ストレイシープ症候群〜上書きオメガの春と夏〜

あまみや慈雨

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風待月(2)

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 平穏な日々は、あっという間にすぎる。「花火大会行かない?」と志村が言い出したのは、そろそろ梅雨が明けようかという頃だった。

「花火大会?」
 いつものように夏目家の居間でソーダ味のアイスバーをかじりながら、流星が訊ねる。
「うん。この間辻こっちの行ったことないって言ってただろ。ていうか、七月入ったらすぐ期末だし、二学期になったら、完全に受験モードで、イベントごととか楽しんでる場合じゃなくなるからさ」
 どうやら後半が本音のようだった。

 隣町は花火の産地だ。新作発表の意味もあって、県内でも一番早い六月下旬に花火大会が開催される。知名度は低いが、近隣の複数の町から見え、この辺りの夏の始まりを告げる風物詩だった。

 ――ストレイシープになってから、一度も行ってないけど。

 両親とも友人とも距離が出来てしまった。ひとりで行くようなものではないだろう。
 この辺りで花火を見るスポットといえば高台にある神社だ。長い階段を上らなければいけないそんなところに祖母を引っ張り出すわけにもいかず、昨年は音だけ聞いていたような気がする。
「たこ焼きだけでも買ってきたら? すーちゃん、好きだったでしょう」
 祖母はそう言って小遣いを握らせようとしてきたけれど、すばるは断った。
 高校に通うのに都合がいいからという大義名分で置いてもらっているのに、それ以外のことを、楽しんではいけないような気がして。

「広範囲から見えるから、都会の花火大会みたいにごちゃごちゃしてないって人気だよ」
「あー。たしかに帰りの満員電車で花火の印象なんか吹っ飛ぶんだよな、東京のは」
「でしょ。行こ行こ。夏目も行くよな?」
 いつも世話になっている志村に食い下がられると、無碍に断ることもできず、すばるは頷いた。
 
 祖母との関係は悪くないから、たまに連絡を取っている。
 住まわせてもらっている以上、勝手をするのも気が引けて、流星と志村がやってきた日は必ず報告することにしていた。
 いつもは『クラスの奴が来た』と簡単な報告で済ますところだが、自分の中にも浮足立ったところがあったのかもしれない。ついうっかり『今度花火大会に行くことになった』とメッセージを送ると、一気に十通くらい返信が来た。
『すーちゃんお祭り好きだったものねえ』『おばあちゃんのへそくりの小銭が黄色い鳩の缶の中にあるから、好きなだけ持って行っていいからね』『おばあちゃんのおすすめはこれ』

 ――わ、わ。
 返信しようとすると次々メッセージが来て、カットインする間を掴めずにいるうちに『仕立てたけど、結局着る機会なかった浴衣あるでしょう。あれ着て行って。写真見せてね』というメッセージがやってくる。なにやらうさぎらしき生き物が『よろ!』と親指を突き出しているスタンプまでついていた。
――おれよりよっぽど使い慣れてる……


 というわけで当日、すばるは浴衣で待ち合わせ場所に向かった。着付けは祖母にやってもらっていた頃の記憶を頼りに。帯は動画を探し出して参考にした。
 スマホ、活用できてなかったけど、ここへ来て使用頻度上がったよな。
 そんなことを考えながら目指す神社には、続々と人が集まって来ていた。
 待ち合わせ場所〈神社で〉じゃなくて、もっと具体的に決めておけば良かった。
 ちゃんとふたりと落ち合えるかどうか心配だ。

