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第12話 イシュトヴァーン・ミハン③
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その日に3人で集まろうと、言い出したのは親友のイェニィ・ルカスだった。
無事に留学を終えて帰国したミハンを祝いたい、婚約者のアーグネシュも誘うから、と。
少し豪華にいこうかと、いつも3人で集まった若者向けの店ではなく、王家御用達ホテルのリヨン料理レストランだった。
ところが当日、ルカスの職場で少し問題が起こった。
それは午前中に発覚したのだが、多分定時には帰れないだろうからと、ルカスはミハンとアーグネシュに連絡をした。
『必ず行くから、予約時間にふたりで先に行ってほしい』と。
そしてミハンには、遅刻の連絡に加えてアーグネシュを迎えに行ってほしいと頼んできたので、彼は親友に『了解した』と、返信して。
予約時間に間に合うように、ミハンはフォルトヴィクの邸にアーグネシュを迎えに行き、ホテルのレストランに入店した。
すると、そこにアドリアナが現れた。
彼女はオペラの夜から1年近くミハンの周囲に出没し、帝都の友人達からは有名だったが、アーグネシュは初対面だった。
ミハンは正直、アドリアナがトルラキアに現れた事、そして初めて目の前に姿を見せた事に驚いて、咄嗟に言葉が出なかった。
シュルトザルツを出国して、もう2度とその姿を見ることはないだろうと思っていたからだ。
ミハンが居なくなれば、アドリアナ・バウアーはおとなしく婚約者と結ばれるか、若しくはまた新たに執着する人物を見つけて、後を付けることを日課にするだろうと。
ミハンがアドリアナの執着を軽く見ていたのは、彼女は彼を見ているだけで、それ以上の事をしてこなかったからだ。
声もかけてこないし、手紙も送りつけて来ない。
一応、調査機関に依頼して、彼女の身元は突き止めていたが、バウアー家に訴える事はしなかった。
ミハンには実害はなく、婚約者も居る令嬢の結婚前の熱病みたいなものだ。
自分が居なくなれば、それで終わる。
何も出来ない女だと、彼女を舐めていた。
そう思って。
そう思いたくて。
「こっ、こ、この女は誰なのです?」
怒りに震えながら、アドリアナがアーグネシュを指差した。
彼女の声を聞いたのも、初めてだった。
また、ストロノーヴァの邸からここまで付けてきたのか?
ルカスの代わりに迎えに行き、エスコートをする姿を見て、アーグネシュを誤解したか?
そもそも、どうして君にそんなことを聞く権利が?
最初の驚愕が過ぎると、次に怒りが沸いた。
こっちのテリトリーに侵入してきたアドリアナと。
それ以上に、こうなるまで放置していた自分にも。
「わ、私とっ!
私というものがあり、ながらっ!」
勝手に誤解し興奮した、全くの無関係の女から責められているのだが。
周囲から見たら、俺はまるで浮気の現場を押さえられた男だなと、顔を赤くして吃るアドリアナを見ていると、少し頭が冷えた。
怒りからおかしさに気持ちが揺れた。
それが却って悪かったのだろう。
次に頭を占めたのは。
『今まで見逃してやっていたのに、こんな所にまで追いかけて来るなんて。
温情などをかけるべきじゃなかった』
アーグネシュとふたりきりなのは、何年振りかとミハンは思っていた。
アーグネシュとの貴重な時間を潰されたと、アドリアナにはその腹立ちも込めて、きつい言い方をしたのだと、今ならよくわかる。
だがその時は、加虐心に火が点いた。
「私というものがありながらと仰る、貴女はどこの誰なのです?
まず名乗っていただけますか?
私とは初対面ですよね?
このひとの事なら私の大切なひと、ですが」
それを聞いたアドリアナの顔色は、怒りの赤から。
血の気が引いていくのが、わかった。
「何か誤解をされていらっしゃるようですから、お話し合いをなさったら……」
何となく事情を察したらしいアーグネシュが席を立ち、離れようとするのをミハンは捕まえた。
「座っていて、愛しいひと。
それで、貴女は誰ですか?」
アーグネシュに愛しいひと、など呼び掛けた事は一度もなかった。
どさくさに紛れて、というやつだった。
アーグネシュの手を抑えたままで、顔をアドリアナの方へ向けて、彼は嗤ってみせた。
この点だけはアドリアナに感謝しよう、暗い悦びがミハンの口元に浮かんだ。
いつも背後から見ていたミハンの赤い瞳に真正面から射貫かれ、歪んだ嘲笑を見せられて。
返事を返せなかったアドリアナは名乗る事も出来ずに、よろよろと向こうへ行った。
「待って、待ってください」
焦ったアーグネシュがその後ろ姿に、声をかけたが。
ミハンは動かなかった。
こんな事で追い払えたのなら、もっと早くにこうしていたら。
アドリアナだって、この国まで追いかけて来る事もなかったのに。
だから、アドリアナを追おうと立ち上がったアーグネシュの腕を握り締めていた彼の手を誰かが外すまで。
テーブルに近づいてきたのに気付かなかった。
遅れてきたルカスだった。
ミハンは入口に背をむけて、アドリアナに集中していたので、ルカスが入ってきていたのに気付かなかった。
もしかして、アーグネシュが席をアドリアナに譲ろうとしたのはルカスがやって来ていたからなのか?
