪を拭きながら服を着た瞬間、ふわりと鼻先をくすぐる匂いがした。
 修がいつも着ている服の、洗剤と体温が混ざったような匂いだった。
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