癒しの聖女、その泪が枯れ果てる時

風信子 紫

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第一話 癒しの聖女

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 私の一族は皆、天恵を授かって産まれてくる。
 それは──なみだで他者の傷を癒すことのできる稀代な能力だった。
 身体的な傷も、精神的な傷も、たとえ不治の病であっても、その人の体に私達の泪が触れるだけで、治癒できてしまう。

 そして、必ず女の子として産まれてくることから。
 そんな私達は。


 ──癒しの聖女、そう呼ばれていた。


 天恵で、私も、お母様も、民衆を救ってきた。



 ──その命と引き換えに。



 癒しの力には、代償があった。

 ……いや、”そういう”能力なのだ。

 この能力は、”治癒”するのではなく……。

 ──自身の生命を泪にして、分け与えているのだ。

「……もう……すぐ……私も……」

 俗世に生を授かって十九年。

 私の人生にとばりが下りようとしていた。

 ──もうすぐ泪が枯れ果てて、この命も朽ち果てる。

 けれど、死ぬその瞬間まで、私は泣き続けなければならない。

 お母様も、そうだった。

 泪が飢渇し、天国へ旅立つその時まで、見ず知らずの人民の為にも、泣いて、泣いて、泣いて……。

 私が六歳の時に、この世をあとにした。

 そんなお母様を見て泣いたのは──私と義弟のエリクだけだった。

 民衆にとって、それが当然の事だったからだ。

 私達は、そういう存在なのだ。

 お母様の、私の、たった一つの命で、沢山の人民を救う事ができる。

 そんな都合のいい、存在でしかないのだから。

「やっと……そちらへ行けます……お母様……」

 まるで老婆の様に掠れた覇気のない声を絞り出す。

 あぁ、やっと、お母様に会える。

 この苦しみから、解放される。
 
 だけど──。

 私が死んだら……義弟は──。

 それだけが、心残りだった──。

   ◆

 この街で一段と豪奢ごうしゃに構える邸宅……の物置小屋。
 そこで、私と義弟のエリクは暮らしていた。

 逃げ出さないよう、私は壁に鎖ではりつけにされて。
 エリクはベッドの柵に手錠で繋がれて。

「寒く……ない……エリク……?」

 そう言いながら、少し離れたベッドに視線をやる。
 金とグレーの混ざったようなボサボサの髪の毛に、淡く揺らめく蒼の瞳。掴む皮すらない程に痩せこけた義弟が目に映った。

「けほっ……けほっ…………。だい……じょうぶ……だよ……あねき……」

 少しして、咳混じりの声がから聞こえた。
 大丈夫──その言葉とは真逆の、今にも消えてしまいそうな儚げな声だった。

 エリクは、産まれながらに病弱な体質で、人生のほとんどをベッドの上で過ごしてきた。
 そんな唯一”男の子”として生を授かった彼が──私のたった一つの宝物だった。

「……どうして……私の泪で……あなたを……」

 私が一番治癒したい存在の貴方を……。

「仕方ないさ……けほっ……お、俺は……悪魔の子だからな……」

 悪魔の子……。
 私は、エリクだけは、治癒することが許されていない。
 なぜなら──。

「──よう聖女……じゃなかった、汚れ女イリスちゃんっ」

 その時、鉛色の扉が開き、公爵家の子息リューク=ローランドが入ってきた。
 金色の髪は、どこまでも暗いこの部屋の光源となるくらい、輝いて見えた。

「リューク…………」

「きゃははっ! もうマジでしにそ~じゃん! ってか死ぬ寸前の人間って、顔こんなにブッサイクなんだ!」

 彼の背中から、その恋人であるニーナが顔を出し、私を指差しながらそう言った。

「にしても、やっぱマジなのね、あの話。こんな状態になっても死なないんだもん」

「あぁ。聖女の生命力が失われるのは、泪を人民に分与した時のみ。奇怪千万な呪いだよな」

「キャハッ! じゃあ、サンドバッグにもなれるじゃん! 癒しの聖女ならぬ殴られの聖女、なんてね!」

 ニーナは、大口を開けて笑う。

 数年前のとある私の行為をきっかけに、彼らから──いや、民衆全員から嫌われ、この小屋に幽閉されている。
 今の私は、癒しの聖女とは名ばかりの、この場所で病人や怪我人を治癒するだけの奴隷だった。

