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第一話 癒しの聖女
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私の一族は皆、天恵を授かって産まれてくる。
それは──泪で他者の傷を癒すことのできる稀代な能力だった。
身体的な傷も、精神的な傷も、たとえ不治の病であっても、その人の体に私達の泪が触れるだけで、治癒できてしまう。
そして、必ず女の子として産まれてくることから。
そんな私達は。
──癒しの聖女、そう呼ばれていた。
天恵で、私も、お母様も、民衆を救ってきた。
──その命と引き換えに。
癒しの力には、代償があった。
……いや、”そういう”能力なのだ。
この能力は、”治癒”するのではなく……。
──自身の生命を泪にして、分け与えているのだ。
「……もう……すぐ……私も……」
俗世に生を授かって十九年。
私の人生に帳が下りようとしていた。
──もうすぐ泪が枯れ果てて、この命も朽ち果てる。
けれど、死ぬその瞬間まで、私は泣き続けなければならない。
お母様も、そうだった。
泪が飢渇し、天国へ旅立つその時まで、見ず知らずの人民の為にも、泣いて、泣いて、泣いて……。
私が六歳の時に、この世をあとにした。
そんなお母様を見て泣いたのは──私と義弟のエリクだけだった。
民衆にとって、それが当然の事だったからだ。
私達は、そういう存在なのだ。
お母様の、私の、たった一つの命で、沢山の人民を救う事ができる。
そんな都合のいい、存在でしかないのだから。
「やっと……そちらへ行けます……お母様……」
まるで老婆の様に掠れた覇気のない声を絞り出す。
あぁ、やっと、お母様に会える。
この苦しみから、解放される。
だけど──。
私が死んだら……義弟は──。
それだけが、心残りだった──。
◆
この街で一段と豪奢に構える邸宅……の物置小屋。
そこで、私と義弟のエリクは暮らしていた。
逃げ出さないよう、私は壁に鎖で磔にされて。
エリクはベッドの柵に手錠で繋がれて。
「寒く……ない……エリク……?」
そう言いながら、少し離れたベッドに視線をやる。
金とグレーの混ざったようなボサボサの髪の毛に、淡く揺らめく蒼の瞳。掴む皮すらない程に痩せこけた義弟が目に映った。
「けほっ……けほっ…………。だい……じょうぶ……だよ……あねき……」
少しして、咳混じりの声がから聞こえた。
大丈夫──その言葉とは真逆の、今にも消えてしまいそうな儚げな声だった。
エリクは、産まれながらに病弱な体質で、人生のほとんどをベッドの上で過ごしてきた。
そんな唯一”男の子”として生を授かった彼が──私のたった一つの宝物だった。
「……どうして……私の泪で……あなたを……」
私が一番治癒したい存在の貴方を……。
「仕方ないさ……けほっ……お、俺は……悪魔の子だからな……」
悪魔の子……。
私は、エリクだけは、治癒することが許されていない。
なぜなら──。
「──よう聖女……じゃなかった、汚れ女イリスちゃんっ」
その時、鉛色の扉が開き、公爵家の子息リューク=ローランドが入ってきた。
金色の髪は、どこまでも暗いこの部屋の光源となるくらい、輝いて見えた。
「リューク…………」
「きゃははっ! もうマジでしにそ~じゃん! ってか死ぬ寸前の人間って、顔こんなにブッサイクなんだ!」
彼の背中から、その恋人であるニーナが顔を出し、私を指差しながらそう言った。
「にしても、やっぱマジなのね、あの話。こんな状態になっても死なないんだもん」
「あぁ。聖女の生命力が失われるのは、泪を人民に分与した時のみ。奇怪千万な呪いだよな」
「キャハッ! じゃあ、サンドバッグにもなれるじゃん! 癒しの聖女ならぬ殴られの聖女、なんてね!」
ニーナは、大口を開けて笑う。
