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第一章『無意識の衝動』
第五話『再出発』
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あか、しろ、きいろ。色とりどりの花が咲く花畑の中に、ぽつんと一人の少年が佇んでいる。黄色いクラス帽子を被って、これまた黄色い鞄を肩から掛けた少年は、生来のやんちゃさ加減が丸出しの、真っ黒に日焼けした小高い鼻に、一枚の絆創膏を横断する形で貼り付けていた。
その足元にある苺は蛇苺だから、食べたり口に含んだらいけないよ、と教えてあげるべきだろうか。世間一般に噂されている様な毒は無いから人間には無害だけれど、ぼそぼそとしていて、そのままだと食べられたもんじゃないんだ。料理自慢の僕の母親は砂糖をたっぷり溶かし込んでジャムにしたら多少なり可愛げが出てくるなんて話していたけれど、自分から群生している野原に散策しに行って摘み取ったりなんてしなかった。
見た目は良いけど、ただそれだけの存在。だから、君が足元に広がる蛇苺の群生に向けている、きらきらとしたその瞳の中に、好奇心や期待感といった、胸がワクワクする微笑ましい感情が含まれているのを見て、僕は、『よしたら良いのに』と溜息を吐くばかりだった。だけど君は、そんな此方の言葉にならない忠告混じりの眼差しなんて気にもとめずに、その蛇苺に手を伸ばしたんだ。
人間の生来から併せ持つ興味や関心、好奇心。それを止める権利は誰にも無い。例え血の繋がりがあったとしても、口を挟める資格など有りはしない。だけど、君は僕にとって、とても大切な人の一粒種だから、お節介だと分かっていても、僕は、この言葉を贈るよ。
「可哀想だから、食べてもがっかりしないでね」
「え?これ、美味しくないの?」
「それは、個人差があるからなぁ。だけど、命は命でしょう?だから、せめて、思ってたのと違うやって、がっかりするのだけはしないのが、一応マナーなのかなって」
「瑠衣お兄ちゃん、めんどくせー」
この子の素直な性格は、父親譲りだ。だから、僕の心にスッと届く。きっと、幼稚園では友達も多く、大人にも遠慮しないしっかり者として、人気を博している事だろう。母親が早くに先立ったというこの子の心の隙間を、周りのみんなして、せっせと埋めようとしているけれど。そんな大人の気遣いにも、きっとこの子は気が付いている。
「あはは、だよねぇ。でも、それジャムに出来るんだよ。もし良かったら少しだけ摘んで帰って、お家で一緒に作ってみようか」
「ジャムって、家で作れるの?」
「うん。時間は掛かるけどね。でも、その間に君のお父さんが帰って来るだろうから、夕飯はそのジャムと、食事にもなるパンケーキにしてみようか」
「やった。とーちゃん、最近お疲れ様だから、甘いもの食べたいんじゃないかな」
こんな気遣いを、この幼さで出来てしまう事実に、心に、しくん、とした痛みが走る。こうして自然と大人にならざるを得なかった少年の心境を思うだけで、遣る瀬無い。だから僕は、片方の手では拳を作り、もう片方の手で少年の頭を撫でて。その子と蛇苺を少しだけ摘んで、キラキラと眩い西日を受けながら、一緒に手を繋いで帰途に着いた。
「ただいまー」
「「おかえりなさーい」」
この家の主が帰って来ると、家の中は一気に明るさに包まれた。僕はキッチンにいて手が離せないから、彼を少年と共に玄関で出迎えてから、子供と一緒に先にお風呂に入って来る様にと促して、直ぐにキッチンにトンボ返りした。
少年の言っていた通り、くたくたに草臥れている様子の彼を見て、食事用パンケーキに添える甘い物を用意して置いて良かったな、と胸を撫で下ろす。食事後には、アイスクリームメーカーで作ったアイスクリームもあるから、今日みたいな夏の気配がする日には持ってこいだろうと思えた。
お風呂を終え、すっぽんぽんでリビングに飛び込んできた少年を大振りのバスタオルで捕獲して、全身をわしわしとタオルドライし、下着とパジャマを着るのを見守る。その間に風呂から上がってきた彼に、料理の盛り付けだけをお願いして、今度は少年の頭をドライヤーで乾かしていった。
料理が完成すると配膳が待っている。配膳は、その日家にいる人間が全員で協力して行う事になっていて、いつも和気藹々と進められた。そして、頂きますからご馳走様でしたまで、毎日、和やかで暖かい食事を続けるのだ。
こうした帰宅後のルーティンは、この家の母親が突然先立って、様々な問題が落ち着きを見せ始めた、ここ一年で構築されたものだ。最初はすれ違いも多かったけれど、お互いに仕事をしながら家事を分担していく流れに慣れて来ると、次第に、お互いに対する感謝を口にしていける様になって。彼は、『瑠衣がいてくれて、本当に助かったよ』だなんて、子供の寝かしつけや食事の後片付けが終わった後の晩酌の時間に、ぽつり、と呟く様になった。
そして、そんな話をすると、いつも決まって彼は、僕の勤務先との兼ね合いもあって始まった今の様な半同居生活を、本格的な同居の形にしてみないか、と真剣に迫る様になっていった。