 しかし、そんな心配は杞憂だった。
 神社の鳥居が見えて来た瞬間、その前に佇んでいる志村と流星の姿が目に入ってきたからだ。
 特に流星は、まるで男性ファッション誌の浴衣特集から抜け出て来たように、様になっている。
 流星はすばるの姿に気がつくと、一瞬意外なものを見るように目を見開いたあと、にっと不敵に笑った。
「似合うじゃん」
 モデル並みに様になっている奴相手に言われると「そっちも」とまったく気の利かない一言を絞り出すのがやっとだった。
「浴衣、持ってたんだ」
「花火大会があるって言ったらねーちゃんが〈あたしも行く! 泊る!〉って。浴衣も持ってきたんだよ」
「え、辻のお姉さん? 美人?」
「そう言っとかないと殴るって言われてる」
 喰いつく志村に、流星が苦り切った顔で告げるのがおかしかった。流星宛ての食材などから色々と察してはいたが、この嵐のような男にも頭の上がらない相手がいるらしい。
「別行動なの? あとで会えたら紹介してよ」
「それより、混み合う前になんか買っとこうぜ。これから人増えるだろ」
 流星が言い、志村は「三人いると分担できていいね」と上機嫌で夜店が出ている方へと向かって行った。
 
あとに続くすばるの耳元に、流星がそっと唇を寄せてくる。
「紹介とかないから、心配すんな」
 心配。
 別に心配なんかしていない。多少「気まずいな」と思っていただけだ。
 流星が偽物の恋人になってくれたおかげで告白されることはなくなって、体調はすっかり安定した。助かっているだけに、家族相手にまで嘘をつかせるのは気が引ける。

 だからほっと安堵すべきところなのに、すばるはなぜか一抹の淋しさを感じていた。
 紹介なんかしないのが当たり前だ。――偽物なんだから。
 淋しさって、なに。

 それにしても、背後から口元を近づけて囁かれると、ぞわりとした感覚がある。浴衣の生地越しにも、流星の厚い胸板の熱が伝わってくるようだった。
「志村探さなきゃ」
 いつの間にか人が増えてきて、志村の姿を見失っていた。「――ああ」と流星が応じ、背中から気配が離れていく。それでもまだ熱の余韻が残っている。
――もう夏が近づいているせいかもしれない。この辺りの夏は、湿度が高いから。
 すばるが無意識に汗ばんだ首の後ろに掌を当てたとき、どん、と空気が揺れた。夜空が一瞬明るくなり、ばらばらばらと降り始めの雨のような音を残して消えていく。
「もう始まったのか」
「どうしよう、志村」
 落ち合う場所をすり合わせないまま、打ち上げが始まってしまった。巾着からスマホを取り出す。
「圏外……」
 ただでさえこの神社は山の中腹で、元々電波が弱い。そこへきて人が集まったものだから、通じなくなっているのだろう。
 迷っている間にも人はどんどん増えてくる。流星の言う東京の花火大会ほどではないが、合流するのは難しそうだ。
「とりあえず、俺たちだけで見るか。打ち上げが終わったら連絡は取れるだろ」
「――う、ん」
 ここのところずっと志村が一緒だったから、ふたりきりはなんだか少し緊張する。
 流星は辺りをぐるりと見渡して、境内の一角を指さした。
「あそこ、高くなっててよく見えそうじゃね?」
 流星が指さしたのは、境内の片隅にある富士塚だった。末社の小さなお社が建っている。
「ここ、子供の頃は怖かったな。登ると呪われるって言われてて。今思えば狭くて階段が急だから、登らないようにそう言われてたんだろうけど――わ」
 ごつごつした岩場に足を取られて、浴衣の裾が乱れる。

 今でも危なかった。
 ――恥ずかしい。流星に間抜けだと思われただろうか?

 ちらっと表情を伺った瞬間、ひときわ大きな花火が打ち上げられた。
 
 菊の花のような形が夜空に大きく開いたかと思うと、徐々に色合いを変えて濃紺の夜空と溶け合う。
 続いて小さな星がいくつも弾ける。
 星が消えかけると、次の星が現れた。
 最後に滝のような軌跡を描いて、星々がゆっくりと消えていくと、辺りはしん、と静まり返った。
 
