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第11話 イシュトヴァーン・ミハン②
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偽りの遺書を遺したアドリアナ・バウアーは、トルラキア人ではなかった。
彼女はシュルトザルツ帝国貴族の伯爵家の娘だった。
だから、ストロノーヴァのミハンにしつこく出来たし、彼女の家族もまた、公然とミハンを攻撃出来た。
彼等がトルラキアの貴族だったら、ミハンの祖父のストロノーヴァ公爵を恐れて、あんな真似は出来なかった。
ミハンとアドリアナが知り合ったのは、彼がシュルトザルツ帝国の帝都大学に留学中のことだ。
厳密に言えば、知り合ったのではない。
ふたりには共通した知人も居なかったし、お互いに名乗り合った事もなく、挨拶も交わした事もなかった。
アドリアナはミハンの後を付けて、彼の名前を知り。
ミハンは身辺に出没する女の調査を始めて、その名前を知った。
─ふたりが知り合ったのは運命で、真実の愛なのです─
アドリアナが遺した遺書にはそう、綴られていた。
確かに運命だったのかもしれない。
アドリアナが死を選び。
ミハンは生きながら、死んだも同然になった。
彼はもう誰も愛さないと決めたのだから。
友人に誘われて観に行った帝国歌劇場で、ふたりの席は隣同士になった。
人気の演目で、ボックス席が取れなくて、数少ない1階席の当日券を手に入れての観劇だった。
隣に座った少し年下のような女性から、横顔に熱い視線を送られても、ミハンは特になんとも思わなかった。
彼の黒髪と赤い瞳は、一部の女性の何かを掻き立てるようで、少年の頃からこの視線で見つめられるのに慣れていたからだ。
女性の隣にも同じ様に若い女性が座っていて、観劇後に向こうから声をかけてきたら。
友人も満更でもないと視線で伝えてきたら。
4人でなら。
遅い夕食なり、酒なり、そしてその先の一夜の恋も。
女性の方から声をかけて来たのなら。
こちらには何の責任もなく楽しめる。
それはミハンにとって特別な事でもなく、これまでに何度もあった事だ。
留学が終わり、母国へ帰れば……
自分は誰かと縁組みをして結婚するだろう。
公爵家の嫁に相応しい家門の誰かと。
誰でも良かった、心にいつまでも居る彼女以外の女性なら、誰でも同じだったからだ。
だが、隣の座席の彼女達から声をかけられる事もなく、それを別に残念に思う事もなく。
行きは友人が迎えに来てくれたので、帰りにミハンは彼を自宅まで送り、帝都ボーヘンのストロノーヴァの邸へ帰った。
出会いはそれだけで終わり、彼は彼女の顔も忘れていた。
ところが2週間が過ぎた頃、あの夜一緒にいた友人から耳打ちされた。
『今日も居る』と。
少し大袈裟に身を震わせて『恐ろしい女だ』と、彼は言った。
この時点で、まだ友人は笑っていた。
「居る、って? 誰?」
友人が楽しそうにミハンの背後に目をやりながら、あのオペラの演目を口にした。
ミハンにはそれを聞いてもぴんと来なかった。
それ程、彼にとっては、その女性は忘れられた存在だった。
彼女が今この場で目の前に来て、自己紹介をしても、思い出せなかっただろう。
それくらいの存在だった。
「俺も気付いたのはこの前だけど。
あの夜から君の後を付けているのかも、しれないね」
ただそこに居るだけならば、何も言えないだろと、ミハンは溜め息を付いた。
声をかけてきたら、何なりと対処は出来るが、ただそこに居て、自分を見つめて居るだけならば、放っておくしかない。
「一度、血を吸ってやれ、
そしたら、満足するんじゃないか」
ミハンにヴァンパイア王の血が僅かに流れていることを知ってから、友人はこのネタでからかってくる。
「ヴァンパイアに一度吸われたら、催淫成分を送り込まれて、何度もそれを欲しがる様になるんだ」