だけど、僕はいつも、彼に対して同じ返事を返すばかりで。その提案には、絶対に首を縦に振らなかった。彼の中にある本音は、僕に対する恋愛感情だけではなく、子供の母親代わりになる存在が欲しいという、その思いの方が強い。それが透けて見える関係性に、いつまでも深く関わり続けていては、一周回って彼の為にならない。僕がこの関係性を自ら進んで始めたのは、この生活に安らぎを見出していたのは、今の生活が円滑に流れていくのは、僕が本当の意味で、この家庭に責任が無いからだ。その根っこにある部分をどれだけ説明しても、彼は本当の意味で、僕の気持ちを理解してくれない。今まで通りにしてくれたら良いんだ、という一点張りで、話し合いはいつも平行線を辿っていた。
そして、子供の寝かしつけが済んだリビングで、お互いに酒が入った状態で、こんな話になってしまえば、その後、どんな縺れ方になってしまうかは、自明の理で。そんな一晩を、何度となく繰り返していくうちに、僕は、この関係性を自分の手で終わらせる必要があると、決心を固める様になった。
「先生。今日は、折り入ってお話があるんです。お酒は飲まずに、話したい事が」
彼……先生とは、僕が掛かりつけにしていた心療内科で出会った。落ち着いた雰囲気で、スタイルも顔立ちも、とてもスマートで。親身に患者に寄り添い、適度な距離を保ってアドバイスをしたり、悩みを穏やかな様子で傾聴してくれる先生は、僕の憧れの存在でもあった。自分自身の大学での選考が医学部だった事もあり、誰からも尊敬され、女性患者や看護師からは憧れの的になっている先生の仕事ぶりには、いつも惚れ惚れとしてしまって。人生の先輩でもある先生に、僕は次第に、凝り固まっていた心を開いていった。
森本 克樹の存在。僕と克樹がどの様な関係性を築いてきたか。その後、二人の関係性が、どんな顛末を迎えたか。何故自分はいまここに居るのか。症状を落ち着かせ、完全に治すには、どれだけ時間が掛かるのか。
そんな、他の誰にも相談出来ない話も、先生にだけは話す事が出来た。先生は、そんな僕に寄り添い、僕を励まして、僕の持つ、幼い頃からずっと好きだった人から自立した人間になりたいという夢も、誰よりも応援してくれた。
そんな先生との暖かい交流を重ねてく内に、僕自身もとても癒されて。病気が完治すれば縁が途切れてしまう関係性だと分かりながらも、その寂しさを、見て見ぬフリをした。
先生の左手に付けていた結婚指輪が消えていたのに気が付いたのは、僕が二年以上の臨床研修を終えて、第一希望だった就職先に内定し、診察のついでに、その報告をするというタイミングだった。
今日は付け忘れてしまったのかな、珍しいな、と思いながらも、それは流石に口に出せないしな、と考えを改めて診察を続けていくと、会話が不自然に途切れたタイミングで、初めて先生の方から、自身自身のプライベートな情報を話してくれたんだ。
『実は、妻に先立たれてしまったんだ』と。
気持ちの整理が全く出来ない上に、小さな子供もいて。駆け落ちに近い形で無理矢理結婚した為に、親戚にも頼れず。二人だけでこれからどうしたらいいか分からない、と。
こんなにも弱り果てた先生は、当たり前の様に見た事が無かったから。僕は、感情移入して、泣き出してしまいそうになったけれど。それ以上に、これまでお世話になってきた先生に、何か恩返しがしたくて。
『僕にお手伝いできる事、ありませんか?』
そんな、何気無くを装ったお節介を、いつの間にか口にしていた。
普通なら、患者だった人間を家に上げて、しかも自分の身の回りの手伝いをして貰おうなんて、考えたりしないだろう。お金で解決出来ない程、収入に不安がある訳でもない。だから、この関係性は、イレギュラー中のイレギュラーだった。
けれど、僕は、その日の診察を最後に、その病院を卒業する運びになっていたから。患者と先生という立場も、同時に卒業する、という流れが出来ていて。今思えば、先生は、それを分かった上で、僕にその話をしてくれたのかもしれないな、だなんて身勝手にも思い込んでいたりもする。
いくら気心が知れていて、信用が置けるからといって、患者だった人間を他人の家庭事情に踏み込ませるだなんて、これまでの行いを恩に着せた大人の狡い発想だ、という意見も、あるにはあるかもしれないけれど。僕は、先生を一度だって狡いと思った事はないし、寧ろ、憧れていた先生に頼られて、その支えとなれる事実を嬉しいとすら感じていた。
そして、そのまま僕は、先生の仕事が終わるまで、病院の近所にある個人経営の喫茶店で待ち続け、その店で待ち合わせをしてから、先生の家に二人で向かった。
私服の先生は、本当に、頭の天辺から足の爪先まで、モデルみたいに整っていて、格好良かった。大人の渋みや男としての威厳や風格みたいな物が、いつもより更に増した気がして。だけど、そんな先生が今一番頼りにしているのは僕なんだ、とふと不思議に思って。どうして僕みたいな若造を態々選んで、自分の弱みを見せてくれたのか。自分の懐に導いてくれたのか、先生の隣を歩きながら、ずっと疑問を抱いていた。