 圧巻だった。
 こんなふうに顔を上げて、無防備に美しいものを全身に浴びるのは、いったいいつぶりだったろう――

「――綺麗だな」
 流星も、感じ入ったように呟く。
「うん。こんなに綺麗だったんだ」
 次の打ち上げまで少し間が空くようだった。その間を利用して、座れそうな石の上に腰を落ち着けると、屋台のほうの雑踏が遠く聞こえてきた。
「初めて見たみたいな顔してんな」
「久し振りだから。噛まれてからは、家族と祭りとか行く雰囲気じゃなくて」
「友だちとは?」
 流星が静かに訊ねてくる。すばるは自嘲気味にかぶりをふった。
「恋心とか、性欲とか、そういうのを持って近づかれなければ大丈夫って頭ではわかってても、どうしても気乗りしなくて、外出自体、あんまり」
 その分勉強に身が入った。それはいいことだったと思っている。

 勉強して勉強して、東京の国立大に進む。

 そうしておれがここからいなくなれば、みんな楽になる。

 それがすばるを勉強に駆り立てる原動力だった。けして前向きなものではない。
『おまえが誘惑したんじゃない、よな』
 あの瞬間、呪いにかかったのだと思う。子供たちの侵入を防ぐために『入ったら呪われてしまうよ』と言うように『おまえはもう、何もしてはいけない』という呪い。

 ――でも。
「なんだか、俺はもう楽しいことしちゃいけないような気持になってたんだ。でも、そんなことないんだって、最近わかった。……辻のおかげ、かも」
 流星がむりやり自分の世界に入り込んできて、呪いを解いてくれたから。とまで口にするのは気恥ずかしくてすばるは口をつぐんだ。流星からしたら、自分と親しくするのはただの暇潰しなのだし。

「今までクラスメイトとも距離置いて、青春ぽいこともなんもなくて……もったいないことしたのかも」
 祖母がまだ家にいた頃、祖母は「たまには外に遊びに行ったらいいのよ」と言ってくれていたのに。この浴衣を仕立ててくれたのも、なんとかして外へ連れ出せないかという思いやりだったのだろう。

「ごめん、変な話聞かせて。えーっと、要するに今日は凄く楽しいってこと」
 気恥ずかしくなって無理矢理話を切り上げるように告げると、流星は不意に立ち上がった。ぐしゃぐしゃとすばるの髪を乱暴にかきまぜる。
「なんだよ?」
「――やりなおそうぜ、青春」
 そう告げると、どこへと問う間も与えず立ち上がり、かき氷やたこ焼きを買って戻った。
 たこ焼きはできたてて、まだ鰹節が生き物のように踊っている。香ばしい匂いに「お祭りの匂いがする」と思わず呟くと、流星は「だよな」と微笑った。
 一つ口に入れると、ソースとマヨネーズのジャンクで懐かしい味が、口いっぱいに広がる。
 珍しく、二つ三つと旺盛に口に入れていると、不意に流星の腕が伸びて来た。
「鰹節、ついてる」
「あ、ごめ――」
 気前よく大量に盛られていたから、口の端についていたらしい。流星の指先が鰹節を摘まむ。

「ん」
 と言われて、最初はなにを求められているのかわからなかった。
 一瞬遅れで「口を開けろ」という意味なのだと気づく。
 
 え、
 たじろいでしまった。。
 
 いや、でも。
 思えば流星はいつもこんな距離感だ。
 きっと流星にとっては何気なく出た仕草なのだろう。
 意識するおれのほうがおかしいんだ。
 そう思い直して、口を開けた。

 流星の視線が唇に注がれている気がして、目を伏せる。
 万が一にも自分の唇が触れてしまわぬよう、最新の注意を払って鰹節を唇で挟む。
 
 うまくいった、か?

 どうしてか、もう何の味も感じなかった。こういうときは、ひとまず「ありがとう」とでも言ったらいいんだろうか――わけがわからなすぎて視線を彷徨わせる。

 そのとき、流星の眼差しが、まだじっと自分を見つめていることに気がついた。
「親戚にアルファがいるって言っただろ」

 なぜ今、あらためてその話を?
 訝しく思いながら「うん」と頷くと、流星は珍しく言葉を一度飲み込んだ。
 らしくない。

 ひゅるる、と花火が打ち上げられた音がして、夜空で弾ける。

「あれ、ほんとは俺のことなんだ」
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