餅太郎の恐怖箱【一話完結 短編集】

坂本餅太郎

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123.左右反転の部屋

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 久しぶりに実家へ帰った。社会人になり、都会での生活にも慣れてきたが、やはり故郷はどこか落ち着く。
 それでもここ数年は忙しさにかまけて、帰省する機会を作れずにいた。

「おかえり、久しぶりね」  
 
 玄関を開けると、母の元気な声が飛び込んできた。
 母は昔と変わらない笑顔で出迎えてくれた。少し老けたように見えたが、それでもその温かさは健在だった。
 父は仕事で不在らしく、母と二人きりの時間がしばらく続きそうだ。

「部屋、そのままにしてあるわよ」  

 母の言葉に軽く頷きながら、二階の自分の部屋へ向かった。階段を上がる足取りは少し重かった。
 学生時代の思い出が詰まった部屋。懐かしさに胸を締め付けられるような気がしたのだ。

 だが、ドアを開けた瞬間、違和感が胸を刺した。

 机もベッドも、本棚もポスターも、すべてが「左右反転」しているように見えた。
 机は窓際に置いてあったはずだが、今は部屋の入口側にある。ポスターだって、本来なら右側の壁に貼られていたはずなのに、左側に移動している。  
 
「……なんだこれ」  

 思わず声が漏れた。

 気のせいかと思い記憶を辿ってみたが、どうしても納得がいかない。
 確かに、この部屋はこうではなかったはずだ。長年住んでいた部屋だ。家具の配置くらい覚えている。

 母に尋ねるため、階下へ声をかけた。  
 
「母さん、部屋の配置、変えたの?」  

 母はキッチンでお茶を淹れていた。振り返り、首を傾げる。  
 
「配置? 変えてないわよ。昔からあのままよ?」  
「いや、こんな配置じゃなかったよ。机は窓の近くだったし、ポスターも――」  
「そんなことないわ」  

 母は断言するように微笑んだ。  
 
「あなたが小さい頃から、ずっとあの配置だったのよ」

 その言葉に、妙な寒気が背筋を走った。母が嘘をついているようには思えない。
 しかし、自分の記憶と母の言葉がどうしても一致しない。どちらが正しいのか、自信が持てなかった。


 その夜、布団に入ってもなかなか眠れなかった。部屋の配置が気になって仕方がない。床について目を閉じるたびに、頭の中で家具の場所がぐるぐると巡る。
 学生時代の記憶と、今目の前にある現実がぶつかり合い、心がざわついて落ち着かない。

 深夜――ふと目が覚めた。時計を見ようとしたが、どこに置いたのかすぐには思い出せない。
 仕方なく手探りでスマホを探し、時間を確認すると「二時七分」を示していた。  
 部屋は静まり返っている。だが、妙な感覚があった。耳を澄ますと、部屋の中に自分以外の気配を感じる。
 誰かが見ているような、そんな視線だ。

「気のせいだ」  

 そう自分に言い聞かせたが、どうしても落ち着かない。背中に汗が滲むのを感じながら、ふと鏡に目を向けた。

 鏡は部屋の隅に設置されている。学生時代にも使っていた背の高い姿見だ。昼間には気づかなかったが、鏡に映る部屋の様子が妙に気にかかる。
 じっと目を凝らしてみると――鏡の中の部屋の配置こそが、かつて自分が覚えている「正しい配置」だった。

 机は窓際にあり、ポスターは右側の壁に貼られている。そう、これが本来の姿だ。
 鏡の中の世界こそが正しい。それなのに、今自分がいるこの部屋は――反転している。

 背筋が凍りついた。鏡の中の自分が、こちらをじっと見返している。いや、違う。顔はそっくりだが、目付きが異常だ。
 こちらを睨みつけるような、不気味な目をしている。  
 
「なんだよ……これ……」  

 声が震えた。

 鏡の中の「自分」は、ゆっくりと笑みを浮かべた。そして――笑ったまま鏡の向こうの机に座り、何事もなかったかのようにノートを広げ始めた。
 まるで、自分の代わりに生活を始めたかのように。  

 その光景を見た瞬間、冷たい汗が全身を覆った。ここは、自分の部屋じゃない。自分の知っている部屋は、あちら――鏡の向こうにあるのだ。


 翌朝、母に昨夜のことを話そうとしたが、彼女は一切取り合わなかった。  
 
「疲れてるのよ。都会の生活で溜まった疲れが出たんじゃない?」  

 母の言葉を聞いても安心はできなかった。疲れのせいであんなことが見えるだろうか。鏡の中の自分が勝手に動き出すなど、あり得るはずがない。

 その日、部屋を徹底的に調べてみた。机の引き出しや本棚の隅まで確認したが、特に異常は見つからない。
 ただ一つ、気になることがあった。本棚の裏側――そこには、何か古い「印」のようなものが刻まれていた。
 赤黒いインクで描かれたそれは、円と三角形が複雑に絡み合った模様だった。見たこともない奇妙な図形だ。

 気味が悪くなり、すぐに本棚を元の場所に戻した。その夜はなるべく鏡を見ないようにして眠ろうとした。
 だが、目を閉じるたびに鏡の中の「自分」の顔が浮かぶ。あの薄気味悪い笑みが頭から離れない。


 三日目の夜、ついに限界が来た。鏡を布で覆い隠し、見えないようにした。少しだけ安堵し、布団に潜り込む。
 しかし、深夜にまたしても目が覚めた。  
 
「カタ……カタ……」  

 音がする。机の上のものが動いているような音だ。布団の中で息を殺し、耳を澄ました。
 だが、音は止まらない。次第に音が大きくなり、最後には「ガタン!」と何かが倒れる音が響いた。

 恐る恐る布団から顔を出すと、鏡を覆った布が床に落ちていた。
 そして、鏡の中の「自分」が、こちらに笑いかけている。今度は手を伸ばしてきた。鏡の表面を押し破るかのように――。

「いやだ! やめろ!」  

 叫びながら部屋を飛び出した。階段を駆け下り、母のもとへ行こうとしたが、家の中に母の姿はなかった。
 代わりに――鏡のように反転した世界が広がっていた。

 すべてが反転している。家具も、廊下も、階段の向きすらも。
 追い詰められた心で振り返ると、そこには鏡の中の「自分」が立っていた。こちらに向かって手を伸ばし、最後にこう告げた。

「おかえり、『本当の』世界へ」  

 そして、意識は闇の中へと沈んでいった――。
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