そして、先生が、先輩精神科医として、忖度なく仕事の相談に乗ってくれたり、アドバイスをして貰うというのと交換条件で、先生の家に通いながら、その生活を支えるという生活がスタートしたんだ。
今振り返っても、半ば強制的に家事能力を磨きながら、見ず知らずの子供の子育ての半分かそれ以上を任され、新卒社会人としてのペースを安定させるなんて芸当を、僕みたいな不器用な人間が、よくこなしたな、とも思う。だけど、克樹という存在を失い、日々の生活がセピア色になってしまった僕を、この家族が齎す忙しさと家庭の明るさが支えてくれたのも、確かで。だから、僕は、他人からお人好しが過ぎるとどれだけ思われても、この家族に対して、純粋な感謝の気持ちしかなかった。
だけど、ある時。子供を寝かしつけた時間になっても、先生が帰ってこない日があって。あまりの遅さに終電を逃しそうになった僕は、心配して先生に電話して見ることにした。僕が連絡すると、家の玄関の扉の前で、コール音が鳴り響いて。もしやと思い、玄関の扉を開けると、深酒して寝入っている泥酔状態の先生が、壁に背を預けて座り込んでいる姿で発見された。
慌てて先生を部屋の中に引き摺り込み、なんとか揺さ振り起こして水を飲ませ、寝室まで送り届けると、その時には終電の時間がとっくに過ぎてしまっていた。どうしたものかな、と一人悩んでいると、背後に誰かが、音も無く立った気配を感じて。次の瞬間には、背後からきつく、抱き締められてしまった。
大人の男の人の、ごつごつとしていて、しっかりとした骨格を背中に感じて、僕は、ぴたりと身動きが取れなくなった。そして、そのまま身体中を熱い掌でまさぐられて。首筋に、何度も何度も唇を落とされて。だけど、その瞬間、先生が、こんな行為をするのは、もしかしたら亡くなってしまったパートナーと、自分を見間違えているのでは、と思いついて。
僕は、『先生、しっかりして下さい。僕は、あなたの奥さんではありません』と、必死になって言い募り、腕を外そうと、先生の腕中でもがき続けた。
しかし、先生は、全く僕の言う事を聞いてはくれず、全身を弄る手を止める事もしなかった。話が通じないまで、完全に意識が飛んでいるのか、と焦った僕は、先生を何とか引き剥がそうと身を捩り……なんと、その場に二人して横転してしまったのだった。
頭を打っていないか、僕が慌てて確認すると、そこには、先生の真剣な眼差しがあって。先生は、一滴もアルコールなんて摂取していなかったんだと、その時になって漸く気が付いた。
その、驚くくらいに真摯な瞳に、僕の心臓は、ばくり、と大きく飛び跳ねてしまって。
『あ、これは、きっと、このままだと、この人は』
と、一瞬で悟りを得てしまった僕に向けて、先生は、真っ直ぐに僕の目を見つめながら、自分が本当はゲイである、という事を打ち明けてきたんだ。
妻であるパートナーは、それを知って自分から命を絶った。駆け落ちまでした相手が、本当は本質的に自分を愛している訳では無いと知り、人生に絶望したからだという。
しかし、先生は、先生なりに彼女を誰よりも大切にしていた。彼女以上に、自然体で接する事のできる女性など他にいないと分かっていたから。だから、彼女に対する深い親愛は、それまで出会ってきたどんな女性よりも感じていたらしい。それでも、価値観のズレと、心理的なすれ違いの深い溝は埋められる事なく。とうとう最後まで、分かり合える日は訪れなかった。
こんな、人一人幸せに出来ない人間が、人助けの精神を根底に置いた仕事に従事したり、人の相談を受け、その人の人生を手助けしたりする仕事に向くはずが無い。ましてや、子供を一人前の大人にまで育て上げられる人生など送れる筈もない。
人生を悲観した先生は自暴自棄になり、次第に生活は荒れていった。ハウスキーパーを雇いはしたものの、無味乾燥な生活が続き、まだ幼稚園に通い始めたばかりの子供にも、負担ばかり掛けてしまっていた。
子供の事を思えば、土下座して親族に託したり、施設に預けるという選択肢もあったが、子供は本当に宝の様に思って、自分自身の生きる希望でもあったから、その可能性にだけはギリギリまで目を瞑りたかった。そんな、後にも先にも進めない、切迫した生活を送る中で、先生は、ある人物に出逢った。
それが、僕だった。
先生は、僕を一目見た次の瞬間に、自分の手元にある僕が書いたプロフィール欄に、無意識のうちに、サッと目を落としたという。そして、それだけでなく、僕が自分の隣に立ち、穏やかな微笑みを浮かべている想像まで働かせてしまった。
年齢は、自分よりも一回り以上離れている。相手から見れば、自分なんて、ただの中年のコブ付きにしか見えない。そもそも、患者と医師だ。それに、いまは、仕事中。弁えろ、有り得ないだろう、と頭を振って厳しく自分を律した。
けれど、何度も何度も対面し、親しいコミュニケーションを交わし、僕のこれまで経験してきた出来事や、僕の人間性そのものに触れていくにつれて、僕に対する募る気持ちを、徐々に抑え切れなくなっていったのだという。