数年前のとある私の行為をきっかけに、彼らから──いや、民衆全員から嫌われ、この小屋に幽閉されている。
今の私は、癒しの聖女とは名ばかりの、この場所で病人や怪我人を治癒するだけの奴隷だった。
「………………っっ」
二人が、私の方へと近づいてくる。
ゴミを見るような、下卑た目をしながら。
そして、リュークは、接着するくらいまで顔を私の顔へ近づけて。
「死ぬまでたっぷり痛ぶってやるからな?」
そう呟くと、悪意に満ちた生温かい吐息が、顔を撫でた。
「キャハハッ! リュークひどーいっ! 仮初とは言え、許嫁の女の子にー!」
隣のニーナが、お腹を抱えて笑う。
それまた悪意に満ちた、猫撫で声で。
「ふんっ、んなの親が──この街が決めた事だ」
私とリュークは、形だけとはいえ、特別な関係にあった。
だがその特別とは、許嫁──その言葉通りのような美麗なものではなく……。
「我が家の血で、癒しの聖女は子孫を残す。そんなくだらねぇしきたりってだけだ」
先祖代々、癒しの聖女は、リューク──ローランド家との子供でなければならない、という言い伝えがあった。
つまり、私は、お母様とリュークの父親の子であり。
そして、次期聖女は、私とリュークの子になる。
「ほんとにぃ~? しきたりとはいえイリス抱けてラッキーとか思ってんじゃないのぉ?」
「はっ、こんな汚ねぇガリガリ女をか? そこら辺の奴隷抱いた方がマシだな」
「アハッ! ねぇイリス、聞いた? 酷いでちゅね~アンタの婚約者様は? 奴隷以下の蛆虫ですって」
「おいおい、ニーナのがひでぇじゃねぇか。蛆虫にも失礼だぞ?」
そういって、二人は笑い合った。
「…………っっ」
どうして、私は彼らの為に泪を流さなければならないのだろう。
どうして、私は民衆の為にこの体を捧げなければならないのだろう。
「……何その目? なんか、被害者面してない? そんな顔していいって、誰が許可したの?」
ニーナが冷酷な表情で近づく。
そして──。
「誰が許可したの……かなぁ!?」
「……………っっ!!」
頬に思いきり平手打ちをされた。
痛みが熱となって、広がっていく。
叩かれた頬だけでなく、衰弱した身体に伝播するように、痛みが狂喜乱舞する。
「キャハッ! ねぇ、今の音、凄くなかった!? バチンって、気持ちいいくらい鳴ったよね!?」
ニーナは夕焼けのような黄金色の長髪を靡かせ、高らかに笑う。
「あんだけいい音したんだから、さぞかし気持ちよかったんだろうね? ね、イリス?」
「…………痛──」
そう返答しようとした時。
再び、彼女の平手が飛んできた。
「…………っっ!!」
まるで弓矢に貫かれたかのような突き刺さる痛みに、声が漏れる。
「喋っていいですかニーナ様、でしょう? ってか、今痛かったって言おうとした? え、痛い訳なくない? あたしが癒しの聖女様に苦痛を与えたとでも言うの? もしかして脳みそまでも不細工になっちゃった? ねぇ、イリス?」
卑劣な笑顔を咲かして、私の顎をくいっと持ち上げ、そういった。
「…………痛く……なかったです……」
思考を放棄して、彼女に言われた通りの言葉を吐く。
「だからぁ? 喋っていいですかニーナ様、でしょう? その学習能力、イリスちゅわんはやっぱり蛆虫ですかぁ? それともただの馬鹿ですかぁ? あ、馬鹿じゃしょうがないでちゅね~、癒しの聖女様でも馬鹿だけは治せないでちゅもんね~」
そう、扇動的な、赤子にかけるような言葉を吐き捨てられて。
──パチンッ。
──パチンッ。
彼女は、何度も何度も、平手打ちを繰り返した。
そして、やめたかと思うと。
「聖女様~~高潔な聖女様に訝られたせいで、この手が真っ赤になっちゃいましたぁ~~癒してくださ~~~い」
誘惑するような甘い声を紡ぎながら、私の両手を艶やかな白い手で覆った。
「……おいニーナ、別にこいつに何をしてもいいが、泪だけは無駄にすんな」
