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第20話 酔っ払いの見る夢

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「…死んでる?」

ある初夏。家の脇で死体を見つけた。

「、」

古びた二階建てアパートの脇。室外機だとか三輪車だとか、雑草の生えた植木鉢だとか。ゴミゴミしたものが集まるゴミゴミした路地裏で、ゴミみたいに死んでいる雨晒しの物体が哀れで。関わらなきゃいいのに、俺はつい立ち止まった。

彫刻みたいに青白い肌。殴られたのかひどい有様になっている仰向けの顔をザーザー雨が濡らしていた。……窒息するんじゃないのこいつ。そう思って自分を守っていた壊れかけの傘を差し出す。

「なあ、」

靴先でこづいてみても声をかけてみても。その男はぐったりと長い手足を投げ出したまま、身じろぎ一つしなかった。

「……うちの目の前で死なれたら困るんだけど」

……やっぱ死んでんのか。怪我もなさそうだけど。薬でもやりすぎたのかな。
しゃがみ込んで良く見てみると、男の周りの水だけがほんのり赤みを帯びていた。……うわ、血出てんじゃん。
服が黒いせいでどこかどうなってんだかよくわからない。
顔を雨に打たれてもピクリともしない長いまつ毛に、水滴が絡まってキラキラ光っている。
粉っぽくて白い頬をペチペチ何度か控えめに叩いた。
……起きない。首に指を当ててみる。脈もあるし、呼吸もしている。生きている。

「……」

ならいいか。
ならいいかって言うのも変な話だけど、当時の俺はたしかにそう思った。とにかく、早く家に帰って熱いシャワーが浴びたかった。他人の人生にこれ以上首を突っ込む気にならない。生きてるならあとは勝手にやってくれ。
とにかく俺は疲れてた。

ただ、ほんのちょっとの同情で、壊れて歪んでいる傘を、男の顔あたりに立てかけて、家に入った。

がちゃん。
ドアを閉めると、大きな雨音が少しだけ遠くなる。
雨音に切り離されたみたいに、暗い部屋が静かに浮かび上がっていた。

「……」

玄関には、母さんが置いて行った細いヒールの靴がぐちゃぐちゃになって散らかっていた。あの人がもう戻ってこないってことは分かっている。ただ、こいつらを捨ててしまうと俺が捨てられたって現実がより一層リアルになる気がして、手をつけられていないだけ。
俺は無言でそれらをかき分けて、暗い室内に入った。

服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びて。タオルを首に引っ掛けた適当な部屋着姿でお湯を沸かした。台所の棚の中に山盛りに積まれているカップラーメンをビリビリ開ける。



――ガンガン。
壁にダラシなくもたれてコンロの火をぼんやり眺めていた時、無遠慮に扉が叩かれる音がした。

「兄ちゃんこの辺で怪我した男見なかった?」

開けた先にいた男が無遠慮に部屋の中を見回して、開口一番にそう言った。

「……怪我した男?」

「そ。背の高い、黒髪の」

「……さあ。今学校から帰ってきたばかりだから」

「そっか。時間取らせたな」

「こっちじゃねえわ!」と、後ろでジロジロこちらを見ていたガラの悪い奴らに男ががなる。舌打ちをする様子を見るに、怪我した仲間を探しにきた感じじゃなかった。道の先にいる彼らにペコリ、と頭を下げて扉を閉める。

がちゃん。
俺はドアノブを握りしめたまま、閉じたドアに額を押し当てその場にじっと立っていた。コンロのお湯が沸騰する音が邪魔だった。
「見つけたら絶対殺すな」だの。
「持ち逃げされた金がどうのこうの」だの。
明らかに聞かれちゃダメな会話を垂れ流す彼らはアホなのか、それとも木造アパートのガバガバな遮音性を知らないのか。

「、」

足音が遠ざかって行くのを聞きながら、ラーメンにお湯を注いで、俺はまた外に出た。
玄関に唯一残っていた花柄の傘を差して、サンダルをつっかけ、路地の前に立ち尽くす。
傘にザーザー降り注ぐ滝みたいな雨音で世界がいっぱいになる。
俺の立てかけた黒い傘が目隠しになって、道からは薄赤色の水溜まりと投げ出された腕だけが辛うじて見えるだけになっていた。

「……なにやってんだろ、俺」






外人の親父の血だろうか。カップ麺しか食べなくても、俺の背はニョキニョキ伸びた。
当時もそれなりの図体があった。
とはいえ、周りの同年代と比べて少し縦に長いってだけで、意識のない男を持ち上げてやるような力はない。

そんな俺が、大雨の中、男を引きずって歩くのはめちゃくちゃ大変だった。
何回か滑り落ちそうになりながら、雨に濡れた古い外階段をなんとか上った。この男が本当に死んだら、捕まるのは俺なんだろうな。死体みたいにグッタリとした男を見ながらそんなことを思った。……まあ、それならそれで。

「………」

がちゃんとしまった玄関扉の前で、男の脇に手を入れたまま俺は部屋を見渡した。
母さんの靴にポタポタ男の血が落ちた。
……ああ、これ邪魔だな。いい加減捨てなくちゃ。

そして俺は、なるべく扉から見えない奥の部屋にタオルを敷いてやって、その上に男を横たえた。
服を剥いて、俺は何をしてるんだと少し後悔し始める。ちょうど肋骨の下あたりにあった、未だに血を流し続けている深い切り傷を見れば尚更。

「………救急車」

思わず呟くと、携帯に伸ばした俺の手を、じっとりと濡れた男の手がつかまえた。ギョッとして飛び上がったのは、男にまだ意識がなかったことと、脂汗に濡れた男の手が死人みたいに冷たかったせいだ。………なに、そんなに救急車はまずいってこと??

