77 / 102
第76話 アシュフォードside
謝って許して貰って楽になろうとするな。
胸の中にその罪を抱えて、この先も生きていきなさい。
そうストロノーヴァ先生には言われたけれど、謝る事自体はしてもいい筈だ。
いや、しなくてはいけない。
「是非、そうなさってください」
俺に対する先生の返事は短いが、間違えてはいないのだと自信をくれる。
「それとは別に、アグネス嬢に呪いを教えたという友人について、殿下はどう思われますか?」
「アンナリーエ嬢、いや今は1児の母で、夫人と呼んでいるのですが、12歳の子供だったからと言っても、正直どうして呪いなんかを……余計な事を教えてくれたな、と残念に思いますね。
アグネスにとって、今でもとても良い関係だから尚更」
「良い関係ですか……平民の娘さんなんですよね?」
「ご両親も人品卑しからぬお二方で、気持ちの良いご家族だと思っています。
彼女は容姿に恵まれていて、性格も明るくて物怖じしないし、頭もいい。
アグネスには良い影響を与えてくれているとばかり」
先生はイェニィ伯爵夫人と顔を見合わせて頷いている。
そう言えば、夫人は王都学園で仕事をされている。
学園は平民が通う学校だ、やはりアンナリーエを知っているのか?
だからさっき、アグネスから友人だと聞いて、一瞬不自然に黙った様に見えたのか?
それも気にはなったが、先に知って貰った方がいいであろう話を、先生に伝える事にした。
「先生はかつて、アグネスの事を抑制されている様に感じると仰っていましたね。
あの原因として考えられるのは、母親とアグネスの関係です」
「……」
「クラリス嬢から聞いた話ですが、上のふたりの育成に関わる事を先代から許されなかった母親が、唯一自分の手で育てられたのがアグネスだったのです」
「なる程、侯爵夫人からの過度の保護と、干渉。
母を悲しませたくない故に、アグネス嬢は自分の気持ちを話せなくなる、ですか……」
「その様な母娘関係に陥る親子は多いです。
互いに依存し合っている部分もありますね」
静かに夫人も話し出した。
「それを教えていただいたので、どうしてアグネス様がアンナリーエと親しくされる様になったのかが理解出来ました。
侯爵夫人から離れたこの国で知り合ったアンナリーエはアグネス様にとって、自由に生きている憧れの存在になったのでしょうね。
また、アンナリーエからもアグネス様の抱えてる問題がうっすらと見えていたのかもしれませんね。
彼女は聡い子なので」
「ナルストワ・アンナリーエをご存知なんですね?
学園での教え子でしたか?」
「私は教師ではないので、厳密には教え子ではないのですが、リーエからは先生と呼ばれていました。
彼女が中途退学すると言うので、相談室で話を聞いておりました」
イェニィ伯爵夫人は愛称でリーエと呼ぶくらい、彼女には好意を持っていたんだ。
「リーエが教えたという『恋敵を排除する呪い』、あれは呪いの儀式ではないのです」
魔女による恋敵を排除する呪い。
12歳のアンナリーエが9歳のアグネスに教えた呪い。
アグネスの口からさっき聞かされたばかりなのに、それが呪いではない?