そして、根気よく取り組んできたカウンセリングと投薬治療が功を奏し、僕の病院通いからの卒業が決まった段階で、遂に、その我慢の限界がやって来てしまった。それまで身に着けてきた結婚指輪を外し、自分の心のまま忠実に、僕を自分の家へと、半ば強引に引き入れたのだ。だから先生は、今のこの状況を、この世の奇跡が舞い降りたといって憚らなかったのかと、僕は漸く納得がいった。
このままこの家に泊まれば、僕達の関係性は、本当の意味で変わってしまう。だけど、僕には、先生の手を振り解くだけの、気力が湧いて来なかった。
この人は、人生に、運命に、疲れてしまった人だ。だから、藁にもすがる気持ちで、僕に手を伸ばしてしまった。きっと、僕じゃなくても、こんな素敵な人なら、いつかは自分の素直な気持ちのまま過ごせる人と、巡り会えるだろう。だから、それまでの間、僕がこの人の止まり木になるのは、別に悪い事じゃないかもしれない。
このまま恋人関係を結ぶのに、全くの抵抗感がないかと言われたら嘘にはなるけれど。それだって、これまで僕が回復するまで支え続けてきてくれた先生が相手なら、やぶさかではない、という気持ちも、本音としてあった。
そして、決定的なまでの判断力の欠如を起こすくらいには、僕も程よく、疲れ切っていたんだ。克樹という大き過ぎる存在を失ってからの日々に。
先生と、子供と過ごす時間は、癒しだ。世界中の誰よりも大切だった存在を喪失して、心の拠り所を失ってしまった今の僕にとって、心の支えとも呼べる存在だ。だけど、克樹という、僕にとって大き過ぎる存在が空けた穴を埋められるのは、この世界で、やはり、克樹ただ一人しか存在しないんだと、僕は漸く思い知った。
けれど、そんな、他の誰であっても埋めようのない穴を僕の中に形成している克樹は、友人だった人間の風の便りによると、かなり派手な女遊びを繰り返しているらしいと聞く。
腕にびっしりとタトゥーを彫り、顔や耳にいくつもピアスホールを付け、ある意味で未だに青春を浪費している克樹の話は、どこの誰のSNSを覗いても、いつも話題の渦中にあった。
本人自身も、積極的にSNSを活用して、精力的に新しい出会いを求めている様だ。こんな風に、振った側であるにも関わらず周りの状況を嗅ぎ回っている様な碌でもない僕なんて、きっともう、眼中には無いのだろう。それを良かった、と思う反面、爛れた生活を送る克樹を心配する気持ちも自然に沸いてきて。だけど、今の贖罪すらまだ終わらせていない僕には、克樹を心配するという感情そのものが、まだまだ持っていてはいけない身勝手な感情だと分かっていたから。その感情を自覚した瞬間に、自分を激しく律した。
ずっとずっと、目の前にぶら下げられていた飴玉の味を、どんな味がするのか知りたい、と好奇心を発揮していたが為に、それが執着心や独占欲、ひいては支配欲求に変わっていっただけ。何の事はない、何処にでも掃いて捨てる程いる存在だと、漸く気が付いたであろう今では、克樹みたいに、誰からも尊重される人間には、例え友達や幼馴染という関係性であっても、当たり前の様に釣り合わないのだ。
僕は、道端や野原に実る、蛇苺。砂糖をたっぷり加えて煮詰めないと、碌に食卓にも並べられない、つまらなくて、ありふれた存在なんだ。
僕が、克樹の前から姿を消した本当の理由は、きっと、手に入ったと同時に、僕の本来持つ価値に気付いた克樹が、僕に飽きたり失望したりして、そのまま僕を置き去りに、他の誰かの元に行くという未来が、ありありと想像出来たらからなんだと思う。
誰だって、自分の心は、守りたい。だから、完全に壊されてしまう前に、見たくない、経験したくない未来から遠去かるという選択肢を選ぶのは、そんなに珍しい話ではない筈だ。
だから、僕は、その晩、先生の手を取り。そのまま、一週間のうちの約半分を、先生の家で過ごす、半同居を始める事にした。だけど、そんな生活も、今日この日をもってして、終わりを遂げる。
少年には、はっきりとした自我が生まれ、この環境の歪さに、次第に気付き始めてきている。だから、幼稚園よりも更に土着性の高い小学校に上がる前に、僕は、この家庭から抜け出さなくてはいけない。子供と先生が、僕という似ても似つかない存在を、親戚筋として紹介し続けるのは限度がある。だから、小学校にあがる前の事前準備が本格始動する今のうちに、僕は、この関係性を自分から終わらせる必要があるんだ。
「先生とお子さんと過ごした時間は、僕の心の支えでした。いまの僕があるのは、先生のおかげです。だから、僕みたいな人間が足枷になる前に、綺麗にお別れする方が、お互いの為に良いんだと思います」
先生は、何も言わずに、頭を抱え、ソファーに浅く腰を下ろしていた。だから、お互いの心情はどうであれ、落ち着いて話が出来て良かった、と僕は、ホッと胸を撫で下ろした。
別れ話みたいなものは経験が無いわけじゃないから、落ち着いて話が進められた。それに、どんな辛い経験も、積み重ねていけば自分自身の土壌になるんだな、とも思えたから。僕もこれでいて以前より、いくらか成長してこれたのかな、と珍しく自分を褒める事が出来たけれど。先生を深く傷付けてしまった事実は変わらないから、その罪の意識だけは胸にして、前に進んで行こうと思えた。
だけど、そうだな。
