餅太郎の恐怖箱【一話完結 短編集】

坂本餅太郎

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134.もう一つの手

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 スマホの画面を拭いていた。何度拭いても、指紋が消えない。いや、それどころか、増えているように感じる。

 最初は自分の指紋だと思った。だから、丁寧にクリーニングクロスで拭き取ってみた。
 けれど、拭いても拭いても次々と浮かび上がる指紋が、どうにも気味が悪い。

「またかよ……」

 そう呟いて、ふと手を止める。

 じっと画面を見つめると、指紋は液晶の隅から隅までびっしりと広がっている。触った覚えのない場所にもついているのがわかる。

 画面端にあるカメラレンズのすぐ脇や、スクリーンの中央あたり。自分が普段、そんな場所を触るはずがない。
 それに、こんなに短時間でこんな数の指紋がつくものだろうか?

 気のせいだ。そう自分に言い聞かせながら、俺はもう一度クロスを手に取り、念入りに指紋を拭き取る。

 次第に、画面はピカピカになり、反射する天井の蛍光灯がくっきりと見えるようになった。

「これでよし」

 満足げにスマホを手に取ると、また画面に指紋が浮かび上がっているのに気づいた。
 今度は、拭いたばかりの画面中央に、くっきりとした指紋が三つ並んでいる。

 自分の指ではない。俺の指紋はもっと細くて、長いはずだ。なのに、画面に浮かんでいる指紋は短く太い。

 まるで……まるで子どもの指のようだ。

「おい、嘘だろ……」

 思わず声に出してしまった。息が詰まるような感覚に襲われ、胸がざわつく。
 俺はスマホを持つ手に力を込め、もう一度画面を拭き取った。

 しかし、何度拭いても同じだ。指紋は消えても、すぐにまた浮かび上がる。

 その時、ふと頭をよぎったのは、数日前に見たニュースだった。

 スマホの画面に「幽霊の手形」が現れるという怪談話を特集していた。俺はそんな話を一笑に付していた。くだらない都市伝説だと思っていたのだ。

 けれども今、目の前で起きているこの状況は、それに酷似しているような気がしてならない。

「まさか、な……」

 俺は立ち上がり、部屋の照明を消した。薄暗い部屋の中でスマホの画面を点け、懐中電灯アプリを起動してみる。
 スマホを手で握るように持ち直し、画面をよく見つめた。

 その瞬間、血の気が引いた。

 スマホを握る俺の手に、もう一つの手が重なっているのが見えたのだ。画面に映るのは、俺の手ではない。

 青白い指が、俺の手に絡みつくように重なり、しっかりとスマホを握っている。

「なんだよ、これ……」

 思わずスマホを放り投げそうになったが、恐怖で手が硬直してしまった。握ったままのスマホの画面に、その手がしっかりと映り込んでいる。

 俺の手の上に、確かに「もう一つの手」が存在しているのだ。

 心臓がバクバクと鳴り、冷や汗が背中を伝った。俺は震える手でスマホを机に置き、吐き気をこらえながら深呼吸を繰り返した。

 何かの見間違いだ……そう自分に言い聞かせるものの、画面に映ったあの手の感触が、まだ手のひらに残っている気がする。

「あり得ない、あり得ないだろ!」

 声を荒げ、俺はスマホに手を伸ばした。そして、画面をもう一度確認する。
 今度は、何も映っていない。ただの俺の手だけだ。

 安堵の息をついた、その刹那。

 スマホの画面が暗転した。電源が落ちたのかと思ったが、そうではない。画面の中に何かが映っている。
 暗闇の中で、ぼんやりと浮かび上がる青白い影。それは、さっき見た「もう一つの手」だった。

 今度は手だけではない。手の先に、顔のようなものがぼんやりと浮かび上がっているのだ。

「う……うそだろ?」

 言葉を失った。画面に映るそれは、まるでこちらを見つめているようだった。目は虚ろで、鼻と口はぼやけている。
 それでも、確かに「何か」がこちらを見ているのがわかる。そして、その顔がゆっくりと口を開いた。

「――返して」

 低く、湿った声が聞こえた気がした。その瞬間、スマホが震え出した。
 通知の振動音ではない。もっと不規則で、重々しい震え方だった。
 俺は恐怖のあまり、スマホを手放してしまった。

 スマホは床に落ちたが、画面は割れていない。代わりに、画面の中で何かが蠢いているのが見えた。

 あの青白い手が画面の中を這い回り、まるで出口を探しているかのように動き回っているのだ。

「嘘だ、こんなの、あり得ない!」

 俺は部屋を飛び出した。スマホを置いたまま、廊下を駆け抜け、玄関のドアを開ける。外に出た瞬間、冷たい夜風が肌を刺した。

 だが、異変は終わらなかった。ポケットの中で、スマホが震え出したのだ。

 俺は確かにスマホを部屋に置いてきたはずだ。それなのに、ポケットの中で震えているのは間違いなく俺のスマホだ。

 恐る恐るスマホを取り出すと、画面には「着信中」の表示が浮かんでいた。発信元は不明。

 震える指で画面をスワイプし、通話を繋げる。

「――返して」

 またあの声だ。今度ははっきりと聞こえた。俺はスマホを投げ捨てるように地面に落とし、後ずさった。

 しかし、スマホは地面に落ちた瞬間、俺の足元に瞬時に戻ってきた。まるで何かに引き寄せられるように。

「返して……」

 声が徐々に近づいてくる。スマホからではない。背後からだ。振り返ることができなかった。

 振り返れば、そこに何がいるのか、わかってしまう気がするからだ。

 重い空気が背中にのしかかり、息が詰まる。俺はその場に立ち尽くし、ただ震えることしかできなかった。

 そして次の瞬間、冷たい感触が俺の肩に触れた――。


 気がつくと、俺は部屋にいた。いつもの机に座り、スマホを手にしている。

「さっきのは……夢?」

 そう思いたかった。けれども、目の前のスマホの画面にはびっしりと指紋がついている。

 それも、俺のものではない指紋が。

 そして画面の中には、青白い手がゆっくりと俺に向かって伸びてきていた――。
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