「必ず満月の夜に行い、綺麗なグラスに水を満たして、月を映して、それを飲み干す、でしたね?」
先生がアグネスが語った呪いの儀式の手順を俺に確認する。
確認するまでもない簡単な方法だ。
人を呪うのに、こんなに簡単でいいのか、と思うくらいに簡単な……
「後、手鏡にその相手の顔が映れば、の条件が付きましたね」
そうだ、普通なら相手の顔など映らないのに、アグネスはそこにクラリスとそっくりな自分の顔が見えて、グラスを落としたのだ。
それで儀式は途中で終わってしまった。
「私の知ってる範囲では、満月の夜に行う呪いの儀式等、トルラキアには存在しません」
「満月の夜には、ですか?」
「人知れず、呪いは行われるもの。
誰かを呪ったりするのは、夜を煌々と照らす満月の下ではない。
月が見えない新月の夜、これから月が満ちていく始まりの闇夜に紛れて行うのです」
「……」
確か、トルラキアの案内書物に載っていた、この国では月にも意味がある、と。
先生の話の続けたのは、イェニィ伯爵夫人だった。
「手鏡を持ち出したのは、それらしくリーエが勝手に付け足したのですが、アグネス様が行おうとしたのは、トルラキアの女性なら誰もが知っている……
満月にお願いして、水面に映ったそれを飲み込む。
好きなひとを振り向かせる恋のおまじない、なのです」
◇◇◇
「アグネス様の事は、ストロノーヴァ様からはあまり説明は受けていませんでした。
余計な先入観を持たずに、彼女を見て欲しいと言われたからです。
同じ様な年頃の生徒を数多く見ているせいか、アグネス様もその様な目で見てしまうのですけれど、あの方は危うい部分を持っていらっしゃいます。
殿下もお気付きでしょうが、頑なで思い込みが激しいので、より自分を追い込んでしまうのです、体調がおかしくなる程に」
「アグネス嬢も15歳になり、言い方は悪いですが、それを巧妙に隠せる様になってきていますが、それでもイェニィ伯爵夫人にはそれがわかりました。
9歳の頃ならもっとそれは明らかだったでしょう。
それも、アンナリーエ嬢の前では抑制せずに素顔を見せ始めていたのですから」
交互に話すと打合せをしていた様に、今度は先生が話し出す。
「殿下がお戻りなるまでの間に、イェニィ夫人から聞いたのですが。
アンナリーエ嬢の実家はホテルを経営していて、居心地の良さから長逗留する国内外の客も多い。
そこで様々な人間とふれあい、多様な価値観を持つ大人に囲まれて育った、柔軟な考え方の持ち主だと聞きました。
殿下には申し訳ありませんが、それこそ侯爵夫人に大事に育てられたアグネス嬢とは正反対ですね。
だからこそ、ふたりは身分をこえて仲良くなれた。
アグネス嬢からは姉と殿下との関係や母親に関しても話は聞いていて、心配になった。
この子は思い詰めると何をするかわからない、そう思った」
「……」
「誰かを殺したくなるくらいに憎んだら、と彼女が教えてくれたとアグネス嬢は言っていましたね。
リーエ嬢は、それで気が収まる様に、と考えたが、呪いの儀式等本当はさせたくない。
それで恋が叶うおまじないを、呪いと称して教えたのでしょう」
「……恋が叶う、なんて、アグネスが思い描いたのはクラリスだったのに」
「恐らく……姉か他の女性を憎んだとしても、手鏡には憎い恋敵の顔は、決して映りません。
そうなると、アグネス嬢の頭や心には貴方の姿が浮かぶと、アンナリーエ嬢は考えた。
姉とアグネスが似ている事等、彼女は知らないのですから」
「……」
「ここでも、悪意からではなく、好意から行われたものによって、貴方達の間は捻れています。
それを解していくのは大変な事です。
事情を説明したからと言って、アグネス嬢がそれを素直に受け取れるか、わかりません。
彼女は難しいと思いますよ、殿下はそれでも彼女を求めるのですか?」
「……」
「……私には信じられませんが、運命や真実の愛だの、よく人は口にします。