心の中で、あの子に、『ありがとう』を告げたのは、いつ振りだろうか。
あか、しろ、きいろ。色とりどりの花が咲く花畑の中に、ぽつんと一人の少年が佇んでいる。黄色いクラス帽子を被って、これまた黄色い鞄を肩から掛けた少年は、生来のやんちゃさ加減が丸出しの、真っ黒に日焼けした小高い鼻に、一枚の絆創膏を横断する形で貼り付けていた。
その足元にある苺は蛇苺だから、食べたり口に含んだらいけないよ、と教えてあげるべきだろうか。世間一般に噂されている様な毒は無いから人間には無害だけれど、ぼそぼそとしていて、そのままだと食べられたもんじゃないんだ。料理自慢の僕の母親は砂糖をたっぷり溶かし込んでジャムにしたら多少なり可愛げが出てくるなんて話していたけれど、自分から群生している野原に散策しに行って摘み取ったりなんてしなかった。
見た目は良いけど、ただそれだけの存在。だから、君が足元に広がる蛇苺の群生に向けている、きらきらとしたその瞳の中に、好奇心や期待感といった、胸がワクワクする微笑ましい感情が含まれているのを見て、僕は、『よしたら良いのに』と溜息を吐くばかりだった。だけど君は、そんな此方の言葉にならない忠告混じりの眼差しなんて気にもとめずに、その蛇苺に手を伸ばしたんだ。
人間の生来から併せ持つ興味や関心、好奇心。それを止める権利は誰にも無い。例え血の繋がりがあったとしても、口を挟める資格など有りはしない。だけど、君は僕にとって、とても大切な人の一粒種だから、お節介だと分かっていても、僕は、この言葉を贈るよ。
「可哀想だから、食べてもがっかりしないでね」
「え?これ、美味しくないの?」
「それは、個人差があるからなぁ。だけど、命は命でしょう?だから、せめて、思ってたのと違うやって、がっかりするのだけはしないのが、一応マナーなのかなって」
「瑠衣お兄ちゃん、めんどくせー」
この子の素直な性格は、父親譲りだ。だから、僕の心にスッと届く。きっと、幼稚園では友達も多く、大人にも遠慮しないしっかり者として、人気を博している事だろう。母親が早くに先立ったというこの子の心の隙間を、周りのみんなして、せっせと埋めようとしているけれど。そんな大人の気遣いにも、きっとこの子は気が付いている。
「あはは、だよねぇ。でも、それジャムに出来るんだよ。もし良かったら少しだけ摘んで帰って、お家で一緒に作ってみようか」
「ジャムって、家で作れるの?」
「うん。時間は掛かるけどね。でも、その間に君のお父さんが帰って来るだろうから、夕飯はそのジャムと、食事にもなるパンケーキにしてみようか」
「やった。とーちゃん、最近お疲れ様だから、甘いもの食べたいんじゃないかな」
こんな気遣いを、この幼さで出来てしまう事実に、心に、しくん、とした痛みが走る。こうして自然と大人にならざるを得なかった少年の心境を思うだけで、遣る瀬無い。だから僕は、片方の手では拳を作り、もう片方の手で少年の頭を撫でて。その子と蛇苺を少しだけ摘んで、キラキラと眩い西日を受けながら、一緒に手を繋いで帰途に着いた。
「ただいまー」
「「おかえりなさーい」」
この家の主が帰って来ると、家の中は一気に明るさに包まれた。僕はキッチンにいて手が離せないから、彼を少年と共に玄関で出迎えてから、子供と一緒に先にお風呂に入って来る様にと促して、直ぐにキッチンにトンボ返りした。
少年の言っていた通り、くたくたに草臥れている様子の彼を見て、食事用パンケーキに添える甘い物を用意して置いて良かったな、と胸を撫で下ろす。食事後には、アイスクリームメーカーで作ったアイスクリームもあるから、今日みたいな夏の気配がする日には持ってこいだろうと思えた。
お風呂を終え、すっぽんぽんでリビングに飛び込んできた少年を大振りのバスタオルで捕獲して、全身をわしわしとタオルドライし、下着とパジャマを着るのを見守る。その間に風呂から上がってきた彼に、料理の盛り付けだけをお願いして、今度は少年の頭をドライヤーで乾かしていった。
料理が完成すると配膳が待っている。配膳は、その日家にいる人間が全員で協力して行う事になっていて、いつも和気藹々と進められた。そして、頂きますからご馳走様でしたまで、毎日、和やかで暖かい食事を続けるのだ。
こうした帰宅後のルーティンは、この家の母親が突然先立って、様々な問題が落ち着きを見せ始めた、ここ一年で構築されたものだ。最初はすれ違いも多かったけれど、お互いに仕事をしながら家事を分担していく流れに慣れて来ると、次第に、お互いに対する感謝を口にしていける様になって。彼は、『瑠衣がいてくれて、本当に助かったよ』だなんて、子供の寝かしつけや食事の後片付けが終わった後の晩酌の時間に、ぽつり、と呟く様になった。
そして、そんな話をすると、いつも決まって彼は、僕の勤務先との兼ね合いもあって始まった今の様な半同居生活を、本格的な同居の形にしてみないか、と真剣に迫る様になっていった。
