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王女、リシェル
しおりを挟む風が冷たい。
ルミナリアに入ると、かつての王宮を包みこむように灰色の霧が漂っていた。
石畳の割れ目からは雑草が伸び、崩れた塔の残骸が遠くに見える。
リシェルは馬を止め、静かにその光景を見つめた。
五年前、すべてが終わった場所。
そして、まだ終わっていなかった場所。
(お兄様が関わっているのなら。私が、全て終わらせないといけない。私が、私の手で。全てを終わらせる。そうしないと、この悪夢は終わらない)
夢で見た、両親の言葉を噛み締める。
"レオンを救い出してくれ"
それは、どういう意味なのだろうか。
「……なあ、リシュ」
隣で馬を木に繋ぐカイが、低く口を開く。
声にはいつになく真剣な色があった。
「そろそろ、本当のことを聞かせてくれないか」
リシェルの手が止まる。
風が彼女の髪を揺らした。
「お前の過去も、"黒炎"との関係も……全部、何かあるんだろ」
カイの言葉は優しさよりも、焦りに近かった。
「このままじゃ、また――」
「……まだ全ては話せません」
短く、けれどはっきりとした声だった。
カイの眉が動く。
「なに?」
「今、話したら……隊長を巻き込むだけです」
「何を今更。もう十分巻き込まれてる」
即座に返され、リシェルの喉が詰まる。
彼女は俯きながらも、まっすぐに言葉を紡いだ。
「……あの日、この場所で全てが終わり、全てが始まりました。男として生きていくと決めたのは、五年前の黒炎の日。ルミナリアが滅び、団長に拾われた時です」
「……」
「その時、決意しました。ルミナリアで育った自分自身を捨てて、男として生きると。そして、強くなりあの日の真実をこの手で確かめると。あの日、目の前で家族が死にました。あの黒炎に呑み込まれたのです。どうしてあんなことが起こってしまったのか、あともう少しで全てがわかりそうなんです。だから私は、行かなければならない。……たとえその先で、何が待ち受けていて、私がどうなったとしても」
その瞳は、まるで炎のように静かに燃えていた。
何かを決意した者の目。
カイは言葉を失い、ただその視線を見つめ返す。
そして、小さく息を吐いた。
「……わかった。もう聞かねぇ」
肩の力を抜き、剣の柄を軽く叩く。
「お前が行くなら、俺はついていく。それだけだ。悪かったよ」
リシェルは目を瞬かせ、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます、隊長」
──そして、申し訳ありません。
その言葉は飲み込んで、前を向く。
向かう先は、王宮の奥。
灰の匂いが漂う風の中、二人は並んで歩き出した。
崩れ落ちた城の王の間には、湿った空気と錆の匂いが満ちていた。
壁には無数の魔法陣が刻まれ、今はそのどれもが淡く輝きを失っている。
長い年月を経て、ここはまるで牢のような空間になってしまっていた。
そこに――ひとりの男が、鎖に繋がれ玉座に座り込んでいた。
リシェルと同じ金色の髪。やせ細った頬には痛々しいあざができ、黒いローブは所々破れている。
しかしその面影を、リシェルは一目で見抜いた。
「……あ、れは……」
その声に、鎖の男がゆっくりと顔を上げる。
薄く開いた瞳に光が宿る。
けれど、それは懐かしさでも喜びでもなかった。
ただ、痛みを押し殺したような、静かな絶望の色。
「誰だ……お前は」
掠れた声が落ちる。
次の瞬間、リシェルの後ろで鋭い金属音が響いた。
「離れろ、リシュ!」
カイが一歩前に出て、剣を抜く。
その刃先は、真っ直ぐ男の喉元へ。
「隊長、待ってください!」
「魔導士の生き残りだ! 放っておけるか!」
怒鳴るように返すカイの腕を、リシェルが必死に掴む。その手は震えていた。けれど、目だけは逸らさなかった。
「違うんです……私が、探していたのは……この方なんです」
「……なんだと?」
カイの声が低く揺れた。
そして鎖の男――レオンの瞳も、驚きにわずかに開かれる。
「私を……探していただと?」
「はい」
五年ぶりに交わす声は、驚くほどに静かだった。
