蝉時雨〜雪空の下。夏、さんざんと

鱗。

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完璧なる被写体

冬休みに、友達と遊ぶ時に使った場所って、学校近くの公園とか、自宅とか友人宅の周辺なんかに落ち着くかと思えば、その子は違った様で。

その子の冬場の遊び場は、もっぱら、山梨県にある、有名な渓谷けいこくだった。

その為、俺は、収穫期を終えた田んぼに続く、閑散とした畦道を、少年と出逢ってから3日後に、少年と共に歩くこととなったのだけれど。


「普段、何するの、こんな場所で」


収穫期を終えた田んぼや、寒々とした渓谷に、釣りに来るでもなく、何の用があって向かわねばならないのか理由が分からず。俺は、バスを降りてから徒歩数十分掛けて畦道を行く少年の背中に向けて、随分と合間を設けてから声を掛けた。


沢蟹サワガニ

「え?」

「獲るんです、沢蟹」

「獲るって、どうやって?」

「この山の上に、沢があって。その岩の下にいるから、岩を転がして。逃げ出した沢蟹を、このバケツに入れるんです」

「……はぁ、成る程」


だから、軍手とバケツが必要だったわけね、成る程。駅前のバス停の前で待ち合わせする時、なんやかんや周囲の視線を浴びてきたけれど、理由が沢蟹獲りであるならば、多少の理解は得られたというか。ただ、バケツと軍手と、かなりの防寒着が必要だとして指定された上に、それを用意する理由を事前に知らされていなかったから、人通りの多い駅からバス停までの区間、だいぶ恥ずかしい思いをしたよね。

とはいえ、クリームソーダ一杯分と引き換えに得られた、少年との初めての撮影場所に指名された場所が、この畦道の先にある山の上の渓谷なのだから、なんらかの意図があって指定されたのだとは思ったけれど。沢蟹獲りかぁ、考えもしなかったなぁ。

線が細くて肌も真っ白な子だけど、意外にも、これまで自然と戯れて育ってきたのかな。

あぁ、でも、そりゃそうか。


「沢蟹って、見かけるの夏だったような気がするんだけど、なんで冬に?」

「あの子達、餌を春から夏の間摂って、冬に岩下に引き篭もって栄養を蓄えるので、本当の旬は冬なんですよ」


この子に、濃密な夏の気配を感じてる俺の、言えたことじゃないか。


「え?旬って、どういうこと?もしかして、食うの、アレ」

「お兄さんは、食べないんですか?」

「主に観賞用かと」

「春から秋なら、スーパーでも並んでますよ」

「えぇ、あれそういう意味だったん?」

「ショックですか?」

「カルチャーショックは、あるかも」

「……なんだか、すみません」


夏は避暑を目的とした、遊び場として。冬は、沢蟹を獲るための、狩猟場として。

この子の中で、自然とは常に、日常と隣り合わせの場所にあったんだろう。考えてみれば、この子を初めて捕まえた日も、クリスマスだった。塾が近いからといっていたけれど、もしかしたら、世間一般にいう憩いを求めて、最初からこの場所に来てみたくて、最寄駅からほど近いあの場所にいたのかもしれない。蜃気楼の様に透き通った空気を孕んでいても、身体は、自然に、馴染みのある場所を……自分自身を留めておける場所を、求めていたのだろう。

お祖父さんがまだ元気だった頃に、軽トラックで幼馴染と一緒に連れて行ってもらっていたと聞いていたから、幼い頃からコンクリートジャングルで生きてきた俺とは、訳が違うというか。

だからこそ、俺にとって、被写体に選びたいと思えた存在だったというべきか。


「うわ、ほん、……こんなに?」

「はい。もっと渓谷を上がれば、山葵わさびも自生してる場所もあるんですが、そっちの方が沢山……ただ、お兄さんには……」


自分の持つバケツの中にある、沢山の小さな命。その息遣いに、若干の申し訳なさと、初めての自然を相手にした狩猟に成功した僅かな高揚を感じていると、隣に立つ少年……碧君が申し訳なさそうに俯いた。