だけど、僕はいつも、彼に対して同じ返事を返すばかりで。その提案には、絶対に首を縦に振らなかった。彼の中にある本音は、僕に対する恋愛感情だけではなく、子供の母親代わりになる存在が欲しいという、その思いの方が強い。それが透けて見える関係性に、いつまでも深く関わり続けていては、一周回って彼の為にならない。僕がこの関係性を自ら進んで始めたのは、この生活に安らぎを見出していたのは、今の生活が円滑に流れていくのは、僕が本当の意味で、この家庭に責任が無いからだ。その根っこにある部分をどれだけ説明しても、彼は本当の意味で、僕の気持ちを理解してくれない。今まで通りにしてくれたら良いんだ、という一点張りで、話し合いはいつも平行線を辿っていた。
そして、子供の寝かしつけが済んだリビングで、お互いに酒が入った状態で、こんな話になってしまえば、その後、どんな縺れ方になってしまうかは、自明の理で。そんな一晩を、何度となく繰り返していくうちに、僕は、この関係性を自分の手で終わらせる必要があると、決心を固める様になった。
「先生。今日は、折り入ってお話があるんです。お酒は飲まずに、話したい事が」
彼……先生とは、僕が掛かりつけにしていた心療内科で出会った。落ち着いた雰囲気で、スタイルも顔立ちも、とてもスマートで。親身に患者に寄り添い、適度な距離を保ってアドバイスをしたり、悩みを穏やかな様子で傾聴してくれる先生は、僕の憧れの存在でもあった。自分自身の大学での選考が医学部だった事もあり、誰からも尊敬され、女性患者や看護師からは憧れの的になっている先生の仕事ぶりには、いつも惚れ惚れとしてしまって。人生の先輩でもある先生に、僕は次第に、凝り固まっていた心を開いていった。
森本 克樹の存在。僕と克樹がどの様な関係性を築いてきたか。その後、二人の関係性が、どんな顛末を迎えたか。何故自分はいまここに居るのか。症状を落ち着かせ、完全に治すには、どれだけ時間が掛かるのか。
そんな、他の誰にも相談出来ない話も、先生にだけは話す事が出来た。先生は、そんな僕に寄り添い、僕を励まして、僕の持つ、幼い頃からずっと好きだった人から自立した人間になりたいという夢も、誰よりも応援してくれた。
そんな先生との暖かい交流を重ねてく内に、僕自身もとても癒されて。病気が完治すれば縁が途切れてしまう関係性だと分かりながらも、その寂しさを、見て見ぬフリをした。
先生の左手に付けていた結婚指輪が消えていたのに気が付いたのは、僕が二年以上の臨床研修を終えて、第一希望だった就職先に内定し、診察のついでに、その報告をするというタイミングだった。
今日は付け忘れてしまったのかな、珍しいな、と思いながらも、それは流石に口に出せないしな、と考えを改めて診察を続けていくと、会話が不自然に途切れたタイミングで、初めて先生の方から、自身自身のプライベートな情報を話してくれたんだ。
『実は、妻に先立たれてしまったんだ』と。
気持ちの整理が全く出来ない上に、小さな子供もいて。駆け落ちに近い形で無理矢理結婚した為に、親戚にも頼れず。二人だけでこれからどうしたらいいか分からない、と。
こんなにも弱り果てた先生は、当たり前の様に見た事が無かったから。僕は、感情移入して、泣き出してしまいそうになったけれど。それ以上に、これまでお世話になってきた先生に、何か恩返しがしたくて。
『僕にお手伝いできる事、ありませんか?』
そんな、何気無くを装ったお節介を、いつの間にか口にしていた。
普通なら、患者だった人間を家に上げて、しかも自分の身の回りの手伝いをして貰おうなんて、考えたりしないだろう。お金で解決出来ない程、収入に不安がある訳でもない。だから、この関係性は、イレギュラー中のイレギュラーだった。
けれど、僕は、その日の診察を最後に、その病院を卒業する運びになっていたから。患者と先生という立場も、同時に卒業する、という流れが出来ていて。今思えば、先生は、それを分かった上で、僕にその話をしてくれたのかもしれないな、だなんて身勝手にも思い込んでいたりもする。
いくら気心が知れていて、信用が置けるからといって、患者だった人間を他人の家庭事情に踏み込ませるだなんて、これまでの行いを恩に着せた大人の狡い発想だ、という意見も、あるにはあるかもしれないけれど。僕は、先生を一度だって狡いと思った事はないし、寧ろ、憧れていた先生に頼られて、その支えとなれる事実を嬉しいとすら感じていた。
そして、そのまま僕は、先生の仕事が終わるまで、病院の近所にある個人経営の喫茶店で待ち続け、その店で待ち合わせをしてから、先生の家に二人で向かった。
私服の先生は、本当に、頭の天辺から足の爪先まで、モデルみたいに整っていて、格好良かった。大人の渋みや男としての威厳や風格みたいな物が、いつもより更に増した気がして。だけど、そんな先生が今一番頼りにしているのは僕なんだ、とふと不思議に思って。どうして僕みたいな若造を態々選んで、自分の弱みを見せてくれたのか。自分の懐に導いてくれたのか、先生の隣を歩きながら、ずっと疑問を抱いていた。
そして、先生が、先輩精神科医として、忖度なく仕事の相談に乗ってくれたり、アドバイスをして貰うというのと交換条件で、先生の家に通いながら、その生活を支えるという生活がスタートしたんだ。