「えぇ~~でもニーナ傷ついたんだもん。よくない? 儀式はもうすぐ。次期聖女も産まれるんだしさぁ」
そうだ……儀式はもうすぐだ。
もうすぐ、私はリュークに純潔を──。
「にしてもだ。次期聖女が産まれるまでは、否が応でも、イリスは癒しの聖女。たとえ民衆を裏切ろうとした不届き者でもな」
確かに私は、使命というものを、無下にしようとした。
──悪魔の子と呼ばれるエリクを、治癒しようとして。
「お前のせいでもあるよなぁ? 悪魔の子エリクよ?」
彼が、エリクの方に歩いていく。
「ま……って…………エリク……は──」
そう、彼を静止しようとするも。
「だから喋っていいって言いましたかぁ~~?」
「がっ──」
お腹に突き刺さったニーナの鉄拳によって、言葉は霧散した。
「もっと酷い仕打ちを受けたいの? どうしてアンタがここに閉じ込められることになったか、忘れちゃった?」
「待──けほっ……!」
リュークを、エリクに近づけてはならないのに。
駆け巡る鈍痛が、咳となって掻き消してしまう。
そうして、リュークはエリクの前で長身痩躯の身体を折って。
「なぁ、悪魔の子? イリスやお前らの母親が治癒の使命を放棄しようとしたのは、お前のせいだよな?」
おもむろに胸元へと手を伸ばし、胸倉を掴んでゆっくりと立ち上がった。
「ち……がう……エリクは……何も……悪く……ない……」
「あぁ? ま、全ての元凶はお前の母親──先代の癒しの聖女を誑かした、こいつの父親か」
エリクの父親は、お母様が本当に愛した市民だった。
お母様は私を産んだ後、残り短い命で、その人──エリクの父親と深く愛し合った。
そして、私が一歳の時に産まれたのが、エリクだった。
これに対して、民衆は。
──癒しの聖女がローランド家以外の子供を産んだ。
──だから無能で病弱な男として産まれた。
そうして、悪魔の子……と呼ばれるようになった。
「ぐっ……ぁ……」
絞首されたエリクが、声にならない声を漏らす。
「エリ……ク……!」
「てめぇがまだ赤ん坊の頃、てめぇの目の前でてめぇの父親は首を撥ねられた。当然だよな? ローランド家以外の、富も名声もない市民が癒しの聖女に手を出し、穢れた遺伝子を遺しちまったんだからな」
そう言いながら、リュークは首を絞める力を強める。
「……ぁ……ぁ……」
エリクは抵抗できることなく、声にならない声を上げる。
「や……め……!」
「せめて癒しの能力でもあればなぁ……? だが……クククッ……! 天恵を授かるどころか、無能で虚弱体質! なんで生きてんのかなぁお前!? あぁ!?」
「……──」
エリクから、生気が失われていく。
顔は青ざめ、身体のあちこちが痙攣している。
「おね……がい…………わたしから……エリ……クを……奪わない……で……」
私の……たった一つの宝物……。
エリクを失ったら……私は……。
「ちょ、ちょっとリューク、アンタ本気?」
目の前のニーナが、怪訝な目をしながらリュークに投げかける。
すると……。
「けっ、殺すわけねぇだろ。まだ存在価値はある」
手を放し、エリクがコンクリートに落下した。
「ゲホッ! ゲホッ!!」
そうして、首元を押さえて強く咳き込んだ。
よかった……意識はある。
そう安堵すると──。
──大粒の泪が、涙腺を揺らし、零れ落ちた。
「はは、単純でいいねぇイリス。お前を泣かすには、お前よりエリクを傷つける方がいいからな」
拍手をしながら、リュークがこちらに戻ってくる。
そして、私の泪を、指先でなぞった。
すると、リュークの体に深緑に煌めく粒子が纏う。
次第に極光となり。
彼の身体の中に吸い込まれるように消えていった。
そして……。
──ぽつり。
命が消える音がした。
「実は剣の鍛錬で怪我してなぁ。でも最近のお前、どんだけ痛ぶっても、泣かねぇじゃん? だから、エリクを傷つけさせてもらいましたぁ」