「愛しいひと、は聞かなかったことにしよう」
立ったままのアーグネシュを席に座らせながら、冗談めかしてルカスが言ってくれたので、ミハンも笑った。
ルカスはミハンから奪い返した婚約者の手の甲に口付けを落とした。
「こっちが本物だよ、愛しいひと」
それを聞いてアーグネシュがようやく微笑んだ。
幸せなふたり。
テーブルに着いているのは、幸せなふたりに、ふたりの親友がひとり……
「ルカ、その言葉は効果てきめんで、助かったよ」
「今の女性は知り合いじゃないのか?」
「帝国でいつも黙って俺の後を付けていて。
こっちに来ていたのも知らなかったし、何しろ話したのは今日が初めてなんだ」
「あの方……辛そうだったわ」
まだアドリアナが気になるのか、アーグネシュは浮かない表情をして呟いた。
直ぐに同調してしまうのは、彼女の短所だが長所でもあった。
「1年追いかけられても、好きにはならなかったな。
話すのも、これを最後にしてほしいし、もう姿も見せてほしくないね」
アドリアナの話はこれで終わりだと、ミハンは会話を締めた。
そうだ、今日のこれで終わりだと、思った。
その、ミハンの願いは叶った。
翌明け方に、アドリアナはホテルの浴室で亡くなっていた。
水を張った浴槽に片手を入れていた。
手首を切って。
テーブルの上に、家族に宛てた手紙を遺して。
─私に真実の愛を教えてくれたミハンを、決して責めないで─
それはミハンにとっては偽りだったが、アドリアナにとってはどうだったのだろう。
偽りを書いて、ミハンを嵌めたかったのか、それとも。
彼女にとっては、それは紛れもない真実だったのか。
確かなのは、ふたつだけ。
ミハンの突き放した言葉と冷たい眼差しに、彼女が世を儚んでしまった事。
遺書を見せられたその日から、ストロノーヴァ・イシュトヴァーン・ミハンは、運命だの、真実の愛だの、そんな言葉を信じなくなった事、だけ。
無事に留学を終えて帰国したミハンを祝いたい、婚約者のアーグネシュも誘うから、と。
少し豪華にいこうかと、いつも3人で集まった若者向けの店ではなく、王家御用達ホテルのリヨン料理レストランだった。
ところが当日、ルカスの職場で少し問題が起こった。
それは午前中に発覚したのだが、多分定時には帰れないだろうからと、ルカスはミハンとアーグネシュに連絡をした。
『必ず行くから、予約時間にふたりで先に行ってほしい』と。
そしてミハンには、遅刻の連絡に加えてアーグネシュを迎えに行ってほしいと頼んできたので、彼は親友に『了解した』と、返信して。
予約時間に間に合うように、ミハンはフォルトヴィクの邸にアーグネシュを迎えに行き、ホテルのレストランに入店した。
すると、そこにアドリアナが現れた。
彼女はオペラの夜から1年近くミハンの周囲に出没し、帝都の友人達からは有名だったが、アーグネシュは初対面だった。
ミハンは正直、アドリアナがトルラキアに現れた事、そして初めて目の前に姿を見せた事に驚いて、咄嗟に言葉が出なかった。
シュルトザルツを出国して、もう2度とその姿を見ることはないだろうと思っていたからだ。
ミハンが居なくなれば、アドリアナ・バウアーはおとなしく婚約者と結ばれるか、若しくはまた新たに執着する人物を見つけて、後を付けることを日課にするだろうと。
ミハンがアドリアナの執着を軽く見ていたのは、彼女は彼を見ているだけで、それ以上の事をしてこなかったからだ。
声もかけてこないし、手紙も送りつけて来ない。
一応、調査機関に依頼して、彼女の身元は突き止めていたが、バウアー家に訴える事はしなかった。
ミハンには実害はなく、婚約者も居る令嬢の結婚前の熱病みたいなものだ。
自分が居なくなれば、それで終わる。
何も出来ない女だと、彼女を舐めていた。
そう思って。
そう思いたくて。
「こっ、こ、この女は誰なのです?」
怒りに震えながら、アドリアナがアーグネシュを指差した。
彼女の声を聞いたのも、初めてだった。
また、ストロノーヴァの邸からここまで付けてきたのか?
ルカスの代わりに迎えに行き、エスコートをする姿を見て、アーグネシュを誤解したか?
そもそも、どうして君にそんなことを聞く権利が?
