カフェオレはありますか?:second

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 無事にバイト最終日と妙な鬼ごっこを終えて、びしょ濡れで帰宅した俺に届いたのは、母さんからの外泊宣言だった。前々から怪しいとは思っていたが、とうとう檜山の保護者とデートかと思ったが、どうやら違うらしい。伯父さんの奥さんが妊娠してつわりが酷いため、その看病と子供の面倒を見るための外泊だと説明されて、俺は肩をすくめる。伯父さん達頑張るなぁ。しばらくはそこから出勤するらしく、その間は俺一人で留守番することになった。明日の朝に迎えが来るようで、それまでの間に看病中の手間が減るよう、出来る限り作りおきを用意することにしよう。ゼリーやプリンなら食べやすいだろうと考え、似たやつをいくつか作ることに決めて、台所へ向かおうと思ったが、自分のびしょ濡れ具合に息を吐き、靴下を脱いでから脱衣場へ向かった。檜山が居たら一緒に風呂に入るとか騒いでいただろうな。押し掛けて来るかと思ったが、用事があるからと言って、こっちの返事も待たずに走って行ってしまった。珍しい事もあるものだと思った矢先、だから雨が降ったのか、と納得して頷く。脱いだ制服を洗濯かごに入れた後、眼鏡をバスタオルの上に置いて浴室のドアを開ける。中から温かな空気が溢れてきて、冷えた体を温め始めた。浴槽のお湯は少し熱く感じたけど、少しすれば丁度良い温度に感じられる位に、冷えた体は熱を持ち始める。
 泣かれるとは思わなかった。メッセージカードを握り締めて店に飛び込んできた檜山は、俺を見るなり抱き付いてきて、ありがとう、と、嬉しい、を繰り返して泣きながら笑った姿に、あげなければ良かった、と、後悔した俺の気持ちに、受け取った本人が気付く事はないんだろうな。まぁ、告白と受け取られた感じはなかったから、それだけが唯一の救いだ。笑っていてくれるだけで嬉しい、なんて、伝えるつもりなかったのに。伝えてしまったものは仕方がない、と、開き直って過ごすしかないか。立ち上がって浴槽から出ると、視界が歪んだ気がして壁に手を付いた。次の瞬間には元に戻っていて、気のせいだと判断してシャワーの蛇口を捻る。皆はどうだろう。ちゃんと伝わっただろうか。笑顔だろうか。後悔していないと良いが。俺だけが後悔しているのかもしれない。考えなくても解る結論に息を吐く。風呂を出た後、髪を乾かし台所へ向かう俺の視界に、母さんが家の中をせわしなく動き回る姿が映る。怪我しなきゃ良いけど。台所に着いて直ぐに冷蔵庫を開け、ゼリー飲料を飲み干し料理を始める俺の耳に、二階から騒音が届き手を止め息を吐き出す。簡易的な物しか出来ないが、凝ったものを作る時間は無いので、数で勝負する事にした。一階と二階を往復してキャリーケースを探す母さんに不安を抱きながら、作った日付と料理名をシールに書いて、蓋とケースに貼っていく。どれも冷凍保存出来るものにしたから、母さんでも大丈夫だろう。冷凍室に作ったものを入れた俺は、母さんの様子を確認するためにリビングへ足を動かす。必要以上の荷物を持っていこうとしている母さんの姿を見つけて頭を抱えた。荷造りを手伝っていると、携帯が震え着信を伝えてきたので画面を確認する。表示された名前に窓の方を見ると、母さんがカーテンを閉めずに、窓の近くで埃だらけのキャリーケースを拭いているのを見つけて息を吐く。本当によく見えるんだな。
