王子妃だった記憶はもう消えました。

cyaru

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クロヴィスの手、裏と表

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離宮は王妃の言った通り空気の良い場所だった。
何もない辺鄙な地かと思えば、王妃の離宮にも面した湖があるからか避暑地として高位貴族も別荘を持っているようで、そこに雇われている者達が住む小さいが賑やかな街も少し離れた場所にあった。

あるじが訪れなくても雇われている使用人達は毎日【調理】以外は同じ事の繰り返しであっても別荘を清潔に保ち、庭木を手入れして誰に見られる事も無い季節の花を咲かせ、時に花瓶に挿す。

到着しまだ1か月も経たず、ここの生活に慣れるか慣れないかの頃。耳を疑う知らせが飛び込んできた。
衝撃的な知らせを長旅で体調を崩したシルヴェーヌに伝えるべきかクロヴィスは悩んだ。

伝えようと決意をしたのは、専属で離宮全般の管理を取り仕切っているハリスの言葉だった。

「シルヴェーヌ様、お話が御座います」
「どうしたのです?難しい顔をして」

年齢の近しいメイド達と和気藹々で寝台でも出来る編み物をしていたシルヴェーヌは手を止めた。クロヴィスの険しい顔にメイド達は「休憩用の茶の準備をする」と席を外した。
退室していくメイドの背が廊下に出るとクロヴィスは寝台に近寄り小さな声で告げた。


「国王陛下、王妃殿下が毒を盛られたと。両殿下、ベラ様共に予断を許さぬ状況」


毛糸の入った籠に編み棒を仕舞っていたシルヴェーヌは手の動きを止めた。
クロヴィスは続けた。

「王都に行ってきます。早馬なら3日、往復1週間かかりますがハリス氏に伺ったところ、湖の対岸まで自分で舟を漕がねばなりませんが対岸からは早馬で1日かからないそうです」

「舟を漕いだことはあるのですか?」
「騎士の演習の時に。若い頃に湖で川漁師をしていた庭師を付けてくれるそうです。湖と言えど水の流れがありますのでそれに乗れば対岸までは4、5時間と聞きます。復路は流れに逆らう事になるので倍はかかるでしょうが、それでも往復3日あれば行って帰れる筈です」

「解りました。ですが無理はしないように」

事情が事情だけにクロヴィス以外では何も情報が解らないままただ王都に行って戻るだけとなってしまう。ハリスに行かせる案が無かったわけではないが、ハリスは70歳を超えた高齢。
早馬には乗れず、庭師が1人で舟を漕いでも倍の日数はかかるだろう。

まだ離宮に来て1カ月にもならないと言うのに不穏な知らせにクロヴィスは王都に向けて出立した。




そして見計らったように招かざる客が早々にやって来た。
予定ではクロヴィスはもう王都を後にして早馬を飛ばしているか、流れに逆らい舟を漕いでいるか。だが予定はあくまでも予定。両陛下が毒殺未遂とあれば混乱は必須で情報収集に時間がかかっているかも知れない。

シルヴェーヌは彼らに会う事を決めた。
会わねば深夜に湖を泳いででも離宮に侵入してきそうな勢いだったからだ。

招かざる客はクディエ公爵家の当主ランヴェルとその妻リベイラだった。
抜糸をしても本調子ではない中、11日馬車に揺られたシルヴェーヌは寝台に上体だけを起こした状態で彼らを出迎えるしかなかった。


「元気そうじゃないか。安心したぞ」
「お気遣いありがとうございます。ですがまだ何も思いだせず――」
「何を言ってるの?貴女は第二王子ディオン殿下のお妃様なのですよ?忘れました、思い出せませんで通用すると思っているの?嘘でも思い出したと言うのが王子妃という者でしょう!」

「怠慢もいいところだな。王子妃になって穀潰しの本領発揮か」
「努力はしているのですが…」

「貴女の努力などせいぜいこんなもの。まぁいいわ。一緒に住めば何か進展もあるでしょう。感謝なさいな。親を敬ってこそ子の鏡。暫く世話をしてあげる」




ランヴェルとリベイラは公爵という立場はあるものの、その日食べるものにも事欠き、売れる物は全て売った。住んでいた屋敷と土地、公爵領が知らぬ間に担保にされ金を借りられていた事を知ったのは1カ月ほど前の事だ。
それよりもさらに1か月ほど前に敷地内で火事があり、金のない2人はせめて外壁だけでも修理をしたいとセレスタンに願おうとしたら、そのセレスタンがいなくなっていた。

やっと悪魔が去った!これで自由になれる!
そう思い、執務室に置いてあった現金で1カ月ほど豪遊したが屋敷にやってきた債権者たちに『金を払え』と書類を突きつけられた。セレスタンがランヴェルの名で借りた金の借用書の山だった。

ランヴェルは地団駄を踏んで悔しがった。何もかも奪われ支払日は火事のあった翌日が1回目。債権者たちも気の毒に思い1回目の支払日だしと仏心を出して催促するのを見送った。そんな事は露とも知らずランヴェルとリベイラは豪遊したのだ。だとすれば2回目の支払い日に債権者が遠慮をする筈はない。

セレスタンはそれも見越して金を借りていた。多少の現金があればランヴェル達が羽目を外す事も、債権者たちが火事を気の毒に思う事も全て計算済み。放火ありきの計画だったのをランヴェルは悟った。

