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★固いパンと幼児返り
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湿った寝台に横たわるフリライムは、窓のない部屋で唯一開く扉の隙間の灯りで夜を数えた。
自分を入れて4番目の妻がどうやら本宅に住まいを移したようで使用人達もフリライムの元へはおいそれとやって来られない。スクラープとの情事の最中を狙って調理見習いが切れ込みを入れたパンに野菜や肉を挟んだ簡素な食事と竹の筒に入った水を数本持ってきた。
その他に固めに焼いたパンを持ってきた。柔らかいパンはどうしてもカビが生えてしまうし、2日目となるとパサパサになってパンくずが酷く落ちるのだ。
食事を供給された事が見つかる可能性もあるし、人は通れなくてもアリなどの虫は隙間を通って来る。そのためミルクを使わずにその分少なめの水で捏ねたパンを使用人はわざわざ焼いてくれたのだろう。
そのパンは日持ちがするのだ。柔らかくするものは水しかないが、使用人が来られない日はそれで飢えが凌げる。問題は折角固く焼いてくれているのに、隠しておく場所が湿った寝具しかない事に泣きたくなる。
だが、固いパンを一口齧ったフリライムの目には涙が溢れた。
エフローレを孤児院から引き取った時、エフローレは食事で提供されるパンをいつも半分隠して部屋に戻って行った。聞けば孤児院ではいつも食事が出されたわけではなく、3日で2食だったという。
多めにパンが渡される日に子供たちは食事がない日の分に半分残して取っておく。
聞いた時には胸が締め付けられた。
そして、小麦と塩が手に入った時は父に焼いていたというパンを焼いたエフローレ。
ミルクは高価で買う事が出来ず、水で捏ねたパンは固かった。
エフローレが焼いたパンと同じく固いパン。口の中でしばらく咀嚼をしなければ飲み込む事さえ苦痛なほどの固さだが、【上手に焼けた】と笑ったエフローレを思い出しゆっくりと味わった。
使用人が来ることが出来なくなり4日目。この部屋に入れられて10日目だった。
外からしか開かない扉が開き、立っていたのは夫であるスクラープだった。
悲し気にくしゃりと顔を歪め、ゆっくりと部屋の中に入ってくるとフリライムの前に跪き、頭を垂れた。
テーブルも椅子もない部屋にあるのは湿った寝具のある寝台だけ。
そこに腰掛けたフリライムの膝にスクラープは縋った。
「ライム‥‥愛してるんだ。君だけをずっと愛しているんだ」
跪いたスクラープはフリライムの膝を手で包むようにして撫でながら、太ももに頬を付け髪を手櫛ですいてくれと強請った。幼い頃から両親の愛は当主を継ぐ前に事故で亡くなった兄に向けられてスクラープは独りぼっちだった。
そのせいか無意識に母を求める気持ちが女性への執着心に変わった。
女遊びが酷かったのも、常に自分を受け入れてただ甘やかしてくれる女性を求めての事だ。娼館の女は金を払えばなんでもしてくれる。
欲を発散させる事もあったが、半々で幼子になり切ってただ母に甘える子供として一晩を過ごしたり、一晩中添い寝だけを要求したりすることもあった。
その欲求を満たしたのが、フリライムの次に娶った娼婦だった妻である。
しかし、妻となれば娼婦とは違い欲求をスクラープに突きつけてくる。
妊娠を期に、スクラープはまた別の女の元に走った。
そんなスクラープだが、領地に行って物理的に戻れない日は別として1日1回は必ず屋敷に戻ってきてフリライムの側にいる時間を設けていた。
フリライムに対しては、性の発散が出来なかった頃に婚約者として人には見せられない姿を曝け出し、受け入れてもらい、時に叱ってくれた事で、なくてはならない存在になっていたのだ。
スクラープにとってフリライムは【妻】であり【母】であり【無条件に受け入れてくる神】に等しく、精神的に不安定な時は特に自分を肯定してくれと強請る。
だが、それも一番若い妻が来て、一変した。
フリライムの元に来ない日が続き、人に当たり散らすようになった。
手櫛ですく髪から甘い匂いがする。湯あみの石鹸ではない。
あのタバコの葉の香りである。いや、葉に沁み込ませた薬液の香りなのだろう。
いつも兄と比べられていたスクラープ。
母親に似て美丈夫な顔立ちに、父親譲りの体躯をした兄はいつも女性に囲まれていた。
対してスクラープは醜男とまでは言わないが、美丈夫ではなかった。
兄に似せようと男ながらに化粧をするようになったスクラープは美への関心が異様なほどになっていった。しかし今、フリライムの太ももに頬を乗せ、甘えているスクラープにその面影はない。
目は落ちくぼみ、隈が暗く影を落とし、頬もこけて唇の色もドス黒い。
明らかに薬物中毒である。
「ライム‥愛してると言ってよ…僕の事を愛してる?ねぇ…」
「・・・・」
「何か言ってよ。意地悪をしないで?僕だけのライム…あぁ…」
今、スクラープに薬が効いているのかは判らない。
こうやってただ肯定の言葉を欲し、髪をすき、撫でるのを要求する時はスクラープが大きな不安を抱えている時である。長い付き合いなのだ。幼児化している時は、例えるなら死とはなんだろうと考えるような不安だが、成人男性としての物言いをする時は精神的にも追い詰められた切羽詰まった時と言った方がいいだろうか。
この状態のスクラープは性的な事は絶対に要求してこない。
ただ、甘やかして、髪を撫でて不安を誤魔化して欲しいだけなのだ。
一頻り甘えたスクラープは恍惚とした表情になり部屋から出て行った。