今振り返っても、半ば強制的に家事能力を磨きながら、見ず知らずの子供の子育ての半分かそれ以上を任され、新卒社会人としてのペースを安定させるなんて芸当を、僕みたいな不器用な人間が、よくこなしたな、とも思う。だけど、克樹という存在を失い、日々の生活がセピア色になってしまった僕を、この家族が齎す忙しさと家庭の明るさが支えてくれたのも、確かで。だから、僕は、他人からお人好しが過ぎるとどれだけ思われても、この家族に対して、純粋な感謝の気持ちしかなかった。
だけど、ある時。子供を寝かしつけた時間になっても、先生が帰ってこない日があって。あまりの遅さに終電を逃しそうになった僕は、心配して先生に電話して見ることにした。僕が連絡すると、家の玄関の扉の前で、コール音が鳴り響いて。もしやと思い、玄関の扉を開けると、深酒して寝入っている泥酔状態の先生が、壁に背を預けて座り込んでいる姿で発見された。
慌てて先生を部屋の中に引き摺り込み、なんとか揺さ振り起こして水を飲ませ、寝室まで送り届けると、その時には終電の時間がとっくに過ぎてしまっていた。どうしたものかな、と一人悩んでいると、背後に誰かが、音も無く立った気配を感じて。次の瞬間には、背後からきつく、抱き締められてしまった。
大人の男の人の、ごつごつとしていて、しっかりとした骨格を背中に感じて、僕は、ぴたりと身動きが取れなくなった。そして、そのまま身体中を熱い掌でまさぐられて。首筋に、何度も何度も唇を落とされて。だけど、その瞬間、先生が、こんな行為をするのは、もしかしたら亡くなってしまったパートナーと、自分を見間違えているのでは、と思いついて。
僕は、『先生、しっかりして下さい。僕は、あなたの奥さんではありません』と、必死になって言い募り、腕を外そうと、先生の腕中でもがき続けた。
しかし、先生は、全く僕の言う事を聞いてはくれず、全身を弄る手を止める事もしなかった。話が通じないまで、完全に意識が飛んでいるのか、と焦った僕は、先生を何とか引き剥がそうと身を捩り……なんと、その場に二人して横転してしまったのだった。
頭を打っていないか、僕が慌てて確認すると、そこには、先生の真剣な眼差しがあって。先生は、一滴もアルコールなんて摂取していなかったんだと、その時になって漸く気が付いた。
その、驚くくらいに真摯な瞳に、僕の心臓は、ばくり、と大きく飛び跳ねてしまって。
『あ、これは、きっと、このままだと、この人は』
と、一瞬で悟りを得てしまった僕に向けて、先生は、真っ直ぐに僕の目を見つめながら、自分が本当はゲイである、という事を打ち明けてきたんだ。
妻であるパートナーは、それを知って自分から命を絶った。駆け落ちまでした相手が、本当は本質的に自分を愛している訳では無いと知り、人生に絶望したからだという。
しかし、先生は、先生なりに彼女を誰よりも大切にしていた。彼女以上に、自然体で接する事のできる女性など他にいないと分かっていたから。だから、彼女に対する深い親愛は、それまで出会ってきたどんな女性よりも感じていたらしい。それでも、価値観のズレと、心理的なすれ違いの深い溝は埋められる事なく。とうとう最後まで、分かり合える日は訪れなかった。
こんな、人一人幸せに出来ない人間が、人助けの精神を根底に置いた仕事に従事したり、人の相談を受け、その人の人生を手助けしたりする仕事に向くはずが無い。ましてや、子供を一人前の大人にまで育て上げられる人生など送れる筈もない。
人生を悲観した先生は自暴自棄になり、次第に生活は荒れていった。ハウスキーパーを雇いはしたものの、無味乾燥な生活が続き、まだ幼稚園に通い始めたばかりの子供にも、負担ばかり掛けてしまっていた。
子供の事を思えば、土下座して親族に託したり、施設に預けるという選択肢もあったが、子供は本当に宝の様に思って、自分自身の生きる希望でもあったから、その可能性にだけはギリギリまで目を瞑りたかった。そんな、後にも先にも進めない、切迫した生活を送る中で、先生は、ある人物に出逢った。
それが、僕だった。
先生は、僕を一目見た次の瞬間に、自分の手元にある僕が書いたプロフィール欄に、無意識のうちに、サッと目を落としたという。そして、それだけでなく、僕が自分の隣に立ち、穏やかな微笑みを浮かべている想像まで働かせてしまった。
年齢は、自分よりも一回り以上離れている。相手から見れば、自分なんて、ただの中年のコブ付きにしか見えない。そもそも、患者と医師だ。それに、いまは、仕事中。弁えろ、有り得ないだろう、と頭を振って厳しく自分を律した。
けれど、何度も何度も対面し、親しいコミュニケーションを交わし、僕のこれまで経験してきた出来事や、僕の人間性そのものに触れていくにつれて、僕に対する募る気持ちを、徐々に抑え切れなくなっていったのだという。
そして、根気よく取り組んできたカウンセリングと投薬治療が功を奏し、僕の病院通いからの卒業が決まった段階で、遂に、その我慢の限界がやって来てしまった。それまで身に着けてきた結婚指輪を外し、自分の心のまま忠実に、僕を自分の家へと、半ば強引に引き入れたのだ。だから先生は、今のこの状況を、この世の奇跡が舞い降りたといって憚らなかったのかと、僕は漸く納得がいった。