最初の驚愕が過ぎると、次に怒りが沸いた。
こっちのテリトリーに侵入してきたアドリアナと。
それ以上に、こうなるまで放置していた自分にも。
「わ、私とっ!
私というものがあり、ながらっ!」
勝手に誤解し興奮した、全くの無関係の女から責められているのだが。
周囲から見たら、俺はまるで浮気の現場を押さえられた男だなと、顔を赤くして吃るアドリアナを見ていると、少し頭が冷えた。
怒りからおかしさに気持ちが揺れた。
それが却って悪かったのだろう。
次に頭を占めたのは。
『今まで見逃してやっていたのに、こんな所にまで追いかけて来るなんて。
温情などをかけるべきじゃなかった』
アーグネシュとふたりきりなのは、何年振りかとミハンは思っていた。
アーグネシュとの貴重な時間を潰されたと、アドリアナにはその腹立ちも込めて、きつい言い方をしたのだと、今ならよくわかる。
だがその時は、加虐心に火が点いた。
「私というものがありながらと仰る、貴女はどこの誰なのです?
まず名乗っていただけますか?
私とは初対面ですよね?
このひとの事なら私の大切なひと、ですが」
それを聞いたアドリアナの顔色は、怒りの赤から。
血の気が引いていくのが、わかった。
「何か誤解をされていらっしゃるようですから、お話し合いをなさったら……」
何となく事情を察したらしいアーグネシュが席を立ち、離れようとするのをミハンは捕まえた。
「座っていて、愛しいひと。
それで、貴女は誰ですか?」
アーグネシュに愛しいひと、など呼び掛けた事は一度もなかった。
どさくさに紛れて、というやつだった。
アーグネシュの手を抑えたままで、顔をアドリアナの方へ向けて、彼は嗤ってみせた。
この点だけはアドリアナに感謝しよう、暗い悦びがミハンの口元に浮かんだ。
いつも背後から見ていたミハンの赤い瞳に真正面から射貫かれ、歪んだ嘲笑を見せられて。
返事を返せなかったアドリアナは名乗る事も出来ずに、よろよろと向こうへ行った。
「待って、待ってください」
焦ったアーグネシュがその後ろ姿に、声をかけたが。
ミハンは動かなかった。
こんな事で追い払えたのなら、もっと早くにこうしていたら。
アドリアナだって、この国まで追いかけて来る事もなかったのに。
だから、アドリアナを追おうと立ち上がったアーグネシュの腕を握り締めていた彼の手を誰かが外すまで。
テーブルに近づいてきたのに気付かなかった。
遅れてきたルカスだった。
ミハンは入口に背をむけて、アドリアナに集中していたので、ルカスが入ってきていたのに気付かなかった。
もしかして、アーグネシュが席をアドリアナに譲ろうとしたのはルカスがやって来ていたからなのか?
「愛しいひと、は聞かなかったことにしよう」
立ったままのアーグネシュを席に座らせながら、冗談めかしてルカスが言ってくれたので、ミハンも笑った。
ルカスはミハンから奪い返した婚約者の手の甲に口付けを落とした。
「こっちが本物だよ、愛しいひと」
それを聞いてアーグネシュがようやく微笑んだ。
幸せなふたり。
テーブルに着いているのは、幸せなふたりに、ふたりの親友がひとり……
「ルカ、その言葉は効果てきめんで、助かったよ」
「今の女性は知り合いじゃないのか?」
「帝国でいつも黙って俺の後を付けていて。
こっちに来ていたのも知らなかったし、何しろ話したのは今日が初めてなんだ」
「あの方……辛そうだったわ」
まだアドリアナが気になるのか、アーグネシュは浮かない表情をして呟いた。
直ぐに同調してしまうのは、彼女の短所だが長所でもあった。
「1年追いかけられても、好きにはならなかったな。
話すのも、これを最後にしてほしいし、もう姿も見せてほしくないね」
アドリアナの話はこれで終わりだと、ミハンは会話を締めた。
そうだ、今日のこれで終わりだと、思った。
その、ミハンの願いは叶った。
翌明け方に、アドリアナはホテルの浴室で亡くなっていた。
水を張った浴槽に片手を入れていた。
手首を切って。
テーブルの上に、家族に宛てた手紙を遺して。
─私に真実の愛を教えてくれたミハンを、決して責めないで─
それはミハンにとっては偽りだったが、アドリアナにとってはどうだったのだろう。
偽りを書いて、ミハンを嵌めたかったのか、それとも。
彼女にとっては、それは紛れもない真実だったのか。
確かなのは、ふたつだけ。
ミハンの突き放した言葉と冷たい眼差しに、彼女が世を儚んでしまった事。
遺書を見せられたその日から、ストロノーヴァ・イシュトヴァーン・ミハンは、運命だの、真実の愛だの、そんな言葉を信じなくなった事、だけ。
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