扉の向こうに一番若い妻の声が聞こえる。
鍵のかかる音と、フリライムが寝台に倒れ込む音は同時だった。
自分を入れて4番目の妻がどうやら本宅に住まいを移したようで使用人達もフリライムの元へはおいそれとやって来られない。スクラープとの情事の最中を狙って調理見習いが切れ込みを入れたパンに野菜や肉を挟んだ簡素な食事と竹の筒に入った水を数本持ってきた。
その他に固めに焼いたパンを持ってきた。柔らかいパンはどうしてもカビが生えてしまうし、2日目となるとパサパサになってパンくずが酷く落ちるのだ。
食事を供給された事が見つかる可能性もあるし、人は通れなくてもアリなどの虫は隙間を通って来る。そのためミルクを使わずにその分少なめの水で捏ねたパンを使用人はわざわざ焼いてくれたのだろう。
そのパンは日持ちがするのだ。柔らかくするものは水しかないが、使用人が来られない日はそれで飢えが凌げる。問題は折角固く焼いてくれているのに、隠しておく場所が湿った寝具しかない事に泣きたくなる。
だが、固いパンを一口齧ったフリライムの目には涙が溢れた。
エフローレを孤児院から引き取った時、エフローレは食事で提供されるパンをいつも半分隠して部屋に戻って行った。聞けば孤児院ではいつも食事が出されたわけではなく、3日で2食だったという。
多めにパンが渡される日に子供たちは食事がない日の分に半分残して取っておく。
聞いた時には胸が締め付けられた。
そして、小麦と塩が手に入った時は父に焼いていたというパンを焼いたエフローレ。
ミルクは高価で買う事が出来ず、水で捏ねたパンは固かった。
エフローレが焼いたパンと同じく固いパン。口の中でしばらく咀嚼をしなければ飲み込む事さえ苦痛なほどの固さだが、【上手に焼けた】と笑ったエフローレを思い出しゆっくりと味わった。
使用人が来ることが出来なくなり4日目。この部屋に入れられて10日目だった。
外からしか開かない扉が開き、立っていたのは夫であるスクラープだった。
悲し気にくしゃりと顔を歪め、ゆっくりと部屋の中に入ってくるとフリライムの前に跪き、頭を垂れた。
テーブルも椅子もない部屋にあるのは湿った寝具のある寝台だけ。
そこに腰掛けたフリライムの膝にスクラープは縋った。
「ライム‥‥愛してるんだ。君だけをずっと愛しているんだ」
跪いたスクラープはフリライムの膝を手で包むようにして撫でながら、太ももに頬を付け髪を手櫛ですいてくれと強請った。幼い頃から両親の愛は当主を継ぐ前に事故で亡くなった兄に向けられてスクラープは独りぼっちだった。
そのせいか無意識に母を求める気持ちが女性への執着心に変わった。
女遊びが酷かったのも、常に自分を受け入れてただ甘やかしてくれる女性を求めての事だ。娼館の女は金を払えばなんでもしてくれる。
欲を発散させる事もあったが、半々で幼子になり切ってただ母に甘える子供として一晩を過ごしたり、一晩中添い寝だけを要求したりすることもあった。
その欲求を満たしたのが、フリライムの次に娶った娼婦だった妻である。
しかし、妻となれば娼婦とは違い欲求をスクラープに突きつけてくる。
妊娠を期に、スクラープはまた別の女の元に走った。
そんなスクラープだが、領地に行って物理的に戻れない日は別として1日1回は必ず屋敷に戻ってきてフリライムの側にいる時間を設けていた。
フリライムに対しては、性の発散が出来なかった頃に婚約者として人には見せられない姿を曝け出し、受け入れてもらい、時に叱ってくれた事で、なくてはならない存在になっていたのだ。
スクラープにとってフリライムは【妻】であり【母】であり【無条件に受け入れてくる神】に等しく、精神的に不安定な時は特に自分を肯定してくれと強請る。
だが、それも一番若い妻が来て、一変した。
フリライムの元に来ない日が続き、人に当たり散らすようになった。
手櫛ですく髪から甘い匂いがする。湯あみの石鹸ではない。
あのタバコの葉の香りである。いや、葉に沁み込ませた薬液の香りなのだろう。
いつも兄と比べられていたスクラープ。
母親に似て美丈夫な顔立ちに、父親譲りの体躯をした兄はいつも女性に囲まれていた。
対してスクラープは醜男とまでは言わないが、美丈夫ではなかった。
兄に似せようと男ながらに化粧をするようになったスクラープは美への関心が異様なほどになっていった。しかし今、フリライムの太ももに頬を乗せ、甘えているスクラープにその面影はない。
目は落ちくぼみ、隈が暗く影を落とし、頬もこけて唇の色もドス黒い。
明らかに薬物中毒である。
「ライム‥愛してると言ってよ…僕の事を愛してる?ねぇ…」
「・・・・」
「何か言ってよ。意地悪をしないで?僕だけのライム…あぁ…」
今、スクラープに薬が効いているのかは判らない。
こうやってただ肯定の言葉を欲し、髪をすき、撫でるのを要求する時はスクラープが大きな不安を抱えている時である。長い付き合いなのだ。幼児化している時は、例えるなら死とはなんだろうと考えるような不安だが、成人男性としての物言いをする時は精神的にも追い詰められた切羽詰まった時と言った方がいいだろうか。
この状態のスクラープは性的な事は絶対に要求してこない。
ただ、甘やかして、髪を撫でて不安を誤魔化して欲しいだけなのだ。
一頻り甘えたスクラープは恍惚とした表情になり部屋から出て行った。
扉の向こうに一番若い妻の声が聞こえる。
鍵のかかる音と、フリライムが寝台に倒れ込む音は同時だった。
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