狐火探偵白峰と、嘘をつく人間たち

坂本餅太郎

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夜鳴き蕎麦と聞こえない声

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 夜更けになると、蕎麦売りの声が聞こえるという。

「決まって、雨の前なんです」

 依頼人の男は、そう言って帽子を膝の上で握りしめた。
 五十に近い年齢だろう。だが、その背中は妙に小さく見えた。

「らっしゃい、らっしゃい……昔と同じ声で」

 白峰探偵は、相槌も打たずに湯呑みを傾けている。
 雨宮は、男の言葉の端々に滲む戸惑いに、胸の奥がざわついた。

「幽霊、でしょうか」

 男は不安げに尋ねた。

「顔は見えたか?」

 白峰が聞く。

「いえ……声だけです」

「なら、幽霊じゃない」

 白峰は即座に言った。

 男は驚いたように目を上げる。

「声だけってのはな、聞く側が用意してるもんだ」

 その夜、三人は男の家の前で待った。
 古い長屋。軒先の電灯が、か細く揺れている。

 しばらくすると、遠くから声がした。

「らっしゃい……らっしゃい……」

 雨宮は、思わず息を呑んだ。
 確かに懐かしさを帯びた声だった。
 優しくて、少し掠れている。

 男の肩が、小さく震えた。

「父の声です」

 白峰は、声のする方を見ず、男を見ていた。

「最後に、何を言った?」

「……喧嘩しました」

 男は唇を噛んだ。

「蕎麦屋なんて古臭い、継がないって。
 あの人、何も言わずに……次の年に亡くなりました」

 声は、近づいてくることも、遠ざかることもなかった。
 ただ、そこにあるだけだ。

「聞こえない声ほど、人は勝手に意味を与える」

 白峰は静かに言った。

「謝りたかったか」

 男は、しばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「……はい」

 白峰は、煙管を鳴らした。

「なら、もう十分だ」

 その瞬間、声はすっと途切れた。
 夜は、驚くほど静かだった。

 翌日から、蕎麦売りの声を聞いた者はいない。

 数日後。
 男は、父の墓前に立っていた。

「遅くなって、すみません」

 それだけ言って、深く頭を下げる。

 帰り道、雨宮が呟いた。

「本当に……あやかしじゃなかったんですね」

「さあな」

 白峰は、夜空を見上げる。

「だが、人の心に居座るもんほど、厄介な“もののけ”はない」

 雨宮は、その言葉を胸に刻んだ。

 あの声は、誰のものだったのか。
 答えは、もう必要なかった。
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