リュークは、貴族とは思えない下品で下劣な顔をしながら、私の顎を指先で持ち上げて、そう言い放った。
「アンタも泪無駄にしてない?」
「るせぇよ、眠れなさそうなくらい痛かったんだよ」
「…………ぅぐ……」
エリクは、首元を押さえ、苦しんでいた。
「エリク……ッ!」
私は……どうなってもいい。
でも、あの子は。
母が本当に愛した人との子供の、あの子は。
私が愛する、たった一人のあの子は。
「──リクを……」
「あ?」
「エリ……クを………………治癒させて……ください……」
息も絶え絶えの声で、懇願する。
だが当然……。
「あははははは! うん、無理に決まってんだろ! おい、ニーナッ!」
「は~~~い! 教育教育っ!」
「がはっ──」
暴力となって、返答される。
リュークは相も変わらず、悪びれずに笑いながら。
「お前さ、自分の立場分かってる? 癒しの聖女は、人柱なの。生贄なの。たった一つの命で、多くの民衆が救われてんの。一生この街のマリオネットなの。心なんてものも、必要ない。だってそうだろ? お人形さんに自我は芽生えないよなぁ?」
そう、投げかけた。
次に、ニーナは、私の髪の毛を強く掴み上げて。
「そもそもさ、どうして幽閉される事になったか自覚しな? まぁ学習する脳味噌ないか。じゃあ、優しい優しいあたしが説明してあげるね?」
この部屋のように温度のない言葉を投げかける。
「アンタは、悪魔の子を治癒しようとして……あ、もっとわかりやす~い言葉で言ってあげるねっ! イリスちゃんわぁ、悪い人を助けようとしたから、罰としてここに閉じ込められてるんだよ~?」
「……」
「ママの背中を見て育たなかったから、そんな愚鈍なことしちゃったんでちゅねぇ、カワイソ~~~!」
「……おかあ……さまは……」
お母様も、エリクを治癒しようと、リュークの父親に掛け合った。
しかし、認められることなく……。
エリクの父親は処刑され、お母様とエリクは離れ離れにさせられた。
命尽きるその瞬間も、会うことは許されなかった。
「…………っっ」
悔しい。
何も出来ない自分が。
愛する人を癒せなくて、愛せぬ人しか癒せない自分が。
「よ~~く覚えておいてね? アンタが使命を放棄するだけ──悪魔の子は傷つく。アンタのせいであの子はあんな目に遭っているんだよ?」
「…………な……」
否定したかった。
しかし、言葉が出ない。
全身を乱舞する痛みが、邪魔をした。
「さて、そろそろ行くか、ニーナ」
「えー、もうちょっと遊びたかったのに」
そうして、彼らは踵を返す。
「………待っ──」
やっとの思いで言葉が発せられた時には、既に影は遠くなっていた。
二人が小屋を出ていき、静寂に包まれる。
「…………ごめん……ね……」
最初に出たのは、その言葉だった。
「……………ごめんね……エリク……」
──守れなくて。
その言葉が発せられることはなかった。
そんな体力すら、残っていなかったから。
「……ゲホッ……俺は……姉貴と同じこの部屋に居れるだけで……ゲホッ……」
今にも散ってしまいそうな、心地のいい声が耳をくすぐる。
「…………ぅ……」
声にならない、音が漏れる。
そこには様々な感情が混濁していた。
──哀しみ。
どうして……私はあの子を守れない……。
──憂い。
どうして……私達は幸せになれない……。
──怒り。
どうして……あんな人達の命を救わなければならない……。
あぁ、どうして。
こんな能力が、あるばかりに。
こんなもの、天恵でも、恩寵でもない。
「……」
ある言葉が、脳内を埋め尽くす。
それは、癒しの聖女とはかけ離れた──対比なる言葉だった。
──死。
──死にたい。
死んでしまいたかった。
「…………私……癒しの……聖女……失格……ですね……」
その言葉が、声になったかは分からない。
「……──っっ」
視界が明滅し、意識が落ちる事を知らせる。