「………………っっ」

 二人が、私の方へと近づいてくる。
 ゴミを見るような、下卑た目をしながら。
 
 そして、リュークは、接着するくらいまで顔を私の顔へ近づけて。

「死ぬまでたっぷり痛ぶってやるからな?」

 そう呟くと、悪意に満ちた生温かい吐息が、顔を撫でた。

「キャハハッ! リュークひどーいっ! 仮初とは言え、許嫁の女の子にー!」

 隣のニーナが、お腹を抱えて笑う。
 それまた悪意に満ちた、猫撫で声で。

「ふんっ、んなの親が──この街が決めた事だ」

 私とリュークは、形だけとはいえ、特別な関係にあった。
 だがその特別とは、許嫁──その言葉通りのような美麗なものではなく……。

「我が家の血で、癒しの聖女は子孫を残す。そんなくだらねぇしきたりってだけだ」

 先祖代々、癒しの聖女は、リューク──ローランド家との子供でなければならない、という言い伝えがあった。
 つまり、私は、お母様とリュークの父親の子であり。
 そして、次期聖女は、私とリュークの子になる。

「ほんとにぃ~? しきたりとはいえイリス抱けてラッキーとか思ってんじゃないのぉ?」

「はっ、こんな汚ねぇガリガリ女をか? そこら辺の奴隷抱いた方がマシだな」

「アハッ! ねぇイリス、聞いた? 酷いでちゅね~アンタの婚約者様は? 奴隷以下の蛆虫ですって」

「おいおい、ニーナのがひでぇじゃねぇか。蛆虫にも失礼だぞ?」

 そういって、二人は笑い合った。

「…………っっ」

 どうして、私は彼らの為に泪を流さなければならないのだろう。

 どうして、私は民衆の為にこの体を捧げなければならないのだろう。

「……何その目? なんか、被害者面してない? そんな顔していいって、誰が許可したの?」

 ニーナが冷酷な表情で近づく。
 そして──。

「誰が許可したの……かなぁ!?」

「……………っっ!!」

 頬に思いきり平手打ちをされた。
 痛みが熱となって、広がっていく。
 叩かれた頬だけでなく、衰弱した身体に伝播するように、痛みが狂喜乱舞する。

「キャハッ! ねぇ、今の音、凄くなかった!? バチンって、気持ちいいくらい鳴ったよね!?」

 ニーナは夕焼けのような黄金色の長髪を靡かせ、高らかに笑う。

「あんだけいい音したんだから、さぞかし気持ちよかったんだろうね? ね、イリス?」

「…………痛──」

 そう返答しようとした時。
 再び、彼女の平手が飛んできた。

「…………っっ!!」

 まるで弓矢に貫かれたかのような突き刺さる痛みに、声が漏れる。

「喋っていいですかニーナ様、でしょう? ってか、今痛かったって言おうとした? え、痛い訳なくない? あたしが癒しの聖女様に苦痛を与えたとでも言うの? もしかして脳みそまでも不細工になっちゃった? ねぇ、イリス?」

 卑劣な笑顔を咲かして、私の顎をくいっと持ち上げ、そういった。

「…………痛く……なかったです……」

 思考を放棄して、彼女に言われた通りの言葉を吐く。

「だからぁ? 喋っていいですかニーナ様、でしょう? その学習能力、イリスちゅわんはやっぱり蛆虫ですかぁ? それともただの馬鹿ですかぁ? あ、馬鹿じゃしょうがないでちゅね~、癒しの聖女様でも馬鹿だけは治せないでちゅもんね~」