このままこの家に泊まれば、僕達の関係性は、本当の意味で変わってしまう。だけど、僕には、先生の手を振り解くだけの、気力が湧いて来なかった。
この人は、人生に、運命に、疲れてしまった人だ。だから、藁にもすがる気持ちで、僕に手を伸ばしてしまった。きっと、僕じゃなくても、こんな素敵な人なら、いつかは自分の素直な気持ちのまま過ごせる人と、巡り会えるだろう。だから、それまでの間、僕がこの人の止まり木になるのは、別に悪い事じゃないかもしれない。
このまま恋人関係を結ぶのに、全くの抵抗感がないかと言われたら嘘にはなるけれど。それだって、これまで僕が回復するまで支え続けてきてくれた先生が相手なら、やぶさかではない、という気持ちも、本音としてあった。
そして、決定的なまでの判断力の欠如を起こすくらいには、僕も程よく、疲れ切っていたんだ。克樹という大き過ぎる存在を失ってからの日々に。
先生と、子供と過ごす時間は、癒しだ。世界中の誰よりも大切だった存在を喪失して、心の拠り所を失ってしまった今の僕にとって、心の支えとも呼べる存在だ。だけど、克樹という、僕にとって大き過ぎる存在が空けた穴を埋められるのは、この世界で、やはり、克樹ただ一人しか存在しないんだと、僕は漸く思い知った。
けれど、そんな、他の誰であっても埋めようのない穴を僕の中に形成している克樹は、友人だった人間の風の便りによると、かなり派手な女遊びを繰り返しているらしいと聞く。
腕にびっしりとタトゥーを彫り、顔や耳にいくつもピアスホールを付け、ある意味で未だに青春を浪費している克樹の話は、どこの誰のSNSを覗いても、いつも話題の渦中にあった。
本人自身も、積極的にSNSを活用して、精力的に新しい出会いを求めている様だ。こんな風に、振った側であるにも関わらず周りの状況を嗅ぎ回っている様な碌でもない僕なんて、きっともう、眼中には無いのだろう。それを良かった、と思う反面、爛れた生活を送る克樹を心配する気持ちも自然に沸いてきて。だけど、今の贖罪すらまだ終わらせていない僕には、克樹を心配するという感情そのものが、まだまだ持っていてはいけない身勝手な感情だと分かっていたから。その感情を自覚した瞬間に、自分を激しく律した。
ずっとずっと、目の前にぶら下げられていた飴玉の味を、どんな味がするのか知りたい、と好奇心を発揮していたが為に、それが執着心や独占欲、ひいては支配欲求に変わっていっただけ。何の事はない、何処にでも掃いて捨てる程いる存在だと、漸く気が付いたであろう今では、克樹みたいに、誰からも尊重される人間には、例え友達や幼馴染という関係性であっても、当たり前の様に釣り合わないのだ。
僕は、道端や野原に実る、蛇苺。砂糖をたっぷり加えて煮詰めないと、碌に食卓にも並べられない、つまらなくて、ありふれた存在なんだ。
僕が、克樹の前から姿を消した本当の理由は、きっと、手に入ったと同時に、僕の本来持つ価値に気付いた克樹が、僕に飽きたり失望したりして、そのまま僕を置き去りに、他の誰かの元に行くという未来が、ありありと想像出来たらからなんだと思う。
誰だって、自分の心は、守りたい。だから、完全に壊されてしまう前に、見たくない、経験したくない未来から遠去かるという選択肢を選ぶのは、そんなに珍しい話ではない筈だ。
だから、僕は、その晩、先生の手を取り。そのまま、一週間のうちの約半分を、先生の家で過ごす、半同居を始める事にした。だけど、そんな生活も、今日この日をもってして、終わりを遂げる。
少年には、はっきりとした自我が生まれ、この環境の歪さに、次第に気付き始めてきている。だから、幼稚園よりも更に土着性の高い小学校に上がる前に、僕は、この家庭から抜け出さなくてはいけない。子供と先生が、僕という似ても似つかない存在を、親戚筋として紹介し続けるのは限度がある。だから、小学校にあがる前の事前準備が本格始動する今のうちに、僕は、この関係性を自分から終わらせる必要があるんだ。
「先生とお子さんと過ごした時間は、僕の心の支えでした。いまの僕があるのは、先生のおかげです。だから、僕みたいな人間が足枷になる前に、綺麗にお別れする方が、お互いの為に良いんだと思います」
先生は、何も言わずに、頭を抱え、ソファーに浅く腰を下ろしていた。だから、お互いの心情はどうであれ、落ち着いて話が出来て良かった、と僕は、ホッと胸を撫で下ろした。
別れ話みたいなものは経験が無いわけじゃないから、落ち着いて話が進められた。それに、どんな辛い経験も、積み重ねていけば自分自身の土壌になるんだな、とも思えたから。僕もこれでいて以前より、いくらか成長してこれたのかな、と珍しく自分を褒める事が出来たけれど。先生を深く傷付けてしまった事実は変わらないから、その罪の意識だけは胸にして、前に進んで行こうと思えた。
だけど、そうだな。
心の中で、あの子に、『ありがとう』を告げたのは、いつ振りだろうか。
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