夢への誘いか、あるいは死の誘いか。
そう思った時には、世界はぼやけ、瞼は閉じていくのだった。
それは──泪で他者の傷を癒すことのできる稀代な能力だった。
身体的な傷も、精神的な傷も、たとえ不治の病であっても、その人の体に私達の泪が触れるだけで、治癒できてしまう。
そして、必ず女の子として産まれてくることから。
そんな私達は。
──癒しの聖女、そう呼ばれていた。
天恵で、私も、お母様も、民衆を救ってきた。
──その命と引き換えに。
癒しの力には、代償があった。
……いや、”そういう”能力なのだ。
この能力は、”治癒”するのではなく……。
──自身の生命を泪にして、分け与えているのだ。
「……もう……すぐ……私も……」
俗世に生を授かって十九年。
私の人生に帳が下りようとしていた。
──もうすぐ泪が枯れ果てて、この命も朽ち果てる。
けれど、死ぬその瞬間まで、私は泣き続けなければならない。
お母様も、そうだった。
泪が飢渇し、天国へ旅立つその時まで、見ず知らずの人民の為にも、泣いて、泣いて、泣いて……。
私が六歳の時に、この世をあとにした。
そんなお母様を見て泣いたのは──私と義弟のエリクだけだった。
民衆にとって、それが当然の事だったからだ。
私達は、そういう存在なのだ。
お母様の、私の、たった一つの命で、沢山の人民を救う事ができる。
そんな都合のいい、存在でしかないのだから。
「やっと……そちらへ行けます……お母様……」
まるで老婆の様に掠れた覇気のない声を絞り出す。
あぁ、やっと、お母様に会える。
この苦しみから、解放される。
だけど──。
私が死んだら……義弟は──。
それだけが、心残りだった──。
◆
この街で一段と豪奢に構える邸宅……の物置小屋。
そこで、私と義弟のエリクは暮らしていた。
逃げ出さないよう、私は壁に鎖で磔にされて。
エリクはベッドの柵に手錠で繋がれて。
「寒く……ない……エリク……?」
そう言いながら、少し離れたベッドに視線をやる。
金とグレーの混ざったようなボサボサの髪の毛に、淡く揺らめく蒼の瞳。掴む皮すらない程に痩せこけた義弟が目に映った。
「けほっ……けほっ…………。だい……じょうぶ……だよ……あねき……」
少しして、咳混じりの声がから聞こえた。
大丈夫──その言葉とは真逆の、今にも消えてしまいそうな儚げな声だった。
エリクは、産まれながらに病弱な体質で、人生のほとんどをベッドの上で過ごしてきた。
そんな唯一”男の子”として生を授かった彼が──私のたった一つの宝物だった。
「……どうして……私の泪で……あなたを……」
私が一番治癒したい存在の貴方を……。
「仕方ないさ……けほっ……お、俺は……悪魔の子だからな……」
悪魔の子……。
私は、エリクだけは、治癒することが許されていない。
なぜなら──。
「──よう聖女……じゃなかった、汚れ女イリスちゃんっ」
その時、鉛色の扉が開き、公爵家の子息リューク=ローランドが入ってきた。
金色の髪は、どこまでも暗いこの部屋の光源となるくらい、輝いて見えた。
「リューク…………」
「きゃははっ! もうマジでしにそ~じゃん! ってか死ぬ寸前の人間って、顔こんなにブッサイクなんだ!」
彼の背中から、その恋人であるニーナが顔を出し、私を指差しながらそう言った。
「にしても、やっぱマジなのね、あの話。こんな状態になっても死なないんだもん」
「あぁ。聖女の生命力が失われるのは、泪を人民に分与した時のみ。奇怪千万な呪いだよな」
「キャハッ! じゃあ、サンドバッグにもなれるじゃん! 癒しの聖女ならぬ殴られの聖女、なんてね!」
ニーナは、大口を開けて笑う。
数年前のとある私の行為をきっかけに、彼らから──いや、民衆全員から嫌われ、この小屋に幽閉されている。
今の私は、癒しの聖女とは名ばかりの、この場所で病人や怪我人を治癒するだけの奴隷だった。