『欲しがる』と、その言葉を聞いて。
友人が爆笑したので、カフェの客達がこちらを見ていた。
帝国大学生は優秀で、将来のエリートともてはやされていても。
男の中身なんて皆一緒だ。
15の頃と変わらない。
だから、この時はまだ。
ミハンも笑っていられた。
◇◇◇
「国にまで、会いに来てくれたら、その時初めて考えます」
それはいつもの決まり文句だった。
物好きにも自分に愛を告げてくる女性には、誰に対してもそう返事した。
バロウズにやって来た年は、それはもう、頻繁に告白された。
全て、この瞳のせいかと、前髪を伸ばして目を隠した。
昔から言われ続けた『その瞳に抗えないの』と。
それでも、以前の姿を知っている者からは『髪を切られたらいいのに』と、余計な一言と共に口説かれるので、次は服装を変え、姿勢も少し猫背にしてみた。
すると徐々に周囲から女性達は居なくなり、ミハンは楽に呼吸出来るようになった。
可能な限り、周囲に溶け込み、決して目立つ事なく……
そうして、契約が完了するまでこの国で生きていよう。
人に聞かれると、資金を貯めて研究を続けたいのだと答えた。
確かにそれも理由のひとつ。
先祖から譲られた後継者の個人資産を、訳のわからない伝承何とかには使うのを許さないと、当代の祖父からは言われていたからだ。
だが、大きな理由は。
あの国から逃げ出したかった。
だから、幼馴染みで親友のイェニィ・ルカスと、学院の頃からの親友のフォルトヴィク・アーグネシュの結婚式を見届けてから出国した。
ルカスとアーグネシュには、見られていて、聞かれていた。
初めて勇気を出して、ミハンの前に現れたアドリアナに、ミハンが何と言ったのか。
震えるアドリアナにどんな態度を、どんな扱いをしたのかを。
ふたりには知られていた。
大学を卒業して、帰国したミハンに会いたくて会いたくて。
シュルトザルツから、ひとり会いに来たアドリアナ。
ミハンが彼女を絶望に突き落としたその場に、ふたりは立ち会っていたのだ。
彼女はシュルトザルツ帝国貴族の伯爵家の娘だった。
だから、ストロノーヴァのミハンにしつこく出来たし、彼女の家族もまた、公然とミハンを攻撃出来た。
彼等がトルラキアの貴族だったら、ミハンの祖父のストロノーヴァ公爵を恐れて、あんな真似は出来なかった。
ミハンとアドリアナが知り合ったのは、彼がシュルトザルツ帝国の帝都大学に留学中のことだ。
厳密に言えば、知り合ったのではない。
ふたりには共通した知人も居なかったし、お互いに名乗り合った事もなく、挨拶も交わした事もなかった。
アドリアナはミハンの後を付けて、彼の名前を知り。
ミハンは身辺に出没する女の調査を始めて、その名前を知った。
─ふたりが知り合ったのは運命で、真実の愛なのです─
アドリアナが遺した遺書にはそう、綴られていた。
確かに運命だったのかもしれない。
アドリアナが死を選び。
ミハンは生きながら、死んだも同然になった。
彼はもう誰も愛さないと決めたのだから。
友人に誘われて観に行った帝国歌劇場で、ふたりの席は隣同士になった。
人気の演目で、ボックス席が取れなくて、数少ない1階席の当日券を手に入れての観劇だった。
隣に座った少し年下のような女性から、横顔に熱い視線を送られても、ミハンは特になんとも思わなかった。
彼の黒髪と赤い瞳は、一部の女性の何かを掻き立てるようで、少年の頃からこの視線で見つめられるのに慣れていたからだ。
女性の隣にも同じ様に若い女性が座っていて、観劇後に向こうから声をかけてきたら。
友人も満更でもないと視線で伝えてきたら。
4人でなら。
遅い夕食なり、酒なり、そしてその先の一夜の恋も。
女性の方から声をかけて来たのなら。
こちらには何の責任もなく楽しめる。
それはミハンにとって特別な事でもなく、これまでに何度もあった事だ。