それと同様に、反対に決して結ばれない運命の相手がいるのかもしれません。
もし、それが……」
途中で言葉を切られたが、ストロノーヴァ先生が仰りたい事はよくわかっている。
こんなにうまくいかないのは、アグネスが。
結ばれない運命の相手だから。
俺ではアグネスを幸せには出来ないのかもしれない。
もう本当の笑顔を返してあげることも無理なのかもしれない。
近付けたと思っても、それは続かず離れて行く。
大切にしたいのに、いつも泣かせてしまう。
「もう少しだけ、足掻かせてください。
もう無理だと、お前では駄目なんだと、彼女から告げられたら、直ぐに身を引きます。
引き際は……悪足掻きせず……」
先生は立ち上がり、俺の隣に腰を下ろした。
右手を差し出されたので、その手を握る。
「運命は予め決められたものではなく、自ら切り開くものです。
殿下の運命の、真実の愛を私に見せてください」
胸の中にその罪を抱えて、この先も生きていきなさい。
そうストロノーヴァ先生には言われたけれど、謝る事自体はしてもいい筈だ。
いや、しなくてはいけない。
「是非、そうなさってください」
俺に対する先生の返事は短いが、間違えてはいないのだと自信をくれる。
「それとは別に、アグネス嬢に呪いを教えたという友人について、殿下はどう思われますか?」
「アンナリーエ嬢、いや今は1児の母で、夫人と呼んでいるのですが、12歳の子供だったからと言っても、正直どうして呪いなんかを……余計な事を教えてくれたな、と残念に思いますね。
アグネスにとって、今でもとても良い関係だから尚更」
「良い関係ですか……平民の娘さんなんですよね?」
「ご両親も人品卑しからぬお二方で、気持ちの良いご家族だと思っています。
彼女は容姿に恵まれていて、性格も明るくて物怖じしないし、頭もいい。
アグネスには良い影響を与えてくれているとばかり」
先生はイェニィ伯爵夫人と顔を見合わせて頷いている。
そう言えば、夫人は王都学園で仕事をされている。
学園は平民が通う学校だ、やはりアンナリーエを知っているのか?
だからさっき、アグネスから友人だと聞いて、一瞬不自然に黙った様に見えたのか?
それも気にはなったが、先に知って貰った方がいいであろう話を、先生に伝える事にした。
「先生はかつて、アグネスの事を抑制されている様に感じると仰っていましたね。
あの原因として考えられるのは、母親とアグネスの関係です」
「……」
「クラリス嬢から聞いた話ですが、上のふたりの育成に関わる事を先代から許されなかった母親が、唯一自分の手で育てられたのがアグネスだったのです」
「なる程、侯爵夫人からの過度の保護と、干渉。
母を悲しませたくない故に、アグネス嬢は自分の気持ちを話せなくなる、ですか……」
「その様な母娘関係に陥る親子は多いです。
互いに依存し合っている部分もありますね」
静かに夫人も話し出した。
「それを教えていただいたので、どうしてアグネス様がアンナリーエと親しくされる様になったのかが理解出来ました。
侯爵夫人から離れたこの国で知り合ったアンナリーエはアグネス様にとって、自由に生きている憧れの存在になったのでしょうね。
また、アンナリーエからもアグネス様の抱えてる問題がうっすらと見えていたのかもしれませんね。
彼女は聡い子なので」
「ナルストワ・アンナリーエをご存知なんですね?
学園での教え子でしたか?」
「私は教師ではないので、厳密には教え子ではないのですが、リーエからは先生と呼ばれていました。
彼女が中途退学すると言うので、相談室で話を聞いておりました」
イェニィ伯爵夫人は愛称でリーエと呼ぶくらい、彼女には好意を持っていたんだ。
「リーエが教えたという『恋敵を排除する呪い』、あれは呪いの儀式ではないのです」
魔女による恋敵を排除する呪い。
12歳のアンナリーエが9歳のアグネスに教えた呪い。
アグネスの口からさっき聞かされたばかりなのに、それが呪いではない?
