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130.天井の足音
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俺がこのアパートに引っ越してきたのは、去年の秋のことだった。三十代も半ばを過ぎ、人生の転機――といえば聞こえはいいが、実際はただの転落だ。
仕事を辞め、結婚も破綻し、実家に戻るのも気が引けて、ネットで見つけたこの家賃の安いアパートに流れ着いた。
古くて少し薄気味悪い場所だったが、俺には贅沢を言う余裕などなかった。
だが、ここに住み始めてから奇妙なことが起き始めた。いや、正確には気付き始めたのだ。
毎晩、決まった時間――夜の十時を少し過ぎた頃だろうか。上の階から「ドン、ドン」と足音が響く。
最初は気にも留めなかった。古い建物だし、隣人の生活音くらい仕方ないと思ったからだ。
しかし、何日も続くその足音に、次第に違和感を覚えるようになった。
まず、そのリズムだ。普通の生活音ならば、歩き回ったり物を動かす音が混ざるはずだろう。しかし、この足音は一定の間隔で「ドン、ドン」と響くだけ。
まるで、何か特定の儀式でもしているかのような不気味な規則性だ。そして、何より奇妙だったのは――その部屋には誰も住んでいないはずだということだった。
俺が住むのは三階建てのアパートの二階で、上の三階は空き部屋のはずだった。引っ越してきた際、不動産会社の担当者から「三階は現在空室です」と聞いていた。
それに、昼間にベランダから見上げても、カーテン一つかかっていないその部屋は、明らかに人の気配がない。
それなのに、夜になると足音が聞こえる。最初は「何かの聞き間違いだろう」と自分に言い聞かせたが、日が経つにつれ、疑念は確信へと変わっていった。
ある晩、意を決して不動産会社に電話をしてみた。
「すみません、二階に住んでいる者なんですが、上の階の足音が気になって……」
電話口の担当者は少し困惑した様子で答えた。
「三階には誰も入居していませんよ。空室です」
「でも……毎晩、足音が聞こえるんです。かなりはっきりと」
「それはおかしいですね……。念のため、明日確認に伺います」
その日はそれ以上話を続けることができなかった。電話を切った後も、胸の奥に重苦しい感覚が残り、どうしても納得がいかなかった。
そして、その夜も例の足音が聞こえた。
ドン、ドン……。
いつもと同じだ。ただ、気のせいか音が少し近いように感じた。まるで、天井を隔てた向こう側ではなく、少しずつこちら側に降りてきているような――そんな錯覚を覚えたのだ。
次の日、不動産会社の担当者がやって来た。中年の男で、薄い頭を気にしているのか、やたらと帽子を深く被っていた。
「三階、確認してきますね」
そう言うと、男は三階の空き部屋の鍵を取り出し、階段を上がって行った。俺は自分の部屋で待つように言われたが、気になって仕方がない。
結局、こっそり後をつけるように階段を上がり、少し離れたところからその様子を覗いた。
男が扉を開けると、中は確かに無人だった。薄暗い部屋の中には家具も何もなく、ほこりっぽい空気が漂っているだけだ。
「確かに、誰も住んでいませんね……」
男がそう言った瞬間、俺の背後で微かな音がした。ギシッ……という床の軋む音だ。
慌てて振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、三階の廊下の奥が妙に暗く見えた。
「何かありましたか?」
男の声に我に返り、「いや、なんでもないです」と答えると、そそくさと二階に戻った。
その後、不動産会社の男からは「特に異常は見つかりませんでした」とだけ告げられ、そのまま帰っていった。
しかし、その夜から足音はさらに変化を遂げた。
十時を過ぎる頃、いつものように足音が響き始めた。それだけならまだよかった――いや、よくはないが、慣れてしまっていたのだ。
しかし、その日、足音は天井ではなく、部屋の中から聞こえ始めたのだ。
ドン、ドン……。
俺は凍りついた。明らかに、天井越しではない。すぐ近く――部屋の中だ。
恐る恐る音のする方へ目を向けると、そこには何もない。ただ、足音は確かに聞こえている。
「誰だ!」
思わず叫んだ。だが、返事はない。ただ、足音だけが響き続けた。
ドン、ドン……。
その音は次第に俺の方へ近づいてきた。
俺は慌てて部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。外に出ると、冷たい夜風が全身に吹き付けたが、それが妙に心地よく感じた。
しばらくの間、俺はアパートの外で震えながら立ち尽くしていた。
それ以来、夜の十時を過ぎると外に出るようにした。部屋には戻れない。だが、それも長くは続かなかった。
ある夜、外からアパートを見上げると、自分の部屋の窓がほんの少しだけ開いていた。そして、その隙間から何かがこちらを覗いているのが見えたのだ。
真っ黒な影。人の形をしているが、明らかに人ではない。
その瞬間、俺は全てを悟った。あの足音は、俺だけに聞こえていたのではない。
俺がこのアパートに引っ越してきた瞬間から、それはずっと俺を見ていたのだ。
翌日、俺は荷物をまとめてアパートを出た。不動産会社には何も告げず、ただ逃げるようにその場所を去った。