「………」

あいにくうちに外科医はいない。
ここにいるのは、母さんが度々連れてきていたクソ男のせいでこういう怪我に慣れた俺だけ。チラ、と部屋の隅のタンスを見遣る。……あと、でっかいホッチキスもあるわ。
こうして迷っている間にも男の体からは血が流れ出していた。ほぼほぼ拷問みたいなもんだけど、このまま失血死するよりはマシなはず。どう考えても意識不明の人間に勝手にする処置じゃないけど、効果は自分の体で実証済だから大目に見てほしい。

「………あとで怒るなよ」

せめて自分にできる限り丁寧に。なるべく残る跡がマシなものになるように慎重に、傷を塞いだ。
長い間雨晒しにされていたから、随分汚れているだろう傷が膿まなければいい。気休めでしかないけど、じゃばじゃば消毒液をかけてやりながら、なんとかこの妙な男が生き延びてくれるといいな、と思った。

「……ここまでされて起きないならもうダメかな」

「……、起きてる」

とんでもない激痛のはずなのにじっと眠っている男にぼやいていたら、突然返事が返ってきて、また俺は飛び上がった。
いつのまに起きたのか。つるつるした真っ黒の瞳が、同じく真っ黒なまつ毛の隙間から俺を見据えていた。意識が朦朧としているんだろう。いまいち焦点があっていない暗い瞳を上から見下ろして「いつから起きてたの」と声をかけた。

「……痛すぎて目ぇ覚めた」

少し空気が混ざった低い声。ゆっくりとした抑揚のない話し方はこいつの癖なのか、それともただ単に力が入らないせいなのか。

「……俺、拷問されてんの」

この状況でとぼけたことを言ってみせる男に呆気に取られた。いや、だって、刺されるような奴だし。『何やってんだテメェぶっ殺すぞ』って寝起きっぱなにぶん殴ってきてもおかしくないと思ってたし。てか今の自分の状態わかってる?

ぼんやり霞んだ目が血まみれになった俺の手のひらを見る。
俺もつられて自分の両手に目を落とした。
手のひらどころか、腕や胸まで血まみれ。まるで殺人犯だ。……確かにこれじゃあ治療っていうか、拷問してるみたいだわ。

「一応拷問じゃないんだけど…。とりあえず薬飲める? 痛み止め」

古いタオルで血を乱雑に拭く俺の手の動きを黒い目が追う。意識的に見ていると言うよりも、動いているものを追っている感じ。
アルミの包装紙からプチッと押し出した薬を指先に摘んで、男の薄い唇に押し当てた。大きな抵抗もなく、口の中に薬が落ちる。

「吐き出さないでね」

勿体無いから。
一応水を男の近くに置いて、シャワーを浴びようと立ち上がる。流石に他人の血に塗れたままじゃ気分が悪い。

「お前、誰」

今更すぎる質問に立ち止まり振り返った。
こちらをじっと見る顔は、ひどいアザや切り傷、腫れがなければ随分綺麗なものだったんだろうなって形をしていた。
……てかその質問、薬飲む前にするべきなんじゃないの。

「あんたが倒れてた目の前のアパートの住人」

それだけ言い残して浴室に向かった。
……いや、だって実際それだけしか言うことがなかったから。
不用心だなとは思うけど。止血は済んだし、逃げるなら逃げればいい。そういう意思表示のつもりだった。

「……いや、寝るんかい」

ガシガシ濡れた髪を拭きながら部屋に戻れば、同じ位置で同じように横たわっていた男についそんな声が漏れた。部屋には入らずに、敷居の上で立ち止まる。
男は、畳の上に敷かれたバスタオルの上で体を丸めて、長い前髪の下で静かに瞼を閉じていた。巣穴で息を顰めて眠る動物みたいな寝姿だった。

「……」

部屋の隅に畳んであった敷布団だけ引き摺り出して、黙ったまま引き戸を閉めた。

ここにいたいならここにいればいい。拾ったのは俺だし。俺は拾ったものを自分から捨てたりしない。

台所の脇に敷いた布団の上で、暗い天井を見上げながら誰に言うでもなくそんなことを考えていた。
一体何をそんなに意地になっているのか。
自分以外の気配を感じながら眠る夜は久しぶりだった。
食うのを忘れていたカップ麺は、次の朝ひどい有様になっていた。
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