「ファスナー開かないんだけど、やり方覚えてる?」
 腕を組み悩む母さんに聞かれ、嫌々窓際に足を動かして母さんの隣にしゃがみこむ。ファスナーのつまみが鍵に固定してあるタイプの物で、ナンバーロックを解除しないと開けられない仕組みになっていた。
「このケース誰の?」
「母さんのよ。幸慈産んでからは使ってないから、久々すぎて勝手が解らなくて」
 産まれる前の事まで俺が知ってたらおかしいだろ。
「番号覚えてる?」
「母さんを誰だと思ってるのよー。覚えてるわけないでしょー」
 開き直って声を出して笑う母さんに頭を抱える。普通はどこかにメモっておくべきだと思うけど、絶対そんなの無いよな。
「誕生日とか、適当に回してみれば?」
「そうね。000かもしれないし」
 いや、今現在000で鍵が開いてないんだから、せめてそれは違うと気が付いてくれ。
「僕の貸そうか?使わないから」
「茜くんのところ行く時どうすんのよ」
 何で檜山が出てくるんだ。
「行かないから」
「あぁ、茜くんが来る方が多いわね」
 何でそうなる。
「じゃあ遠慮なく借りるわ。ついでにこのキャリーケース物置に戻してきてくれるかしら。それと、電話出てあげなさい」
 俺は綺麗になったばかりのキャリーケースと、母さんに指摘された震え続ける携帯を渋々手に持って二階に上がった。ガタガタと物音が聞こえてたわりには、散らかってないんだな。暢気に物置のドアを開けた俺は、外へ溢れてきた物に反射的に後ずさる。
「うわー」
 雪崩が収まり、物置の中を見て俺は言葉を失った。この部屋だけ空き巣に入られたのか、と、思わせるほどの光景を見て、床越しに一階に居る母さんを睨む。棚の上にあったものは下に置かれ、広々と見えていた床は身を潜めている。俺は未だに着信を告げ続ける携帯の通話ボタンを押す事にした。
『ちょっと幸!何してんの!?キャリーケースって何で!?』
 前置きもなく騒ぎ出す子供に、自然と舌打ちが出た。
「四の五の言わず今すぐ来い」
『へ?』
 一方的に通話を終わらせた俺は、キャリーケースの横で盛大に項垂れる。
「誰が片すと思ってんだよ」
 仕方がないので通り道を確保する為、少しだけ片してキャリーケースを閉まらないドアの横に置く。母さんはどうやってこの部屋のドアを閉めたんだ。自分の部屋に入り、押し入れを開けて奥からキャリーケースを引っ張り出す。当然埃は貯まっているが、母さんのに比べれば、たまに掃除しているお陰で綺麗だ。施錠も問題なく、中も傷んでる形跡はない。
「タイヤも動くし、大丈夫そうだな。鍵の番号は……これか」
 安定の000だった。キャリーケースを持って階段を下りてリビングに戻ると、母さんが圧縮袋と格闘していて頭を抱える。この家に山のような圧縮袋があった記憶はないが、自分で買い足したんだろうか。
「何してるの?」
「見ての通りよ」
 そう言って、母さんは圧縮された服の山を指差した。一着一着圧縮してないよな?夜逃げでもするのか?