「必ず満月の夜に行い、綺麗なグラスに水を満たして、月を映して、それを飲み干す、でしたね?」
先生がアグネスが語った呪いの儀式の手順を俺に確認する。
確認するまでもない簡単な方法だ。
人を呪うのに、こんなに簡単でいいのか、と思うくらいに簡単な……
「後、手鏡にその相手の顔が映れば、の条件が付きましたね」
そうだ、普通なら相手の顔など映らないのに、アグネスはそこにクラリスとそっくりな自分の顔が見えて、グラスを落としたのだ。
それで儀式は途中で終わってしまった。
「私の知ってる範囲では、満月の夜に行う呪いの儀式等、トルラキアには存在しません」
「満月の夜には、ですか?」
「人知れず、呪いは行われるもの。
誰かを呪ったりするのは、夜を煌々と照らす満月の下ではない。
月が見えない新月の夜、これから月が満ちていく始まりの闇夜に紛れて行うのです」
「……」
確か、トルラキアの案内書物に載っていた、この国では月にも意味がある、と。
先生の話の続けたのは、イェニィ伯爵夫人だった。
「手鏡を持ち出したのは、それらしくリーエが勝手に付け足したのですが、アグネス様が行おうとしたのは、トルラキアの女性なら誰もが知っている……
満月にお願いして、水面に映ったそれを飲み込む。
好きなひとを振り向かせる恋のおまじない、なのです」
◇◇◇
「アグネス様の事は、ストロノーヴァ様からはあまり説明は受けていませんでした。
余計な先入観を持たずに、彼女を見て欲しいと言われたからです。
同じ様な年頃の生徒を数多く見ているせいか、アグネス様もその様な目で見てしまうのですけれど、あの方は危うい部分を持っていらっしゃいます。
殿下もお気付きでしょうが、頑なで思い込みが激しいので、より自分を追い込んでしまうのです、体調がおかしくなる程に」
「アグネス嬢も15歳になり、言い方は悪いですが、それを巧妙に隠せる様になってきていますが、それでもイェニィ伯爵夫人にはそれがわかりました。
9歳の頃ならもっとそれは明らかだったでしょう。
それも、アンナリーエ嬢の前では抑制せずに素顔を見せ始めていたのですから」
交互に話すと打合せをしていた様に、今度は先生が話し出す。
「殿下がお戻りなるまでの間に、イェニィ夫人から聞いたのですが。
アンナリーエ嬢の実家はホテルを経営していて、居心地の良さから長逗留する国内外の客も多い。
そこで様々な人間とふれあい、多様な価値観を持つ大人に囲まれて育った、柔軟な考え方の持ち主だと聞きました。
殿下には申し訳ありませんが、それこそ侯爵夫人に大事に育てられたアグネス嬢とは正反対ですね。
だからこそ、ふたりは身分をこえて仲良くなれた。
アグネス嬢からは姉と殿下との関係や母親に関しても話は聞いていて、心配になった。
この子は思い詰めると何をするかわからない、そう思った」
「……」
「誰かを殺したくなるくらいに憎んだら、と彼女が教えてくれたとアグネス嬢は言っていましたね。
リーエ嬢は、それで気が収まる様に、と考えたが、呪いの儀式等本当はさせたくない。
それで恋が叶うおまじないを、呪いと称して教えたのでしょう」
「……恋が叶う、なんて、アグネスが思い描いたのはクラリスだったのに」
「恐らく……姉か他の女性を憎んだとしても、手鏡には憎い恋敵の顔は、決して映りません。
そうなると、アグネス嬢の頭や心には貴方の姿が浮かぶと、アンナリーエ嬢は考えた。
姉とアグネスが似ている事等、彼女は知らないのですから」
「……」
「ここでも、悪意からではなく、好意から行われたものによって、貴方達の間は捻れています。
それを解していくのは大変な事です。
事情を説明したからと言って、アグネス嬢がそれを素直に受け取れるか、わかりません。
彼女は難しいと思いますよ、殿下はそれでも彼女を求めるのですか?」
「……」
「……私には信じられませんが、運命や真実の愛だの、よく人は口にします。
それと同様に、反対に決して結ばれない運命の相手がいるのかもしれません。
もし、それが……」
途中で言葉を切られたが、ストロノーヴァ先生が仰りたい事はよくわかっている。
こんなにうまくいかないのは、アグネスが。
結ばれない運命の相手だから。
俺ではアグネスを幸せには出来ないのかもしれない。
もう本当の笑顔を返してあげることも無理なのかもしれない。
近付けたと思っても、それは続かず離れて行く。
大切にしたいのに、いつも泣かせてしまう。
「もう少しだけ、足掻かせてください。
もう無理だと、お前では駄目なんだと、彼女から告げられたら、直ぐに身を引きます。
引き際は……悪足掻きせず……」
先生は立ち上がり、俺の隣に腰を下ろした。
右手を差し出されたので、その手を握る。
「運命は予め決められたものではなく、自ら切り開くものです。
殿下の運命の、真実の愛を私に見せてください」
