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覚悟
しおりを挟む夜の静寂の中、馬の鼻息と革袋の擦れる音だけが響く。
リシェルは手早く荷をくくりながら、指先に力を込めた。その横で、レオンが黙って手綱を整えている。
互いに言葉はなかったが、夜の静けさがすべてを語っていた。
「団長に挨拶してくるよ。……すぐ戻るから」
レオンが低くそう言い、背を向ける。
リシェルは小さく頷き、兄の背が闇に消えるのを見送った。
――その時だった。
「……やっぱり、夜中に出ていくつもりだったんだな」
背後から聞こえた声に、リシェルの肩がわずかに震えた。
振り返ると、月明かりの中にカイが立っていた。
彼の瞳は、暗闇の中でも真っ直ぐで、どこか怒りと寂しさを孕んでいた。
「隊長……どうして」
「どうしても何も、お前の考えることは大体わかってるつもりだ」
リシェルはカイに見つからないうちに出て行こうと思っていたのに、それすらも読まれていたよう。
悔しいやら、嬉しいやら。
「だって、出発するって言ったら、きっと隊長はついてこようとするから」
「当たり前だろ」
至極当然のように呟いたカイ。ふとリシェルがそんなカイの姿をよく見てみると、すでに旅支度を終えているようだった。
「俺も行く」
「なっ……」
リシェルは息を呑み、すぐに首を振った。
「何を言っているんですか。あなたはこの国を――」
「あぁ。捨てることになるな」
「ふざけないでください!」
声が震えた。
「……ふざけてねぇよ」
リシェルの手が、荷の紐を掴んだまま止まる。
「だって……! あなたには居場所がある。仲間がいて、傭兵団が──!」
「お前がいなきゃ、意味ねぇだろ」
「……え」
「いくら居場所があったって、いくら求められていたって、どんなに信頼できる仲間がいたって、頼りにされたって。俺は、お前がそばにいなきゃ。お前が隣にいてくれなきゃ。俺にとってはなんの意味もないんだよ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
リシェルは息を呑み、目を見開く。
「……そんな、勝手な……」
「勝手上等。俺は決めたんだ」
「だって! 傭兵団はどうするんですか!」
「辞めてきた」
「な……ん、で」
「なんでって。お前と一緒に行くためだろ。そもそも、お前が退団願を出した時、俺も出してるんだ。保留になってたのが正式に受理されただけだ」
「そんな……」
初めて知る事実に、驚きを隠せない。
カイが一歩、二歩と近づく。
焚き火の明かりが彼の横顔を照らし、その決意をはっきりと映し出した。
「何度も言わせんな。――俺はお前のそばにいる。それだけだ」
リシェルは必死に言葉を返す。
「私は、あなたを巻き込みたくないのです! もうこれ以上――!」
カイの手が、彼女の肩を掴んだ。
その手は驚くほど温かく、けれど揺るぎない力を持っていた。
「巻き込む、か。……その言葉、もう聞き飽きた」
低く、静かな声。
「全てを捨てたとしても、一緒にいたい。……それじゃダメか?」
リシェルは、喉の奥が詰まるのを感じた。
何かを言おうとした瞬間、カイの指が彼女の頬に触れる。
優しく、しかし拒絶を許さぬ仕草で。
「もういい。お前の気持ちはよくわかった。それ以上、何も言うな」
彼の瞳が、まっすぐに彼女を見据えていた。
「……これは俺のわがままだから、お前が気に病む必要はないんだ」
リシェルは首を振る。
「だめです……あなたまで私と――」
「俺はもう決めた。何を失っても構わない」
その声音には迷いがなかった。
「俺はお前と共に行く。どこへでも。逃げようったって無駄だ。俺はどこまでも追いかけていくぞ」
生きていく上で、これ以上の言葉をもらえることがあるだろうか。
「……それに、まだ美味いもん食いに行くっていう約束も果たせてねぇしな」
「っ……」
"全部終わったら、美味いもんでも食おう。何が食べたいか考えとけよ"
そんな些細な約束を覚えていて、叶えようとしてくれている人が他にいるだろうか。
これは、リシェルへの最上級の愛の言葉だ。
言葉を失い、ただ見つめるリシェル。
その距離が、焚き火の光に揺らめきながら、ゆっくりと縮まっていく。
その時、足音が近付いてくる。
「……来るか」
静かな声。振り返ると、レオンが立っていた。
すべてを察したように、短く問う。
「はい」
「覚悟はできてるか」
「もちろんです」
カイの答えは、それだけだった。
その一言に、全ての想いが込められていた。
「リシェル。諦めろ。男っていうのは、一度決めたら面倒臭いものなんだ。特に、こういう不器用なくせに真っ直ぐすぎる男はな」
笑ってリシェルの頭を撫でるレオンに、リシェルは息を呑む。
「……本当に、一緒に来てくれるんですか。私と一緒に行く覚悟が、あるんですか」
これが最後だと言わんばかりに静かに問いかけるリシェルに、カイはうっすらと口角を上げて。
――その場に跪き、剣を立てる。
「――私、カイ・アレストリアは、ルミナリア王国王女、リシェル様に忠誠を誓います。この身の全てを、人生を、王女様に捧げます」
静かに、そして力強く誓いの言葉を述べたカイが、頭を下げる。
それを見て、リシェルは噛み締めるようにそっと目を閉じた。
――もう、戻れない。
――それでも俺は、一緒にいたい。
夜風と共に二人の想いが吹き抜け、焚き火の火が小さくはぜた。
リシェルはゆっくりと目を開き、カイを見据える。
そして、息を吸ってから柔らかく口角を上げた。
「……私を、これからもずっと側で守ってください。……カイ」
それは、リシェルが折れて、カイを受け入れた瞬間。
「はい。リシェル様の仰せのままに」
――たとえこの先二度と隣を歩けなくなったとしても。それでも共に行く。
二人の揺れる瞳には、その覚悟が表れていた。
――そして、それから幾つもの季節が巡った。
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