 そう、扇動的な、赤子にかけるような言葉を吐き捨てられて。
 
 ──パチンッ。

 ──パチンッ。

 彼女は、何度も何度も、平手打ちを繰り返した。
 そして、やめたかと思うと。

「聖女様~~高潔な聖女様に訝られたせいで、この手が真っ赤になっちゃいましたぁ~~癒してくださ~~~い」

 誘惑するような甘い声を紡ぎながら、私の両手を艶やかな白い手で覆った。

「……おいニーナ、別にこいつに何をしてもいいが、泪だけは無駄にすんな」

「えぇ~~でもニーナ傷ついたんだもん。よくない? 儀式はもうすぐ。次期聖女も産まれるんだしさぁ」

 そうだ……儀式はもうすぐだ。
 もうすぐ、私はリュークに純潔を──。

「にしてもだ。次期聖女が産まれるまでは、否が応でも、イリスは癒しの聖女。たとえ民衆を裏切ろうとした不届き者でもな」

 確かに私は、使命というものを、無下にしようとした。
 ──悪魔の子と呼ばれるエリクを、治癒しようとして。

「お前のせいでもあるよなぁ? 悪魔の子エリクよ?」

 彼が、エリクの方に歩いていく。

「ま……って…………エリク……は──」

 そう、彼を静止しようとするも。

「だから喋っていいって言いましたかぁ~~?」

「がっ──」

 お腹に突き刺さったニーナの鉄拳によって、言葉は霧散した。

「もっと酷い仕打ちを受けたいの? どうしてアンタがここに閉じ込められることになったか、忘れちゃった?」

「待──けほっ……!」

 リュークを、エリクに近づけてはならないのに。
 駆け巡る鈍痛が、咳となって掻き消してしまう。
 そうして、リュークはエリクの前で長身痩躯そうくの身体を折って。

「なぁ、悪魔の子? イリスやお前らの母親が治癒の使命を放棄しようとしたのは、お前のせいだよな?」

 おもむろに胸元へと手を伸ばし、胸倉を掴んでゆっくりと立ち上がった。

「ち……がう……エリクは……何も……悪く……ない……」

「あぁ? ま、全ての元凶はお前の母親──先代の癒しの聖女を誑かした、こいつの父親か」

 エリクの父親は、お母様が本当に愛した市民だった。
 お母様は私を産んだ後、残り短い命で、その人──エリクの父親と深く愛し合った。
 そして、私が一歳の時に産まれたのが、エリクだった。
 これに対して、民衆は。 

 ──癒しの聖女がローランド家以外の子供を産んだ。

 ──だから無能で病弱な男として産まれた。

 そうして、悪魔の子……と呼ばれるようになった。
 
「ぐっ……ぁ……」

 絞首されたエリクが、声にならない声を漏らす。

「エリ……ク……!」

「てめぇがまだ赤ん坊の頃、てめぇの目の前でてめぇの父親は首を撥ねられた。当然だよな? ローランド家以外の、富も名声もない市民が癒しの聖女に手を出し、穢れた遺伝子を遺しちまったんだからな」