あなたにおすすめの小説
「愛していました。だから、もう行きます」 〜愛した分だけ、遠くへ行く〜
まさき
恋愛
「サインはもういただきました」
5年間、私は完璧な妻だった。
夫のブランド「CEIL」の顔として、どんな舞台でも微笑み続けた。
嫉妬も、孤独も、全部飲み込んで。
でも、5年間——彼は一度も私の名前を呼ばなかった。
業界に現れた一人の女性に夫の目が向いた日も、
誕生日に届いたのが「社長からです」という付箋付きの花束だった日も、
夫が誰かと笑う声を、初めて聞いた夜も。
それでも笑えた。愛していたから。
離婚届にサインした翌朝、彼は初めて私の名前を叫んだ。
——5年間、一度も呼ばれなかった、その名前を。
遅すぎた。
でも、恨んでいない。
愛していた。だから、行く。
泣き終わった女が、初めて自分のために歩き出す。
静かで、鮮やかな再生の物語。
片想い婚〜今日、姉の婚約者と結婚します〜
橘しづき
恋愛
姉には幼い頃から婚約者がいた。両家が決めた相手だった。お互いの家の繁栄のための結婚だという。
私はその彼に、幼い頃からずっと恋心を抱いていた。叶わぬ恋に辟易し、秘めた想いは誰に言わず、二人の結婚式にのぞんだ。
だが当日、姉は結婚式に来なかった。 パニックに陥る両親たち、悲しげな愛しい人。そこで自分の口から声が出た。
「私が……蒼一さんと結婚します」
姉の身代わりに結婚した咲良。好きな人と夫婦になれるも、心も体も通じ合えない片想い。
余命半年の私は、あなたの愛など要りませんので離縁します
なつめ
恋愛
公爵家に嫁いで三年。
夫ヴィルレオは義務だけを果たす、冷たい人だった。
愛のない結婚だとわかっていたから、主人公リュゼリアも期待しないふりをして生きてきた。
けれどある日、彼女は余命半年を宣告される。
原因は長年蓄積した病と、心身を削る公爵家での生活。
残された時間が半年しかないのなら、もう誰にも気を遣わず、自分のために生きたい。そう決意したリュゼリアは、夫へ静かに告げる。
「あなたの愛など要りませんので、離縁してください」
最初はそれを淡々と受け止めたはずの夫は、彼女が本当に去ろうとした時に初めて、自分が妻を深く愛していたことを知る。
だが気づくのが遅すぎた。
彼女の命は、もう長くない。
遅すぎた愛にすがる夫と、最後まで自分の尊厳を守ろうとする妻。
離縁、後悔、すれ違い、余命。
泣けて苦しくて、それでも最後まで追いたくなる後悔系・溺愛逆転ロマンス。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。
目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。
「あなたは、どなたですか?」
その一言に、彼の瞳は壊れた。
けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。
セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。
優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。
――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。
一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。
記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。
これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。
あなたへの愛を捨てた日
柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。
しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。
レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。
「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」
エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。
氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁
瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。
彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。