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131.消えたクローゼット
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部屋を借りたのは、三月のまだ肌寒い日だった。仕事の都合で引っ越しを余儀なくされて、慌ただしく新居を探していた俺は、不動産会社に勧められるがままにこのマンションを選んだ。
築年数は古いが、内装はきれいにリフォームされていて、家賃も手ごろだったからだ。管理会社の担当者も親切そうだったし、何より職場まで電車で十五分という近さが魅力だった。
入居したその日、部屋の間取りを確認しているうちに「これはいいな」と思ったのが、リビングに隣接する洋室に備え付けられたクローゼットだった。
幅が広く、奥行きも十分で、スーツやコートを掛けても余裕がある。
俺は早速、引っ越し荷物の中から衣類を取り出し、そのクローゼットにしまい込んだ。新しい部屋に荷物を収めていく作業は案外楽しいもので、疲れはしたが、心地よい達成感もあった。
夜、軽くシャワーを浴びてからベッドに倒れ込むように横になった。天井を見上げると、どこか白々しく感じる蛍光灯の光が目にしみた。
新しい環境に慣れるまでは、こういう違和感がつきまとうものだろう。そう思いながら目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。
翌朝、目が覚めた時、妙な違和感があった。何かがおかしい。ベッドから起き上がり、昨日荷物を整理した洋室を覗いた瞬間、全身の血が一気に冷えていくのを感じた。
クローゼットが、消えていた。
正確に言えば、クローゼットの扉があったはずの壁が、ただの平らな面になっていたのだ。白いペンキで塗られた壁には、扉の跡など微塵も見当たらない。
まるで最初からそこに扉など存在しなかったかのように、滑らかな一続きの壁が広がっていた。
俺は慌てて壁を叩いてみた。コンコン、と乾いた音が返ってくる。中は空洞のようだ。
昨日、自分の手で掛けたスーツやコートがこの中にあるはずだ。それなのに、どうして扉が消えている?
混乱した俺は、急いで玄関に置いてあった契約書を確認した。間取り図には、確かにクローゼットが描かれている。
ならば、どうして今、目の前には壁しかないのか。頭の中で疑問が渦巻く中、俺はすぐに管理会社へ電話をかけた。
「もしもし、昨日入居した者ですが……」
電話に出たのは、内見の時に対応してくれた担当者だった。俺はクローゼットが消えたことを説明し、確認してほしいと訴えた。
しかし、返ってきた言葉は意外なものだった。
「その部屋には、最初からクローゼットなんてありませんよ?」
思わず受話器を握る手に力が入った。
「いや、そんなはずはありません。昨日、確かにそこにクローゼットがあったんです。間取り図にも載ってますし、実際に服をかけました」
「間取り図には、収納スペースの記載はあります。ただ、それは押し入れのことです。洋室には収納はついていないはずですが……」
「そんな……おかしいですよ。俺は確かに――」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。押し入れ? そういえば、和室には確かに押し入れがあった。しかし、俺が昨日見たのは間違いなく洋室のクローゼットだ。
管理会社の担当者は申し訳なさそうに、「一度確認に伺います」と言って電話を切った。
落ち着かない気持ちを抱えながら、俺は再び消えたクローゼットの前に立った。そして、もう一度壁を叩いてみる。
確かに中は空洞だ。だが、どうしても開けることができない。あるいは、俺の記憶違いだろうか――そんなはずはない。
昼過ぎ、管理会社の担当者がやってきた。彼は俺の説明を聞きながら、例の壁を確認した。そして、困ったような顔で言った。
「やっぱり、ここには収納スペースはないですね。壁の中はおそらく配管スペースか何かでしょう。契約書に記載されているのは和室の押し入れですし……」