留学が終わり、母国へ帰れば……
自分は誰かと縁組みをして結婚するだろう。
公爵家の嫁に相応しい家門の誰かと。
誰でも良かった、心にいつまでも居る彼女以外の女性なら、誰でも同じだったからだ。
だが、隣の座席の彼女達から声をかけられる事もなく、それを別に残念に思う事もなく。
行きは友人が迎えに来てくれたので、帰りにミハンは彼を自宅まで送り、帝都ボーヘンのストロノーヴァの邸へ帰った。
出会いはそれだけで終わり、彼は彼女の顔も忘れていた。
ところが2週間が過ぎた頃、あの夜一緒にいた友人から耳打ちされた。
『今日も居る』と。
少し大袈裟に身を震わせて『恐ろしい女だ』と、彼は言った。
この時点で、まだ友人は笑っていた。
「居る、って? 誰?」
友人が楽しそうにミハンの背後に目をやりながら、あのオペラの演目を口にした。
ミハンにはそれを聞いてもぴんと来なかった。
それ程、彼にとっては、その女性は忘れられた存在だった。
彼女が今この場で目の前に来て、自己紹介をしても、思い出せなかっただろう。
それくらいの存在だった。
「俺も気付いたのはこの前だけど。
あの夜から君の後を付けているのかも、しれないね」
ただそこに居るだけならば、何も言えないだろと、ミハンは溜め息を付いた。
声をかけてきたら、何なりと対処は出来るが、ただそこに居て、自分を見つめて居るだけならば、放っておくしかない。
「一度、血を吸ってやれ、
そしたら、満足するんじゃないか」
ミハンにヴァンパイア王の血が僅かに流れていることを知ってから、友人はこのネタでからかってくる。
「ヴァンパイアに一度吸われたら、催淫成分を送り込まれて、何度もそれを欲しがる様になるんだ」
『欲しがる』と、その言葉を聞いて。
友人が爆笑したので、カフェの客達がこちらを見ていた。
帝国大学生は優秀で、将来のエリートともてはやされていても。
男の中身なんて皆一緒だ。
15の頃と変わらない。
だから、この時はまだ。
ミハンも笑っていられた。
◇◇◇
「国にまで、会いに来てくれたら、その時初めて考えます」
それはいつもの決まり文句だった。
物好きにも自分に愛を告げてくる女性には、誰に対してもそう返事した。
バロウズにやって来た年は、それはもう、頻繁に告白された。
全て、この瞳のせいかと、前髪を伸ばして目を隠した。
昔から言われ続けた『その瞳に抗えないの』と。
それでも、以前の姿を知っている者からは『髪を切られたらいいのに』と、余計な一言と共に口説かれるので、次は服装を変え、姿勢も少し猫背にしてみた。
すると徐々に周囲から女性達は居なくなり、ミハンは楽に呼吸出来るようになった。
可能な限り、周囲に溶け込み、決して目立つ事なく……
そうして、契約が完了するまでこの国で生きていよう。
人に聞かれると、資金を貯めて研究を続けたいのだと答えた。
確かにそれも理由のひとつ。
先祖から譲られた後継者の個人資産を、訳のわからない伝承何とかには使うのを許さないと、当代の祖父からは言われていたからだ。
だが、大きな理由は。
あの国から逃げ出したかった。
だから、幼馴染みで親友のイェニィ・ルカスと、学院の頃からの親友のフォルトヴィク・アーグネシュの結婚式を見届けてから出国した。
ルカスとアーグネシュには、見られていて、聞かれていた。
初めて勇気を出して、ミハンの前に現れたアドリアナに、ミハンが何と言ったのか。
震えるアドリアナにどんな態度を、どんな扱いをしたのかを。
ふたりには知られていた。
大学を卒業して、帰国したミハンに会いたくて会いたくて。
シュルトザルツから、ひとり会いに来たアドリアナ。
ミハンが彼女を絶望に突き落としたその場に、ふたりは立ち会っていたのだ。
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