「………………っっ」
二人が、私の方へと近づいてくる。
ゴミを見るような、下卑た目をしながら。
そして、リュークは、接着するくらいまで顔を私の顔へ近づけて。
「死ぬまでたっぷり痛ぶってやるからな?」
そう呟くと、悪意に満ちた生温かい吐息が、顔を撫でた。
「キャハハッ! リュークひどーいっ! 仮初とは言え、許嫁の女の子にー!」
隣のニーナが、お腹を抱えて笑う。
それまた悪意に満ちた、猫撫で声で。
「ふんっ、んなの親が──この街が決めた事だ」
私とリュークは、形だけとはいえ、特別な関係にあった。
だがその特別とは、許嫁──その言葉通りのような美麗なものではなく……。
「我が家の血で、癒しの聖女は子孫を残す。そんなくだらねぇしきたりってだけだ」
先祖代々、癒しの聖女は、リューク──ローランド家との子供でなければならない、という言い伝えがあった。
つまり、私は、お母様とリュークの父親の子であり。
そして、次期聖女は、私とリュークの子になる。
「ほんとにぃ~? しきたりとはいえイリス抱けてラッキーとか思ってんじゃないのぉ?」
「はっ、こんな汚ねぇガリガリ女をか? そこら辺の奴隷抱いた方がマシだな」
「アハッ! ねぇイリス、聞いた? 酷いでちゅね~アンタの婚約者様は? 奴隷以下の蛆虫ですって」
「おいおい、ニーナのがひでぇじゃねぇか。蛆虫にも失礼だぞ?」
そういって、二人は笑い合った。
「…………っっ」
どうして、私は彼らの為に泪を流さなければならないのだろう。
どうして、私は民衆の為にこの体を捧げなければならないのだろう。
「……何その目? なんか、被害者面してない? そんな顔していいって、誰が許可したの?」
ニーナが冷酷な表情で近づく。
そして──。
「誰が許可したの……かなぁ!?」
「……………っっ!!」
頬に思いきり平手打ちをされた。
痛みが熱となって、広がっていく。
叩かれた頬だけでなく、衰弱した身体に伝播するように、痛みが狂喜乱舞する。
「キャハッ! ねぇ、今の音、凄くなかった!? バチンって、気持ちいいくらい鳴ったよね!?」
ニーナは夕焼けのような黄金色の長髪を靡かせ、高らかに笑う。
「あんだけいい音したんだから、さぞかし気持ちよかったんだろうね? ね、イリス?」
「…………痛──」
そう返答しようとした時。
再び、彼女の平手が飛んできた。
「…………っっ!!」
まるで弓矢に貫かれたかのような突き刺さる痛みに、声が漏れる。
「喋っていいですかニーナ様、でしょう? ってか、今痛かったって言おうとした? え、痛い訳なくない? あたしが癒しの聖女様に苦痛を与えたとでも言うの? もしかして脳みそまでも不細工になっちゃった? ねぇ、イリス?」
卑劣な笑顔を咲かして、私の顎をくいっと持ち上げ、そういった。
「…………痛く……なかったです……」
思考を放棄して、彼女に言われた通りの言葉を吐く。
「だからぁ? 喋っていいですかニーナ様、でしょう? その学習能力、イリスちゅわんはやっぱり蛆虫ですかぁ? それともただの馬鹿ですかぁ? あ、馬鹿じゃしょうがないでちゅね~、癒しの聖女様でも馬鹿だけは治せないでちゅもんね~」
そう、扇動的な、赤子にかけるような言葉を吐き捨てられて。
──パチンッ。
──パチンッ。
彼女は、何度も何度も、平手打ちを繰り返した。
そして、やめたかと思うと。
「聖女様~~高潔な聖女様に訝られたせいで、この手が真っ赤になっちゃいましたぁ~~癒してくださ~~~い」
誘惑するような甘い声を紡ぎながら、私の両手を艶やかな白い手で覆った。
「……おいニーナ、別にこいつに何をしてもいいが、泪だけは無駄にすんな」
「えぇ~~でもニーナ傷ついたんだもん。よくない? 儀式はもうすぐ。次期聖女も産まれるんだしさぁ」
そうだ……儀式はもうすぐだ。
もうすぐ、私はリュークに純潔を──。