「その口振りからすると、俺に遠慮してる?」

「……えっと」

「大丈夫、身体は着いていけてるし、もっと上にも行ってみよう」

「でも……」

「多分だけど、君が……碧君が普段から遊び場にしていたのは、そっちが本命なんだろ?」


俯いたままの状態を維持したまま、無言を貫く碧君を見て、碧君の目から見えない角度を意識して口角を僅かに上げると、俺はその小さな肩を、軍手を装着した右手で、ぽん、と叩いた。

沢に浸した軍手から沁みた清水が冷たい。けれど、その冷たさには慣れているのか、碧君は嫌がりもせずに、その冷たさを受け入れてくれた。

優しい子だな、と思う。その優しさにつけ込んでいる自覚がある悪い大人の俺は、人に持たせる印象をある程度コントロールできる自覚も、同時に持ち合わせていた。


「大丈夫。まだ陽も高いし、行けるところまでいこう。だから、案内よろしく頼むよ」

「……はい」


写真を撮影する場所にと、より自然体でいられる場所に案内を頼んだのは、この俺だ。だから、そんな俺の要求に応えてくれた碧君の足を引っ張る様な真似だけはしたくない。そんな、言葉に出来ない俺の気持ちに呼応して、碧君は静かに頷いてくれた。


「この先は、殆ど人の手が入っていない岩場になっているので、苔がびっしり、岩に自生してるんです。滑らない様に足元に気を付けて、着いてきて下さい」

「うん。ありがとう、気をつけるよ」


黙々と足を進めると、その子の言った通り、清水をたたえた本格的な渓谷が、俺たちの目の前に、段々と広がってきた。田んぼの畦道から歩いて、20分ほど経っただろうか。山と川の景色が、一気に一変する。畦道のあった場所からは想像できないほどのすばらしい景観で。夏であれば、子供達だけでなく大人までをも、水の中に足を入れたくなるだろうと想像するのは目に見えていた。きっと、とても冷たくて、出るのが惜しいくらいに、ずっと入っていたくなるだろう。こんな風に素敵な渓谷が、バス停から歩いて40分ほどの場所にあるなんて、都会生まれの俺は、心底驚いてしまった。

大人が寝そべられるくらいに大きな岩も沢山ある。壮観ともいえる景色に、思わず、胸元に携えていたカメラを手に取っていた。


「撮影、ここでするんですか?」

「うん。そろそろいいかなって。大丈夫?」

「は、い……頑張ります」

「頑張らなくていいよ。前にも言ったけど、本当に、君がこの場所でいつもしていることをしてくれたら、それだけで、いいから」


幸いなことに、季節柄も相まって、俺たちの他には人影がない。天気も良く、陽の光も柔らかく、絶好の撮影日和といえた。だから、迷わずにそう口にすると、碧君は、俺に向けて、はにかむ様にして、微笑みを浮かべた。


「ふふ、本当に変な人」


夏を知らせる合歓ねむの樹の花。枝先にある、淡紅色たんこうしょくの繊細なそれがほころんだ様な。

ふわりとした笑みを、その子が浮かべた瞬間。


カシャン


俺の手は、身体は、ごく自然に動き。反射的に、カメラのシャッターを切っていた。

驚きに、ぽかん、と口を半開きにしたまま、ぴたりと身を固める碧君。それを、緊張と結びつけてしまう前に、碧君がより一層リラックスできる環境を、プロカメラマンの端くれとして、徐々に整えていった。


「たまに指示は出すけど、基本的には、いつもこの渓谷でしていることをしてくれたらいい。俺の存在は、頭から消して。純粋な気持ちで、自然と、自分自身と、戯れて」


この場所での撮影が済んだら、その後は、このまま真っ直ぐに、渓谷の中でも、一層、森の息吹を感じられる上流へ行くことになっている。碧君のお祖父さんが、昔から、碧君の幼馴染と一緒に連れて行ってくれた、本命の場所だそうで。沢の其処そこここに、自生している山葵もあるそうだ。

そんな、空気の澄んだ自然の中にある場所で撮影が出来るのが、いまから酷く楽しみだ。

だって、今ここには。


「ただ、生きて。思う存分」


完璧たる被写体俺の運命の人が、いるのだから。
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