「何日分持ってくの?」
「あるに越したことはないわよ!」
 洗濯機位使わせてくれるだろ。キャリーケースを空の圧縮袋の近くに置いて、これから潰されるだろう服に視線を向ける。持ってる服全部持ってきてそうだな。
「ダウンコートは要らないだろ。スノーシューズも」
「要るわよ!」
 四月後半に雪は降りません。圧縮された袋の中身を見て、要らないと判断した分の袋の一部を抱えてリビングを出た。もっと早くに帰ってくるべきだったな。後で取り返しに行くからと文句を言う母さんの事は無視だ。玄関の前を通ると、前触れもなく鍵が開いて檜山が駆け込んできた。俺と手に持っている圧縮袋を見比べて、見事に青ざめていった檜山の反応が面白かったのは言わないでおこう。
「引っ越し!?」
 まぁ、そう見えるよな。
「あら、茜くんいらっしゃい。手伝いに来てくれたのね、助かるわー。ダウンコートが上手く圧縮出来なくて」
「こ、こんばんは。お邪魔します。えっと、圧縮?」
 そりゃ何も言わずに呼び出したんだからこうもなるか。これに関しては少し罪悪感を感じるが、ストーカーしてた檜山も自業自得ということにしておこう。
「母さん、ダウンコートは要らないって言ったばっかりだろ。後で部屋に持ってくから絶対に圧縮するなよ」
 振り向いて母さんに抗議すると、持っていた圧縮袋が一つ床に落ちた。圧縮袋は持ち難いから嫌いだ。
「拾え」
「はーい」
 我が物顔で靴を脱ぎ揃えていた檜山に圧縮袋を拾わせた後、ダウンコートは持ってかないように、と、再度母さんに抗議した。
「急に雪降ったらどうするのよ」
「降らないから。取り敢えず、仕事に行くのに必要なやつを纏めてきてよ。そればっかりは解らないからさ」
「それもそうね。茜くん、ゆっくりしてってね」
「はーい」
 自分の部屋に仕事関連の荷物を纏めに行った母さんの姿に、盛大に溜め息を吐いた。
「バイクか?早かったな」
 質問する俺の手から、自主的に圧縮袋を半分引き取った檜山を連れて階段を上がる。
「幸に呼ばれれば直ぐに来るよ。雨弱くなってたし……てか、お母さん旅行に行くの?」
「いや、伯父さんの奥さんが妊娠して、つわりが治まるまで看病と子供の世話をしに行くだけだ。仕事もそこから通うらしい」
「お世話……」
 檜山は散らかった物置を見て苦笑した。
「それでこの騒ぎ」
「あぁ、まるで夜逃げを彷彿とさせるだろ」
「うん」
 俺の部屋に持っていた圧縮袋を置いて一階に降りる。母さんが居ないうちに他の圧縮袋の中身と、圧縮するであろう物を確認して、不要な物は檜山に持たせて俺の部屋に運んだ。服を圧縮し直すのは檜山に任せて、歯磨き等の日用品をキャリーケースに入れる事にする。
「下着って向こうで借りるの?」
 デリカシーの無い質問を口にする檜山を睨みつける。
「何故母さんの下着を檜山に見せなければいけないのか説明してくれないか?」
「ごめんなさい。何でもないです。今のは完璧に俺が全て悪いです」
 綺麗な土下座に止めていた手を動かす。檜山にとっては細やかな疑問かもしれないが、俺からすれば重罪だ。最後の服を圧縮し終えた檜山は、伸びをするのと同時に腹を鳴らした。
「ご、ごめん。幸を見守るのに夢中でおにぎり一個しか食べてないんだよね。あ、別にご飯ねだりに来たわけじゃないから!」
 盗撮と盗聴を止めれば解決するのに。呼んだ手前、このまま帰すのは申し訳無い気もする。
「ちょっと待ってろ」
 檜山に待つよう伝えて立ち上がる俺を、不思議そうな顔で見上げてくる姿に、そっと息を吐く。
「おにぎり位ならすぐに作れるから」
「え……え!?」
 具沢山を期待されても面倒臭いな。
「おにぎりしか出ないぞ。具も昆布しかないからな」
 そう言って台所へ歩き出すと、檜山に後ろから抱き付かれた。