 そう言いながら、リュークは首を絞める力を強める。

「……ぁ……ぁ……」

 エリクは抵抗できることなく、声にならない声を上げる。

「や……め……!」

「せめて癒しの能力でもあればなぁ……? だが……クククッ……! 天恵を授かるどころか、無能で虚弱体質! なんで生きてんのかなぁお前!? あぁ!?」

「……──」

 エリクから、生気が失われていく。
 顔は青ざめ、身体のあちこちが痙攣している。

「おね……がい…………わたしから……エリ……クを……奪わない……で……」

 私の……たった一つの宝物……。

 エリクを失ったら……私は……。

「ちょ、ちょっとリューク、アンタ本気?」

 目の前のニーナが、怪訝な目をしながらリュークに投げかける。
 すると……。

「けっ、殺すわけねぇだろ。まだ存在価値はある」

 手を放し、エリクがコンクリートに落下した。

「ゲホッ! ゲホッ!!」

 そうして、首元を押さえて強く咳き込んだ。

 よかった……意識はある。
 そう安堵すると──。


 ──大粒の泪が、涙腺を揺らし、零れ落ちた。


「はは、単純でいいねぇイリス。お前を泣かすには、お前よりエリクを傷つける方がいいからな」

 拍手をしながら、リュークがこちらに戻ってくる。
 そして、私の泪を、指先でなぞった。

 すると、リュークの体に深緑に煌めく粒子が纏う。

 次第に極光となり。

 彼の身体の中に吸い込まれるように消えていった。

 そして……。

 ──ぽつり。

 命が消える音がした。

「実は剣の鍛錬で怪我してなぁ。でも最近のお前、どんだけ痛ぶっても、泣かねぇじゃん? だから、エリクを傷つけさせてもらいましたぁ」

 リュークは、貴族とは思えない下品で下劣な顔をしながら、私の顎を指先で持ち上げて、そう言い放った。

「アンタも泪無駄にしてない?」

「るせぇよ、眠れなさそうなくらい痛かったんだよ」

「…………ぅぐ……」

 エリクは、首元を押さえ、苦しんでいた。

「エリク……ッ!」
 
 私は……どうなってもいい。
 でも、あの子は。
 母が本当に愛した人との子供の、あの子は。
 私が愛する、たった一人のあの子は。

「──リクを……」

「あ?」

「エリ……クを………………治癒させて……ください……」

 息も絶え絶えの声で、懇願する。
 だが当然……。

「あははははは! うん、無理に決まってんだろ! おい、ニーナッ!」

「は~~~い! 教育教育っ!」

「がはっ──」

 暴力となって、返答される。
 リュークは相も変わらず、悪びれずに笑いながら。

「お前さ、自分の立場分かってる? 癒しの聖女は、人柱なの。生贄なの。たった一つの命で、多くの民衆が救われてんの。一生この街のマリオネットなの。心なんてものも、必要ない。だってそうだろ? お人形さんに自我は芽生えないよなぁ?」

 そう、投げかけた。
 次に、ニーナは、私の髪の毛を強く掴み上げて。

「そもそもさ、どうして幽閉される事になったか自覚しな? まぁ学習する脳味噌ないか。じゃあ、優しい優しいあたしが説明してあげるね?」

 この部屋のように温度のない言葉を投げかける。

「アンタは、悪魔の子を治癒しようとして……あ、もっとわかりやす~い言葉で言ってあげるねっ! イリスちゃんわぁ、悪い人を助けようとしたから、罰としてここに閉じ込められてるんだよ~?」

「……」

「ママの背中を見て育たなかったから、そんな愚鈍なことしちゃったんでちゅねぇ、カワイソ~~~!」

「……おかあ……さまは……」

 お母様も、エリクを治癒しようと、リュークの父親に掛け合った。
 しかし、認められることなく……。
 エリクの父親は処刑され、お母様とエリクは離れ離れにさせられた。
 命尽きるその瞬間も、会うことは許されなかった。

「…………っっ」

 悔しい。
 何も出来ない自分が。
 愛する人を癒せなくて、愛せぬ人しか癒せない自分が。

「よ~~く覚えておいてね? アンタが使命を放棄するだけ──悪魔の子は傷つく。アンタのせいであの子はあんな目に遭っているんだよ?」

「…………な……」

 否定したかった。
 しかし、言葉が出ない。
 全身を乱舞する痛みが、邪魔をした。

「さて、そろそろ行くか、ニーナ」

「えー、もうちょっと遊びたかったのに」

 そうして、彼らは踵を返す。

「………待っ──」

 やっとの思いで言葉が発せられた時には、既に影は遠くなっていた。

 二人が小屋を出ていき、静寂に包まれる。

「…………ごめん……ね……」

 最初に出たのは、その言葉だった。

「……………ごめんね……エリク……」

 ──守れなくて。
 その言葉が発せられることはなかった。
 そんな体力すら、残っていなかったから。

「……ゲホッ……俺は……姉貴と同じこの部屋に居れるだけで……ゲホッ……」

 今にも散ってしまいそうな、心地のいい声が耳をくすぐる。

「…………ぅ……」

 声にならない、音が漏れる。
 そこには様々な感情が混濁していた。
 
 ──哀しみ。
 どうして……私はあの子を守れない……。
 
 ──憂い。
 どうして……私達は幸せになれない……。

 ──怒り。
 どうして……あんな人達の命を救わなければならない……。

 あぁ、どうして。
 こんな能力が、あるばかりに。
 こんなもの、天恵でも、恩寵でもない。
 
「……」

 ある言葉が、脳内を埋め尽くす。
 
 それは、癒しの聖女とはかけ離れた──対比なる言葉だった。

 ──死。

 ──死にたい。

 死んでしまいたかった。

「…………私……癒しの……聖女……失格……ですね……」

 その言葉が、声になったかは分からない。

「……──っっ」

 視界が明滅し、意識が落ちる事を知らせる。

 夢への誘いか、あるいは死の誘いか。

 そう思った時には、世界はぼやけ、瞼は閉じていくのだった。
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