「にしてもだ。次期聖女が産まれるまでは、否が応でも、イリスは癒しの聖女。たとえ民衆を裏切ろうとした不届き者でもな」
確かに私は、使命というものを、無下にしようとした。
──悪魔の子と呼ばれるエリクを、治癒しようとして。
「お前のせいでもあるよなぁ? 悪魔の子エリクよ?」
彼が、エリクの方に歩いていく。
「ま……って…………エリク……は──」
そう、彼を静止しようとするも。
「だから喋っていいって言いましたかぁ~~?」
「がっ──」
お腹に突き刺さったニーナの鉄拳によって、言葉は霧散した。
「もっと酷い仕打ちを受けたいの? どうしてアンタがここに閉じ込められることになったか、忘れちゃった?」
「待──けほっ……!」
リュークを、エリクに近づけてはならないのに。
駆け巡る鈍痛が、咳となって掻き消してしまう。
そうして、リュークはエリクの前で長身痩躯の身体を折って。
「なぁ、悪魔の子? イリスやお前らの母親が治癒の使命を放棄しようとしたのは、お前のせいだよな?」
おもむろに胸元へと手を伸ばし、胸倉を掴んでゆっくりと立ち上がった。
「ち……がう……エリクは……何も……悪く……ない……」
「あぁ? ま、全ての元凶はお前の母親──先代の癒しの聖女を誑かした、こいつの父親か」
エリクの父親は、お母様が本当に愛した市民だった。
お母様は私を産んだ後、残り短い命で、その人──エリクの父親と深く愛し合った。
そして、私が一歳の時に産まれたのが、エリクだった。
これに対して、民衆は。
──癒しの聖女がローランド家以外の子供を産んだ。
──だから無能で病弱な男として産まれた。
そうして、悪魔の子……と呼ばれるようになった。
「ぐっ……ぁ……」
絞首されたエリクが、声にならない声を漏らす。
「エリ……ク……!」
「てめぇがまだ赤ん坊の頃、てめぇの目の前でてめぇの父親は首を撥ねられた。当然だよな? ローランド家以外の、富も名声もない市民が癒しの聖女に手を出し、穢れた遺伝子を遺しちまったんだからな」
そう言いながら、リュークは首を絞める力を強める。
「……ぁ……ぁ……」
エリクは抵抗できることなく、声にならない声を上げる。
「や……め……!」
「せめて癒しの能力でもあればなぁ……? だが……クククッ……! 天恵を授かるどころか、無能で虚弱体質! なんで生きてんのかなぁお前!? あぁ!?」
「……──」
エリクから、生気が失われていく。
顔は青ざめ、身体のあちこちが痙攣している。
「おね……がい…………わたしから……エリ……クを……奪わない……で……」
私の……たった一つの宝物……。
エリクを失ったら……私は……。
「ちょ、ちょっとリューク、アンタ本気?」
目の前のニーナが、怪訝な目をしながらリュークに投げかける。
すると……。
「けっ、殺すわけねぇだろ。まだ存在価値はある」
手を放し、エリクがコンクリートに落下した。
「ゲホッ! ゲホッ!!」
そうして、首元を押さえて強く咳き込んだ。
よかった……意識はある。
そう安堵すると──。
──大粒の泪が、涙腺を揺らし、零れ落ちた。
「はは、単純でいいねぇイリス。お前を泣かすには、お前よりエリクを傷つける方がいいからな」
拍手をしながら、リュークがこちらに戻ってくる。
そして、私の泪を、指先でなぞった。
すると、リュークの体に深緑に煌めく粒子が纏う。
次第に極光となり。
彼の身体の中に吸い込まれるように消えていった。
そして……。
──ぽつり。
命が消える音がした。
「実は剣の鍛錬で怪我してなぁ。でも最近のお前、どんだけ痛ぶっても、泣かねぇじゃん? だから、エリクを傷つけさせてもらいましたぁ」
リュークは、貴族とは思えない下品で下劣な顔をしながら、私の顎を指先で持ち上げて、そう言い放った。
「アンタも泪無駄にしてない?」
「るせぇよ、眠れなさそうなくらい痛かったんだよ」
「…………ぅぐ……」