「全然良い!具無しでも良い!ありがとう、幸!好き好き!大好き!」
「抱き付くな。暑苦しい。好きも要らん」
 少しの罪悪感で優しくするといつもこうだ。俺の罪悪感なんか、檜山には伝わってないんだろうな。炊飯器の蓋を開けて米をボウルによそった後、冷蔵庫から昆布を取り出す。一応握ったおにぎりを置く皿を用意してみたが、使わないで終わりそうな気もするな。手を水で濡らして、おにぎりを握り始めた俺の手元を見てくる檜山の重みに眉をしかめる。離れろと言うと、携帯を構えて動画を撮り出すから、我慢してこの体制で作ることにしたんだよな。最初の一個を檜山の前に差し出すと、勢いよく食い付いてきた。どんだけ腹が減ってたんだ。簡単に無くなったおにぎりに息を吐きながら、二個目を作って檜山の口に運ぶ。母さんが二階からリビングにやって来て、台所に居る俺と檜山を見て楽しそうに笑う。
「最初からずっと一緒に居たみたいな光景ね」
「勘弁してくれ。あ、伯父さんにバスタオルの事聞いて欲しいんだけど」
「そうね。他に持っていった方が良さそうな物がないか聞いてみるわ」
 そう言って部屋へ戻っていった母さんの言葉を反復して息を吐く。最初から一緒だったら、今頃俺は過労死してるだろうな。
「幸、ご飯食べた?」
「ゴミ箱に入ってるだろ」
「ゴミ箱……またゼリー飲料だけ。あれだけじゃ栄養失調で倒れるよ」
「そうかもな。年に一回はあるから気にするな」
「何それ!?気にするから!」
 うるさくなった口におにぎりを突っ込んで黙らせる。最近になって視界が歪んで見える事が増えたが、それが倒れた時の不調具合と似ているな、と、他人事の様に思い出す。倒れるならG・W中が良いな。予定ないし。でも、課題が遅れるのは嫌だな。四個目のおにぎりを作り始めると、それを檜山の手が奪う。
「うわっ、米すごいくっつく。何で?幸の手には付いてないのに」
「濡らしてるからな」
 水を指差して言うと、感心した声が耳にかかる。
「だからか」
「作ったこと無いのか?」
「無い」
「即答かよ。ほら、こうして水で手を濡らしてから……」
 おにぎりを作る手順を教えながら、二人でおにぎりを握った。変な光景だな。
「三角にならない」
 そう言う檜山の手元には丸いおにぎりがコロコロと転がっている。昔は俺も同じおにぎりを作ったな、と、懐かしんで少し笑う。
「握る時の手の形が悪いんだ。もう少し……」
「んー……お、少し三角になってきた。見て見てっ」
「見てる。良かったな」
「はいっ」
 目の前に差し出された歪なおにぎりに言葉を失う。俺にどうしろと?
「脱・栄養失調」
「まだ倒れてない」
「倒れてからじゃ遅いでしょ。それとも、倒れない自信あるの?」
「……」
 そんな自信はない。
「ねぇ、ないでしょ。だから食べて」
 食べる。この場所で、食べる。
『父さんの事、大好きだもんなぁ』
 無理だ。まだアイツが居る。耳の奥に染み付いてる声と音が、俺の恐怖を煽って、存在を訴えては、支配しようと這い回りだす。それから逃げたくて、強く目を瞑る。
「嫌だ。嫌だ」
 体中を掻き回したい。
「幸」
「ひっ」
 同じ呼ばれ方に恐怖から喉がひきつる。浅くなる呼吸に立って居るのがやっとの状態で、それでも逃げようと体が震え出す。そんな俺を強く抱き締めてくる腕の存在に、息が止まって目眩に襲われた。
「俺だけだよ。俺だけだから」
 耳に届いた声に、微かに意識が向いた瞬間、這い回っていた恐怖が消えていく。ゆっくり目を開け、止まっていた息を吐き出す。
「はっ、はっ、はっ、ぁ、檜山?」
「そうだよ。俺だけが呼ぶ名前だから、何も怖くない。怖くないよ」
 檜山だけ。それが、怖いんだよ。
台所ここしんどい」
「うん。場所変えようね」