だが、どれだけ離れても、あの足音は耳から離れない。時折、夜中に思い出したように聞こえてくるのだ。ドン、ドン……と。
そして、今も俺の背後で……。
仕事を辞め、結婚も破綻し、実家に戻るのも気が引けて、ネットで見つけたこの家賃の安いアパートに流れ着いた。
古くて少し薄気味悪い場所だったが、俺には贅沢を言う余裕などなかった。
だが、ここに住み始めてから奇妙なことが起き始めた。いや、正確には気付き始めたのだ。
毎晩、決まった時間――夜の十時を少し過ぎた頃だろうか。上の階から「ドン、ドン」と足音が響く。
最初は気にも留めなかった。古い建物だし、隣人の生活音くらい仕方ないと思ったからだ。
しかし、何日も続くその足音に、次第に違和感を覚えるようになった。
まず、そのリズムだ。普通の生活音ならば、歩き回ったり物を動かす音が混ざるはずだろう。しかし、この足音は一定の間隔で「ドン、ドン」と響くだけ。
まるで、何か特定の儀式でもしているかのような不気味な規則性だ。そして、何より奇妙だったのは――その部屋には誰も住んでいないはずだということだった。
俺が住むのは三階建てのアパートの二階で、上の三階は空き部屋のはずだった。引っ越してきた際、不動産会社の担当者から「三階は現在空室です」と聞いていた。
それに、昼間にベランダから見上げても、カーテン一つかかっていないその部屋は、明らかに人の気配がない。
それなのに、夜になると足音が聞こえる。最初は「何かの聞き間違いだろう」と自分に言い聞かせたが、日が経つにつれ、疑念は確信へと変わっていった。
ある晩、意を決して不動産会社に電話をしてみた。
「すみません、二階に住んでいる者なんですが、上の階の足音が気になって……」
電話口の担当者は少し困惑した様子で答えた。
「三階には誰も入居していませんよ。空室です」
「でも……毎晩、足音が聞こえるんです。かなりはっきりと」
「それはおかしいですね……。念のため、明日確認に伺います」
その日はそれ以上話を続けることができなかった。電話を切った後も、胸の奥に重苦しい感覚が残り、どうしても納得がいかなかった。
そして、その夜も例の足音が聞こえた。
ドン、ドン……。
いつもと同じだ。ただ、気のせいか音が少し近いように感じた。まるで、天井を隔てた向こう側ではなく、少しずつこちら側に降りてきているような――そんな錯覚を覚えたのだ。
次の日、不動産会社の担当者がやって来た。中年の男で、薄い頭を気にしているのか、やたらと帽子を深く被っていた。
「三階、確認してきますね」
そう言うと、男は三階の空き部屋の鍵を取り出し、階段を上がって行った。俺は自分の部屋で待つように言われたが、気になって仕方がない。
結局、こっそり後をつけるように階段を上がり、少し離れたところからその様子を覗いた。
男が扉を開けると、中は確かに無人だった。薄暗い部屋の中には家具も何もなく、ほこりっぽい空気が漂っているだけだ。
「確かに、誰も住んでいませんね……」
男がそう言った瞬間、俺の背後で微かな音がした。ギシッ……という床の軋む音だ。
慌てて振り返ったが、そこには誰もいない。ただ、三階の廊下の奥が妙に暗く見えた。
「何かありましたか?」
男の声に我に返り、「いや、なんでもないです」と答えると、そそくさと二階に戻った。
その後、不動産会社の男からは「特に異常は見つかりませんでした」とだけ告げられ、そのまま帰っていった。
しかし、その夜から足音はさらに変化を遂げた。
十時を過ぎる頃、いつものように足音が響き始めた。それだけならまだよかった――いや、よくはないが、慣れてしまっていたのだ。
しかし、その日、足音は天井ではなく、部屋の中から聞こえ始めたのだ。
ドン、ドン……。
俺は凍りついた。明らかに、天井越しではない。すぐ近く――部屋の中だ。
恐る恐る音のする方へ目を向けると、そこには何もない。ただ、足音は確かに聞こえている。
「誰だ!」
思わず叫んだ。だが、返事はない。ただ、足音だけが響き続けた。
ドン、ドン……。
その音は次第に俺の方へ近づいてきた。
俺は慌てて部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。外に出ると、冷たい夜風が全身に吹き付けたが、それが妙に心地よく感じた。
しばらくの間、俺はアパートの外で震えながら立ち尽くしていた。
それ以来、夜の十時を過ぎると外に出るようにした。部屋には戻れない。だが、それも長くは続かなかった。
ある夜、外からアパートを見上げると、自分の部屋の窓がほんの少しだけ開いていた。そして、その隙間から何かがこちらを覗いているのが見えたのだ。
真っ黒な影。人の形をしているが、明らかに人ではない。
その瞬間、俺は全てを悟った。あの足音は、俺だけに聞こえていたのではない。
俺がこのアパートに引っ越してきた瞬間から、それはずっと俺を見ていたのだ。
翌日、俺は荷物をまとめてアパートを出た。不動産会社には何も告げず、ただ逃げるようにその場所を去った。
だが、どれだけ離れても、あの足音は耳から離れない。時折、夜中に思い出したように聞こえてくるのだ。ドン、ドン……と。
そして、今も俺の背後で……。
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