百合の匂い

青埜澄

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11話

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 修はスマートフォンをポケットに戻しながら、少し考えるような間を置いた。
「じゃあ……バイトは急に休めんから、終わるまで待ってる?かなり遅くなるけど」
 問いかけというより、確認に近い声だった。
 佑は一拍だけ迷ってから、うなずいた。
「うん」
 修は鍵束を取り出し、そこから一本を外して差し出す。
「勝手にくつろいでてええから。もし気が変わったら、ポストにでも入れといて」

 自転車で向かう道すがら、夜の空気が肌にまとわりついた。
 昼間の熱を抱えたまま逃げ場を失った湿気が、まとわりつくように重たい。
 アパートの前まで来て、部屋番号があいまいであることに気づく。けれど階段を上がり、三つ目のドアの前に立ったとき、不思議と迷いはなかった。鍵を差し込み、ゆっくり回す。
 ガチャリ、と音がして、胸の奥がわずかに緩む。
 玄関に入ると、前よりもはっきりとした生活の匂いがした。
 脱ぎ捨てられた靴、床に転がるリュック。
 部屋の奥には、たたまれていない洗濯物が小さな山になっている。
 そこに混じる、最近の修の匂い――タバコの匂いが、侵入者を拒むように漂っていた。
 佑は少し立ち止まり、それから無意識のうちに洗濯物へ手を伸ばしていた。
 一枚ずつ広げ、整え、畳む。
 一緒に買いに行ったシャツを見つけて、指先が止まる。
 気に入ってよく着ていたはずなのに、しわが寄っている。
 佑はそのしわを、何度か撫でるように伸ばしてから、丁寧に畳んだ。

 机の上のタバコのケースと灰皿が目に入る。
 指で軽く弾くと、ケースは小さく音を立てて滑った。
 生きてもいないそいつに向かって少しいい気味だ、と思った。
 灰皿も同じように弾くと、今度は指に鈍い痛みが返ってきた。思わず息を吐く。
 コンビニで簡単に夜ご飯を済ませ、動画を流しているうちに、時間は思ったより早く過ぎていった。

 十時を少し回った頃、インターフォンが鳴る。
 佑は、かつての記憶にいるゴールデン・レトリバーのように、実際にはない尻尾を振りながら玄関へと向かい、鍵を開けた。
「ただいま」
 修はコンビニの袋をぶら下げていた。中には弁当が二つ入っている。
「佑も俺が食べてたら腹減るかと思って」
「ありがとう」
 部屋に入るなり、畳まれた洗濯物に気づいて目を丸くする。
「うわ、すご。えらいな」
 子どもに言うみたいな口調だと思った。けれどそれも嬉しかった。
 テレビをつけ、音量を落としたまま弁当を食べ始める。
 修はぽつぽつと愚痴をこぼした。
「果物工場が一番きついわ。正直」
 箸を止めたまま、修がぽつりと言う。
「俺、来月でやめようと思ってる」
 佑は一瞬、言葉を探した。
 悪い予感というのは当たるものだ。
「……そっか」
 息を整えるように間をつくってから続ける。
「無理してるの、気づいてた。修が元気でいてくれるなら、それが一番やから……止めへん」
 修は何も言わずにうなずいた。
 泣いているようにも見えて、佑は視線を外す。
 もう一つのバイトは楽しいらしい。
 先輩が優しいとか、飲みに連れていってくれるとか、そんな話をする。
 佑は相槌を打ちながら、自分とは交わらない世界だと思って聞いていた。
 たばこを吸うようになったのも、その人たちの影響だろうか。
 そう思って、口に出しかけた言葉を飲み込む。
「佑にも紹介しよか? 同い年多いし……大学の近くやから、ちょっと遠いけど」
「俺はいいよ」
 佑がそう言うと修は最初から分かっていたみたいに「だよな」と言った。

 部屋の灯りを消すと、エアコンの音と、遠くの車の走行音だけが残った。
 暗闇の中で、佑は天井を見つめたまま口を開く。
「……昔な、好きやった先生に、百合の花に似てるって言われたことあって」
「ふーん」
「それで百合が好きになってさ。けど最近気づいたんやけど、あれ、近づきすぎると匂いがきついやろ。だからちょっと離れたところから見てるくらいが丁度いいんじゃないかって思うようになって」
 言葉を選びながら、続ける。
「だから……みんな離れていくのも、仕方ないんやと思ってる」
 しばらく沈黙が落ちた。
「どういうこと?」と修が笑い混じりに言う。
「佑って、ほんま急にわけわからんこと言うよな。そんで、急に変なこともするし。ほんまお前みたいなやつおらんって」
 そう言って、思い出したように笑い出す。
「この前来たときも、ウォシュレットをさ‥‥‥」
 つられて、佑も小さく笑った。
 そのまま他愛ない話が続き、いつの間にか眠っていた。

 翌朝、佑は先に目を覚ました。
 身支度を整えていると、背後から声がした。
「もう出るん?」
 修は目をこすり、腕で目元を隠したまま言った。
「……うん」
「昨日はありがとうな。帰ったら佑がおるって思ったら、頑張れた」
 佑は返事をせず、ドアノブに手をかけた。
「じゃあ」
 そう言って、静かに扉を閉めた。
 その背中に、引き留める声はなかった。
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