 檜山は慣れたように俺を抱き上げて、窓際へ連れて行き、床に下ろしてから窓を少し開けた。涼しい風に目を細めて、息をゆっくりと吸い込む。雨の後の独特な匂いが鼻を掠める。汗の乾く感覚に、嫌悪感を感じて俯く。またやってしまった。檜山の前ではなるべく気をつけようと思っていても、何故かそれが出来ない。
「落ち着いた?」
 そう言って聞いてきた檜山の手には、水の入ったコップとおにぎりの乗った皿があった。使わないと思っていた皿が役に立っている。
「少し。悪い、迷惑かけた」
「ふっふっふっ、幸からの迷惑は大歓迎なんだよね」
「趣味悪いな」
「お褒めに預かり光栄です」
 本心で言ってるとしたら病気だな。檜山は俺の右側に座り込んで、皿を床に置いてコップを渡してきた。それを受け取ろうとした自分の手が震えていて、受け取るのを止める。震える手をもう片方の手で隠そうにも、両方震えていて意味がない。
「ごめん。俺のせいだね」
「いや、いつまでも引き摺ってるのが悪いんだ。本当、ダサイな、俺」
「幸は格好良いよ。格好良くて、可愛くて綺麗で、全部が魅力的な俺の好きな人」
 いや、そんな評価してもらえる人間じゃない事は、自分が一番良く知ってる。だから、綺麗な檜山を手放さないとって、思うんだ。
「うー、伝わってない反応された」
 不貞腐れた檜山は、俺が握った方のおにぎりを右手で取って食べ始めた。 
「お母さんの迎えは?」
「明日の朝に伯父さんが来るから、それまでには準備しないと」
 右手の指の甲を顎に当てて、これからの優先順位を考える。荷造りは最優先で、母さんは先に寝てもらわないといけないから、仕方ないがこの際、物置の片付けは後回しにするしかない。俺の部屋に起きっぱなしの圧縮袋もどうにかしないといけないが、それも後回しだな。今日は徹夜覚悟ってところだが、どこかで檜山を帰さないと。
「近い」
 目の前まで迫っていた檜山の顔を軽く睨み付ける。
「あはは。良い男だなぁって思ってたら、つい」
「つい、じゃない。にしても、母さん遅いな」
「積もる話でもあるのかな?」
「明日から泊まりに行くのにか?」
「ガールズトークにそれは関係無いから」
「面倒だな」
 男に産まれて良かった。
「遅くなってごめんね。バスタオル持っていった方が良いみたいよ」
 バスタオル片手に帰ってきた母さんの姿に、俺はゆっくり息を吐く。纏めた仕事の荷物を持ってきただけ良しとするか。
「檜山、圧縮してこい」
「はーい」
 檜山は立ち上がって母さんからバスタオルを受け取った。
「ダウンコート片しちゃったの?」
「雪が降ったら檜山が届けに行くって」
「行きまーす」
「あら、楽しみだわ」
 実の息子より可愛がってる様に見えるのは気のせいだろうか。こっちに背を向けて圧縮袋にバスタオルを入れながら母さんと話す姿から、皿に残ったおにぎりへと視線を移し、それを右手で掴む。不格好な形が、昔の作ったおにぎりを思い出して、少し口元が綻んだ。一口齧ったおにぎりは、握られ過ぎて固かった。俺のはびちゃびちゃだったな、なんて、昔を懐かしみながら食べるおにぎりは、不格好ながらに、美味しいと思えて、それが何だか嬉しくて、照れ臭い。空になった皿とコップを持って立ち上がり、台所へ行く俺の背中を檜山が呼び止めた。
「圧縮出来た!」
 圧縮し終わったバスタオルを見せてきた檜山の顔には、褒めて、と書いてあるようだった。
「良くできました」
 棒読み同然で発せられた言葉にすら、心底嬉しそうな顔をする。この笑顔を、俺が独り占めしてはいけない。
「皿」
 檜山は俺の手元を見て、微かに目を見開く。
「皿?」
 俺は自分の持つ皿に目を落として、もう一度檜山を見る。
「片すのは僕がやるから気にするな」
 そう言うと、母さんが肩を揺らして笑う。
「違うわよ。おにぎり食べたでしょ。茜くんはそれに驚いてるの」