けれど、その奥に宿る決意は、炎のように揺らがなかった。
「どうしてだ」
「確かめたかったからです。五年前の、あの忌まわしい夜を。――そして、今回のヴァルデンでの黒炎の事件を。あれらすべてに……あなたが関わっているのかどうかを」
カイが息を呑む。
レオンはしばらく沈黙し、それから苦く笑った。
「……そうか。結局ヴァルデンで黒炎が起こってしまったのか」
「はい」
「そうか……」
後悔が滲むような声に、二人は戸惑う。
「そして、お前も黒炎の関係者というわけだな」
「ええ、そうです」
「ルミナリアの生き残りか? それとも今回のヴァルデンの生き残りか」
「……どちらもです」
リシェルの返事に、わずかにレオンの目が見開かれた。
「そうか。なら……尚更俺が憎いだろう。殺せ」
「……なにを……」
「殺したいほど憎いだろう? だったら、今すぐ殺せばいい」
「……」
「俺は結局、何も守れなかった。自分の家族も、国も、民も、ヴァルデンも。何ひとつ、守れなかった。そんな大罪人の俺を、殺さない理由などないはずだ」
「っ……!」
リシェルは歯を噛みしめた。
衝動のままに剣を抜き、レオンの喉元へ突きつける。
刃が、震える。レオンの目がそれを静かに見つめ返す。
「どうした。斬れ。……斬らないのか?」
「っ……」
「なら、死ぬ前に……ひとつだけ頼みがある」
「……頼み?」
震える手を、今にもどうにかなってしまいそうな心を、すんでのところで抑える。
しかし。
「妹に……伝えてくれないか」
「な、にを……」
「すまなかった、と」
「……なっ……!?」
それを聞いて、喉が凍りついた。
レオンの言葉が、胸を抉るように響いた。
「私のせいで……本当に、すまなかったと」
リシェルの手から、力が抜けた。
剣が床に落ち、金属音が静寂に響く。
次の瞬間、リシェルはレオンに駆け寄り、その胸ぐらを思い切り掴んだ。
「――すまなかった? それだけ? 本当にそれだけですか?」
「え……?」
「"すまなかった"!? この五年間が……そんな陳腐な言葉で済むとでも思っているのですか!」
「リシュ、落ち着け!」
カイが制止するが、もう彼女の声は止まらなかった。
「あの日! 目の前でお父様とお母様が炎に呑まれた。そしてお兄様も、あの黒炎に……! 私は、生きろと言われて……あなたに生きろと言われて! その言葉だけを胸に、五年間、生きてきたんです! 必死に、苦しみながら、もがいて、血を流しながら、どうにか生きてきた! それを、"すまなかった"!? そんな言葉で、私の五年間を終わらせようとするな!!」
怒鳴り声が地下に響く。
レオンは息を呑み、その瞳が揺れた。
その言葉――"生きろ"という言葉を、自分がかつて命より大切な妹に言った記憶が蘇る。
「私は……私はっ……お兄様の言葉だけが、頼りだった。"生きろ"と。お兄様のその言葉だけを胸に、生きてきたのに! そのお兄様が、すべてを諦めて私に謝る!? 殺せと言う!? どういうつもりなんですか……! 私の五年間を、どこまで馬鹿にすれば気が済むのですか! それじゃあ、私は一体……何のためにここまで来たんですか!! あの日の真実を知りたい、その一心で、ようやくここまで来たのに……!」
涙が頬を伝う。
その声に、カイは息を呑み、レオンは凍りついたように動けなかった。
「……教えてください、お兄様。私は……間違っていたのですか。私は……生きていて、良かったのですか……?」
「ま、まさか……」
「お兄様。どうして、お父様とお母様は死ななければならなかったのですか。どうして、黒炎に呑み込まれたはずのお兄様が……こうして生きているのですか!」
レオンの唇が震え、やっと言葉が漏れた。
「まさか……お前……」
リシェルは震える声で、答えを返す。
「そうです! 私は! あなたが"生きろ"と命をかけて守ってくださった! あなたの妹であり、この国の王女!
──リシェル・ルミナリアです!」
その叫びに、誰もが息をすることができなかった。
リシェルの目から、大粒の涙が止めどなくこぼれ落ちた。
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