餅太郎の恐怖箱【一話完結 短編集】

坂本餅太郎

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129.影喰い

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 気付いたのは、いつからだろうか。ある日、ふとした瞬間に自分の影が妙に気になり始めた。
 最初はただの気のせいだと思った。けれど、何度も同じ違和感が続くと、さすがに無視できなくなる。  

 部屋の明かりの下で、ぼんやりと床に映る自分の影。何度も見慣れた普通の影のはずだ――けれど、何かが違う。
 その「顔」の向きが、どうも自分とは少しずれているように見えるのだ。  

 まるで、こちらをじっと窺っているような、そんな気配を感じた。  

 試しに手を上げてみた。すると、影も当然のように同じ動きをする。右手を振ると、影も右手を振った。そこまでは普通だ。
 しかし、一瞬視線を外してから戻った時、影は手を振るのをやめていた。そして、じっと……こちらを見ているように――そう、確かにこちらを見ているように思えたのだ。  

「気のせいだろ」  

 自分自身にそう言い聞かせた。影なんて、ただの光の加減でできるものだ。動いたり止まったりするのは、俺の動きに合わせているだけのはずだ。  

 しかし、その日はどうにも落ち着かなかった。どんなに気にしないようにしても、影の違和感が頭を離れない。
 まるで、見えない何かが俺の背後に張り付いているような、そんな不気味な感覚がまとわりついていた。


 翌朝、目が覚めた時、部屋のカーテン越しに差し込む光がまぶしかった。
 昨夜のことは一晩寝たら少し薄れていたが、それでも影のことが気になる。  

 俺はカーテンを開けて、窓辺に立った。朝陽がまぶしい。
 ふと足元を見下ろすと、そこには自分の影がくっきりと映っている。  

「どうして俺なんかがこんなことで悩まなきゃいけないんだよ」  

 自分に向けてつぶやきながら、再び手を振ってみた。影も同じように動く。左手を振れば左手、右手を振れば右手。
 どこにもおかしなところはない――そう思いたかった。だが、どうしても気になる。  

 今度は影から目を離さないようにしてみる。じっと、じっと見つめ続けた。  

 だが、何も起きない。俺の動きに忠実に合わせているだけの普通の影だ。  

 ……そのはずだった。  

「ん?」  

 何かがほんの一瞬だけおかしかった気がした。目の錯覚だろうか。
 いや、今確かに見えた――影の顔が、少しだけこちらを向いていたような気がする。  

 俺は怖くなって、すぐに部屋を出ることにした。外の空気を吸えば、この気味の悪さも消えるかもしれない。  


 外に出ると、春らしい暖かい日差しが降り注いでいた。通りには人が行き交い、どこかの店からは軽快な音楽が聞こえてくる。
 こんな明るい場所にいれば、いくら俺でも影なんて気にしないで済むだろう。  

 けれど、足元に目を落とすと、そこにはやはり「それ」がいた。  

 影はちゃんと俺の動きに合わせている。何もおかしなところはない。道行く人たちも、それぞれの影を連れて歩いている。
 俺だけが特別じゃない――そう自分に言い聞かせる。  

 しかし、ふとした瞬間、通り過ぎる人々の影が妙に薄く見えることに気付いた。
 俺の影だけがやけに濃く、くっきりと地面に焼き付いているような気がしてならない。  

「気のせいだ……気のせい」  

 そうつぶやきながら、俺は足を速めた。  


 その夜、俺は夢を見た。暗闇の中、見知らぬ場所に立っている。足元には、相変わらず影があった。
 いや、影は「あそこ」にいた――俺の足元ではなく、少し離れた場所で、まるで独立した存在のように立っていたのだ。  

「どういうことだ……」  

 呟く俺の声は、暗闇に吸い込まれていく。影は動かない。ただじっと、こちらを見ているような気がする。  

 試しに手を振ってみた。影は動かない。俺が右手を振っても、左手を振っても――影は、まるで他人のようにじっとしている。  

 やがて、影がゆっくりと動き出した。こちらに向かって、一歩、また一歩と近づいてくる。  

「おい……やめろ……!」  

 叫ぶが声にならない。影は止まらない。俺の足元に再び戻ると、今度は俺を覆い尽くすように広がり始めた。  

 息が詰まるような感覚に襲われる。暗闇が視界を埋め尽くし、気が遠くなっていく――。


 目を覚ますと、全身が汗でびっしょりだった。夢だったのか。けれど、あの感覚があまりにもリアルで、夢と現実の境目がわからない。  

 俺は恐る恐る足元を見た。そこには、いつもの影があった。普通の影だ。
 いや、普通に見えるだけだ――あの夢を見た後では、もうそれを「普通」とは思えない。  

 俺の影が、ただの影じゃない――そんな気がしてならなかった。  


 その後も、影の違和感は消えなかった。それどころか、日に日に増していくように思える。
 鏡に映る自分の姿すら信じられない。影が、鏡の中で俺と違う動きをしている……そんな気がしてならないのだ。  

 そして、ある夜。影はついに、はっきりと「動いた」。  

 いつものように部屋で過ごしていた俺は、ふと気配を感じて足元を見た。影が「いる」のは当たり前だ。けれど、その時の影は違った。  

 影は俺の姿を映しているはずなのに、その頭がこちらを向いていたのだ。

 確かにこちらを「見ている」。  

「おい……なんなんだよ、これ……!」  

 声を震わせながら問いかけたが、答えなんて返ってくるはずがない。影はただ、じっと俺を見ているだけだった。  

 恐ろしくてたまらなかったが、目を離すわけにはいかなかった。少しでも目を逸らせば、奴が何をするかわからない――そんな気がした。  

 しかし、それでも俺はついに耐えきれず、目を閉じてしまった。  

 その瞬間、足元から何かが這い上がってくる感覚がした。冷たく、重く、粘りつくような何かが、俺の体を覆い始める。  

「やめろ――!」  

 叫び声を上げたが、誰も助けには来ない。影は俺の体を飲み込み、意識がだんだんと遠のいていく。  

 最後に見えたのは、天井に映る俺の影――いや、俺の「ようなもの」だった。影は、俺の顔をして笑っていた。  

 それを見た瞬間、俺は完全に意識を失った。  


 気が付くと、俺は暗闇の中にいた。ここはどこだ――そう思っても、答えはない。ただ、周囲には影がうごめいている。  

 そしてその中に、俺の影も混じっていた。  

 それが、俺の最後の記憶だ。
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