 母さんの言葉に、檜山は大袈裟なくらい頷く。普段も食べてるところ見てるんだから、今更驚く事でもないと思う。大袈裟だと言うと、檜山は俺との間にあるソファーを飛び越えて抱き付いてきた。
「おいっ、危ないだろ」
 皿とコップを落とさずにすんで良かった。
「どうだった?美味しかった?」
「おにぎりに美味しいとかないだろ」
 素直に、美味しかった、と、言うことがすごく恥ずかしい事に思えてしまった。
「あるよ!良し、俺が教えてあげよう!」
「遠慮しとく、ちょっ、おいっ」
 俺の脇の下に手を入れて、高い高いするように体を持ち上げた檜山は、その場で何回も回った。
「幸慈とご飯楽しみー」
「下ろせ!母さん、どうにかしてっ!」
「母さんは見ていて楽しいわよ」
「楽しくない!」
 成り行きとはいえ、檜山を呼びだした事を心底後悔した。
 ようやく檜山から解放された俺は、色々な意味で疲労を抱え息を吐く。明日の事を考えて母さんには寝るように伝えて、部屋へ向かわせる。皿とコップを片し終わり、檜山の圧縮したバスタオルと歯磨き等の日用品を入れて、最終確認を三回繰り返す。ようやく確認が終わった頃、空が明るくなり始めていることに気付く。ジップロックとタッパーに入れたおかずも、大きめの鞄に保冷剤と一緒に入れ準備は終了した。そう、終了したのはあくまで準備のみ。これから片付けが待っている。
「こんな時間まで悪かったな。辛いなら僕の部屋で寝てから帰るか?僕はまだやることあるから気にしなくて良いぞ」
「僕じゃないでしょ」
「……あぁ、え、今の言い直すの嫌だからな」
 今言ったこと全部言い直せと言われそうで、先に嫌だと伝えると、檜山は楽しそうに笑った。何も楽しくないんだが。
「あはっ、今日はしなくて良いよ」
 今日はって何だ。今日じゃなかったら言い直すのか?さっき何て言ったっけ。
「寝るのは平気だから、俺も手伝うよ。あの物置を一人で片すのは大変だし、お母さんの服も部屋に置きっぱなしでしょ」
 そう言う檜山の目蓋は今にもくっつきそうだった。これ以上無理を強いる事は出来ないな。仕方ない、仮眠を優先するか。残った米で母さんの朝ごはん用に作ったおにぎりの皿の下に、書き置きを挟んで、檜山の朝ごはん用に炊飯器をセットしてから部屋に向かう。部屋に入って開けっ放しだったドアを閉めると、檜山が抱き付いてきた。
「何だよ」
「良かった。幸が居なくなるのかと思って、怖かった」
「それは、残念だったな」
「幸のバカ」
「ほら、まだやること残ってるんだ、早く寝ろ。ベッド使って良い……」
 最後まで言う前に抱き上げられた体は、そっとベッドに下ろされて、そのまま檜山と倒れ込んだ。すぐに寝息が聞こえてきて呆れたが、身動きが取れなかったので仕方ないと諦めて目を閉じた。
 起きたのは母さんが出ていった後で、まだ眠る檜山を起こさないようにそっと部屋を出る。部屋の隅にあるバイト先の制服を見て、先にクリーニングに出しにいこうと決めた。檜山に書き置きを残すためにメモを探す。不意に、カードの事を思い出した。笑っていてくれるだけで嬉しい、なんて、どうしてそんな風に思うんだろうか。確かに、泣かれるよりは全然良いだろうけど、他の笑顔を見ても、特別何も感じない。じゃあ、どうして檜山には笑っていてほしいと思うんだろう。カードに書いた言葉に、今更になって答えを求める俺は、なんて愚かなんだ。炊けていたご飯は、母さんがかき混ぜておいてくれたようで、固くなるのを避ける事が出来た。起きて来た檜山が食べ物に困らないように、弁当箱に昨日たくさん作ったおかずの余り物を詰めて、蓋をして書き置きと一緒にテーブルに置く。出来れば檜山が起きる前に帰りたいと願ったが、それは叶わなかった。
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