エリクは、首元を押さえ、苦しんでいた。
「エリク……ッ!」
私は……どうなってもいい。
でも、あの子は。
母が本当に愛した人との子供の、あの子は。
私が愛する、たった一人のあの子は。
「──リクを……」
「あ?」
「エリ……クを………………治癒させて……ください……」
息も絶え絶えの声で、懇願する。
だが当然……。
「あははははは! うん、無理に決まってんだろ! おい、ニーナッ!」
「は~~~い! 教育教育っ!」
「がはっ──」
暴力となって、返答される。
リュークは相も変わらず、悪びれずに笑いながら。
「お前さ、自分の立場分かってる? 癒しの聖女は、人柱なの。生贄なの。たった一つの命で、多くの民衆が救われてんの。一生この街のマリオネットなの。心なんてものも、必要ない。だってそうだろ? お人形さんに自我は芽生えないよなぁ?」
そう、投げかけた。
次に、ニーナは、私の髪の毛を強く掴み上げて。
「そもそもさ、どうして幽閉される事になったか自覚しな? まぁ学習する脳味噌ないか。じゃあ、優しい優しいあたしが説明してあげるね?」
この部屋のように温度のない言葉を投げかける。
「アンタは、悪魔の子を治癒しようとして……あ、もっとわかりやす~い言葉で言ってあげるねっ! イリスちゃんわぁ、悪い人を助けようとしたから、罰としてここに閉じ込められてるんだよ~?」
「……」
「ママの背中を見て育たなかったから、そんな愚鈍なことしちゃったんでちゅねぇ、カワイソ~~~!」
「……おかあ……さまは……」
お母様も、エリクを治癒しようと、リュークの父親に掛け合った。
しかし、認められることなく……。
エリクの父親は処刑され、お母様とエリクは離れ離れにさせられた。
命尽きるその瞬間も、会うことは許されなかった。
「…………っっ」
悔しい。
何も出来ない自分が。
愛する人を癒せなくて、愛せぬ人しか癒せない自分が。
「よ~~く覚えておいてね? アンタが使命を放棄するだけ──悪魔の子は傷つく。アンタのせいであの子はあんな目に遭っているんだよ?」
「…………な……」
否定したかった。
しかし、言葉が出ない。
全身を乱舞する痛みが、邪魔をした。
「さて、そろそろ行くか、ニーナ」
「えー、もうちょっと遊びたかったのに」
そうして、彼らは踵を返す。
「………待っ──」
やっとの思いで言葉が発せられた時には、既に影は遠くなっていた。
二人が小屋を出ていき、静寂に包まれる。
「…………ごめん……ね……」
最初に出たのは、その言葉だった。
「……………ごめんね……エリク……」
──守れなくて。
その言葉が発せられることはなかった。
そんな体力すら、残っていなかったから。
「……ゲホッ……俺は……姉貴と同じこの部屋に居れるだけで……ゲホッ……」
今にも散ってしまいそうな、心地のいい声が耳をくすぐる。
「…………ぅ……」
声にならない、音が漏れる。
そこには様々な感情が混濁していた。
──哀しみ。
どうして……私はあの子を守れない……。
──憂い。
どうして……私達は幸せになれない……。
──怒り。
どうして……あんな人達の命を救わなければならない……。
あぁ、どうして。
こんな能力が、あるばかりに。
こんなもの、天恵でも、恩寵でもない。
「……」
ある言葉が、脳内を埋め尽くす。
それは、癒しの聖女とはかけ離れた──対比なる言葉だった。
──死。
──死にたい。
死んでしまいたかった。
「…………私……癒しの……聖女……失格……ですね……」
その言葉が、声になったかは分からない。
「……──っっ」
視界が明滅し、意識が落ちる事を知らせる。
夢への誘いか、あるいは死の誘いか。
そう思った時には、世界はぼやけ、瞼は閉じていくのだった。
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