俺は言葉を失った。しかし、どうしても納得できない。目の前にいる担当者を問い詰めたところで、彼が嘘をついているようには見えなかった。
だが、昨日確かにこの場所にあったクローゼットは、どう説明すればいいのか。
担当者が帰った後、俺は再び壁を叩き続けた。叩く音に耳を澄ませていると、あることに気づいた。
この壁の向こう側から、微かに音が聞こえるのだ。それは、壁の中で何かが動いているような、かすかな物音だった。
俺は息を呑んだ。恐る恐る耳を壁に近づけると、何かが壁の中を這いずるような音が聞こえる。
ザッ……ザリッ……と、規則的ではない不気味な音だ。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、俺は後ずさった。
まさか、中に何かいるのか? だが、そんなことがあるはずがない。
その夜、俺はほとんど眠れなかった。壁の向こうから聞こえる音は、夜になるとさらに大きくなったように感じた。
まるで、壁の中で何かがうごめいているような……いや、誰かがいるような気配すら感じられる。
翌朝、俺は意を決して壁を壊すことを決めた。ホームセンターでハンマーを買い、壁の前に立つ。
もし中に何かがいるなら、このままにしておくわけにはいかない。俺は思い切ってハンマーを振り下ろした。
壁が割れると同時に、ひんやりとした空気が俺の顔に当たる。そこには、暗闇が広がっていた。
壁の中は想像以上に広く、まるで別の部屋のようだった。そして、その闇の中に、ぽつんと何かが落ちているのが見えた。
俺が手を伸ばして拾い上げたそれは、昨日クローゼットにかけたはずのスーツだった。
だが、スーツには何かがこびりついている。赤黒い、乾いた血のようなものが――。
その瞬間、壁の中から何かが動き出した音がした。俺はその場にスーツを投げ捨て、慌てて後退した。そして、目を疑った。
暗闇の中から、何かがこちらをじっと見ている。
それが何かを見極める前に、俺は全力で部屋を飛び出した。ドアを閉め、鍵をかけ、外へと逃げ出す。
その後の記憶は曖昧だ。ただ、あの部屋にはもう戻れない。
あのクローゼット――いや、あの壁の向こう側には、きっと人間ではない何かがいる。俺が見たのは、その片鱗に過ぎなかったのだろう。
今も耳の奥に、あの壁を叩いた音が響いている。あの部屋では、まだ何かが蠢いているのだろうか……。
どうか、誰も近づかないでほしい。あの部屋には、何かがいるのだから。
築年数は古いが、内装はきれいにリフォームされていて、家賃も手ごろだったからだ。管理会社の担当者も親切そうだったし、何より職場まで電車で十五分という近さが魅力だった。
入居したその日、部屋の間取りを確認しているうちに「これはいいな」と思ったのが、リビングに隣接する洋室に備え付けられたクローゼットだった。
幅が広く、奥行きも十分で、スーツやコートを掛けても余裕がある。
俺は早速、引っ越し荷物の中から衣類を取り出し、そのクローゼットにしまい込んだ。新しい部屋に荷物を収めていく作業は案外楽しいもので、疲れはしたが、心地よい達成感もあった。
夜、軽くシャワーを浴びてからベッドに倒れ込むように横になった。天井を見上げると、どこか白々しく感じる蛍光灯の光が目にしみた。
新しい環境に慣れるまでは、こういう違和感がつきまとうものだろう。そう思いながら目を閉じると、すぐに眠りに落ちた。
翌朝、目が覚めた時、妙な違和感があった。何かがおかしい。ベッドから起き上がり、昨日荷物を整理した洋室を覗いた瞬間、全身の血が一気に冷えていくのを感じた。
クローゼットが、消えていた。
正確に言えば、クローゼットの扉があったはずの壁が、ただの平らな面になっていたのだ。白いペンキで塗られた壁には、扉の跡など微塵も見当たらない。
まるで最初からそこに扉など存在しなかったかのように、滑らかな一続きの壁が広がっていた。
俺は慌てて壁を叩いてみた。コンコン、と乾いた音が返ってくる。中は空洞のようだ。
昨日、自分の手で掛けたスーツやコートがこの中にあるはずだ。それなのに、どうして扉が消えている?