『払えないなら金になる物を契約通り、代替品として受け取るだけだ』

文字通り身ぐるみ剥がされたランヴェルとリベイラは【釣りだ】と僅かばかりの金を渡された。途方に暮れたところにシルヴェーヌが王妃の離宮に住まいを移した事を小耳に挟んだ。

2人は1カ月かけて着替えの服が入ったトランク1つだけを持って、荷馬車を乗り継ぎ、時に野宿をしながらシルヴェーヌを追うようにここまでやってきたのだ。
2人が王都を出て、10日ほど経った時に起こった毒殺未遂事件を2人は知らなかった。




「私も王妃様に面倒を見てもらっている身です。あなた方をここに置く事は出来ません」

ハッキリと言い放ったが、2人はその言葉を何処吹く風と聞き流す。

「湯あみがしたいわ。それから仕立て屋を呼んで頂戴。出来るまでは仕方ないからここにある王妃様のドレスを。田舎の仕立て屋だけれど暫くは我慢するわ」

「腹が減った。食事の準備をしろ。ワインは最高の白を用意するんだ。今日は田舎料理で我慢が明日からは王都でも隣国でもいい。腕のいいシェフを用意しろ」

「何も致しません。お引き取りを」
「シルヴェーヌ。聞こえなかったのか?私がやれと言ってるんだ」
「そうよ。ここで親に恩を返さずに何処で返すと言うの」
「あなた方の事は何も覚えておりませんので親と言われても首を傾げるしか御座いません。お引き取り下さい。滞在については王宮に確認を致しますので、その結果をお伝えします」

頑として2人の滞在は許可しない、出ていけというシルヴェーヌにランヴェルは声を荒げた。

「この役立たずが!ほうけるふりも大概にしろ」
「いい加減にして頂戴。いったい幾ら貴女にかかっていると思っているの」

勢いをつけて寝台に突進してきたランヴェルはシルヴェーヌの肩を掴んで「思い出せ」と前後に大きく体を揺さぶった。

「手を離しなさい!帰れと言っているのです」

強気な言葉を口にするシルヴェーヌにランヴェルは手をあげた。
パンっと乾いた音と共に、口の中に血の味が広がっていく。

「何をしてるんだ!」

息を切らせて部屋に飛び込んできたのはクロヴィスだった。肩で大きく息をするからか上下に体が揺れている。両手のひらの皮はめくれて血が滴っているのは必死に舟を漕いだのだろう。

その場で抜刀しそうな勢いにランヴェルとリベイラはおののいた。
ランヴェルと寝台の間に身を置いたクロヴィスの怒気に押されてランヴェルは後退あとずさった。

廊下に出たのだろう。シルヴェーヌの視界から消えた2人は奇妙な声をあげた。
大きなカエルが鳴くような「グエグエ」に似たような音しか聞こえないシルヴェーヌには何が起こっているかわからなかった。クロヴィスとハリスが何かを話しているようだがハッキリと聞き取れない。




扉の向こうが静かになって半刻ほど。クロヴィスが部屋に入ってくるなり項垂れた。

「すまない…また間に合わなかった」

メイドが濡れた布で頬を冷やしていたシルヴェーヌに途中まで手を差し出してクロヴィスはその手をサッと後ろに回した。シルヴェーヌはその手を出せと告げた。

悪戯をして叱られた子供の用にシュンとなって手の甲を上に握ったままで手を差し出すクロヴィスに手を広げて手のひらを上に向けなさいとシルヴェーヌは諭すように言った。

「これでは剣が握れなくなるではありませんか。無理はしないでと言ったのに」

ボロボロになった手のひらはメイドが咄嗟に顔を背けるくらい痛々しかった。
豆が潰れるどころではなく、皮がなく血まみれになった手、広げてはいるが櫓を強く長い間握っていたのか指も真っ直ぐにはなっていなかった。

「指先まで…こんなになってしまって…痛いでしょう?」
「貴女の張られた頬の痛みに比べればこんなものは蚊に刺されるよりも軽い」
「そんなはずないでしょう?!私の前では強がらないでくださいませ」

ヒュっと息を飲んだクロヴィスは小さな声でポツリと呟いた。

「ほんとは‥‥痛いです」

クロヴィスが口を尖らせて、少し拗ねて顔を背けた。
駆け付けた時からは呼吸ももう落ち着いているが、耳まで真っ赤になっている。

「ふふっ‥‥ふふふっ…」
「笑わないでください」

本当に強がらずに、本心を言うとは思わなかったシルヴェーヌは思わず笑ってしまうと同時に涙が頬をつたった。クロヴィスの表情にじんわりと広がる心地よい胸の奥の温かさと、痛みをものともせずに駆け付けてくれたクロヴィスの行動に忠誠を誓う者以上の気概をシルヴェーヌは感じた。



〇●黒いクロヴィス●〇

「やめてくれ…こんなところ…」
「お願い。助けて…」

懇願する2人を中途半端な位置にある鉄格子の扉を開くとその中に蹴り飛ばした。
ドボンと水音がする。深さは人の背丈の数倍。底はぬめよどんで何も見えない。

湖に面した王妃の離宮。地下にあるここ数代使われていない
入り口となった鉄格子を掴んでいなければ体が浮くか沈むか。
水槽になった牢に2人は放り込まれた。

足元を見下ろすでもなくクロヴィスは薄く笑った。

「死ぬまで頭を冷やせる極上の部屋を用意した。堪能して頂けると幸いだ」

年老いたハリスは丁寧に礼をした。

「飲み物だけは十分にご用意致しましたので心ゆくまでお楽しみください」

クロヴィスとハリスは振り返る事もなくを後にした。
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