混乱した俺は、急いで玄関に置いてあった契約書を確認した。間取り図には、確かにクローゼットが描かれている。
ならば、どうして今、目の前には壁しかないのか。頭の中で疑問が渦巻く中、俺はすぐに管理会社へ電話をかけた。
「もしもし、昨日入居した者ですが……」
電話に出たのは、内見の時に対応してくれた担当者だった。俺はクローゼットが消えたことを説明し、確認してほしいと訴えた。
しかし、返ってきた言葉は意外なものだった。
「その部屋には、最初からクローゼットなんてありませんよ?」
思わず受話器を握る手に力が入った。
「いや、そんなはずはありません。昨日、確かにそこにクローゼットがあったんです。間取り図にも載ってますし、実際に服をかけました」
「間取り図には、収納スペースの記載はあります。ただ、それは押し入れのことです。洋室には収納はついていないはずですが……」
「そんな……おかしいですよ。俺は確かに――」
言いかけて、言葉を飲み込んだ。押し入れ? そういえば、和室には確かに押し入れがあった。しかし、俺が昨日見たのは間違いなく洋室のクローゼットだ。
管理会社の担当者は申し訳なさそうに、「一度確認に伺います」と言って電話を切った。
落ち着かない気持ちを抱えながら、俺は再び消えたクローゼットの前に立った。そして、もう一度壁を叩いてみる。
確かに中は空洞だ。だが、どうしても開けることができない。あるいは、俺の記憶違いだろうか――そんなはずはない。
昼過ぎ、管理会社の担当者がやってきた。彼は俺の説明を聞きながら、例の壁を確認した。そして、困ったような顔で言った。
「やっぱり、ここには収納スペースはないですね。壁の中はおそらく配管スペースか何かでしょう。契約書に記載されているのは和室の押し入れですし……」
俺は言葉を失った。しかし、どうしても納得できない。目の前にいる担当者を問い詰めたところで、彼が嘘をついているようには見えなかった。
だが、昨日確かにこの場所にあったクローゼットは、どう説明すればいいのか。
担当者が帰った後、俺は再び壁を叩き続けた。叩く音に耳を澄ませていると、あることに気づいた。
この壁の向こう側から、微かに音が聞こえるのだ。それは、壁の中で何かが動いているような、かすかな物音だった。
俺は息を呑んだ。恐る恐る耳を壁に近づけると、何かが壁の中を這いずるような音が聞こえる。
ザッ……ザリッ……と、規則的ではない不気味な音だ。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、俺は後ずさった。
まさか、中に何かいるのか? だが、そんなことがあるはずがない。
その夜、俺はほとんど眠れなかった。壁の向こうから聞こえる音は、夜になるとさらに大きくなったように感じた。
まるで、壁の中で何かがうごめいているような……いや、誰かがいるような気配すら感じられる。
翌朝、俺は意を決して壁を壊すことを決めた。ホームセンターでハンマーを買い、壁の前に立つ。
もし中に何かがいるなら、このままにしておくわけにはいかない。俺は思い切ってハンマーを振り下ろした。
壁が割れると同時に、ひんやりとした空気が俺の顔に当たる。そこには、暗闇が広がっていた。
壁の中は想像以上に広く、まるで別の部屋のようだった。そして、その闇の中に、ぽつんと何かが落ちているのが見えた。
俺が手を伸ばして拾い上げたそれは、昨日クローゼットにかけたはずのスーツだった。
だが、スーツには何かがこびりついている。赤黒い、乾いた血のようなものが――。
その瞬間、壁の中から何かが動き出した音がした。俺はその場にスーツを投げ捨て、慌てて後退した。そして、目を疑った。
暗闇の中から、何かがこちらをじっと見ている。
それが何かを見極める前に、俺は全力で部屋を飛び出した。ドアを閉め、鍵をかけ、外へと逃げ出す。
その後の記憶は曖昧だ。ただ、あの部屋にはもう戻れない。
あのクローゼット――いや、あの壁の向こう側には、きっと人間ではない何かがいる。俺が見たのは、その片鱗に過ぎなかったのだろう。
今も耳の奥に、あの壁を叩いた音が響いている。あの部屋では、まだ何かが蠢いているのだろうか……。
どうか、誰も近づかないでほしい。あの部屋には、何かがいるのだから。
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