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137.白い手形
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アパートの廊下にその手形を初めて見たのは、春先の雨が降り続いていた日だった。
薄暗い曇り空の下、窓ガラスにべったりと貼りつくような白い手形は、妙に印象深いものだった。
大人の手にしては少し小さめで――子供の手のようにも見える。
しかし、子供がここにいるわけではない。うちのアパートは一人暮らし専用で、住人たちもみな大人だ。
だが、その手形は、どう見ても人間の手の形をしていた。
「あれ、気味が悪いよな」
隣の部屋に住む佐藤さんが、廊下で顔を合わせるたびにそう言ってくる。
彼は三十代半ばの男性で、仕事帰りにいつも缶ビールを片手にしているような人だ。
気さくで話しやすいが、どことなく神経質なところがある。
佐藤さんの話では、その手形は管理人が何度も拭き取ろうとしているらしい。
しかし、拭いても拭いても翌朝にはまた現れるというのだ。
「管理人さんもさ、最初は誰かの悪戯だって思ったみたいなんだけど、さすがに何度も続くと気持ち悪いだろ」
その話を聞いたとき、私は軽く笑って流した。
風で何かがついたんじゃないですか、と適当に答えたが、内心では少し引っかかっていた。
確かに、あの手形は普通じゃない。
雨の日も晴れの日も関係なく、いつも同じ場所に、同じ形で現れる。不気味と言えば不気味だった。
その夜、私はその白い手形のことを考えながら布団に入った。
窓ガラスに残る手形――それが誰のものなのか、どうして現れるのか。
管理人が拭き取っても消えないという話も妙だった。
だが、疲れていたせいか、考えながらいつの間にか眠りに落ちてしまった。
次の日、仕事から帰ると、またあの手形が窓にくっきりと浮かんでいた。
その日は晴れていたから、雨のせいではない。
私はしばらくその手形を眺めていたが、ふとした衝動に駆られて窓に近づいた。
思えば、このときから何かがおかしかったのかもしれない。
私は手を伸ばし、自分の手をその手形に重ねてみた。
冷たいガラス越しに白い手形が透けて見える。
自分の手の大きさと比べると、やはり少し小さい。
子供の手よりは大きいが、大人の手としては小さい。
妙に生々しい形をしているのに、どこか不自然な感じがした。
そして――そのときだった。
ガラス越しに、もう一つの手が現れた。
私の手に重なるように、内側から現れた白い手。
それは、私が重ねた手にぴったりと合わせるようにして動いた。
驚いて手を引っ込めようとしたが、動けなかった。
まるでガラスが吸い付いてくるような感覚がして、私の手はその場に固定されてしまった。
「……なんなんだ? ……誰なんだ?」
声にならない声で問いかけたが、答えはない。
ただ、ガラス越しの手がゆっくりと動いた。
指先がなぞるように動き、まるで何かを伝えようとしているようだった。
だが、私はそれ以上見ることができなかった。
恐怖が全身を支配し、無理やり手を引き剥がしてその場を逃げ出した。
部屋に戻っても、心臓の鼓動はなかなか収まらなかった。
あれは何だったのか。誰かの悪戯だと言い聞かせようとしたが、納得できなかった。
ガラスの向こう側から手が現れるなんて、普通ではあり得ない。
その夜、私は奇妙な夢を見た。
暗い廊下を歩いていると、遠くから誰かがこちらに手を伸ばしてくる。
白い手形が浮かび上がり、私の腕を掴む。
恐怖で振り払おうとするが、力が入らない。
手は私を引きずり込み、どこかへ連れていこうとしている――。
目が覚めたとき、全身が汗でびっしょりだった。
時計を見ると、午前二時を過ぎている。
窓の外は静まり返り、アパート全体が闇に包まれていた。
だが、私は妙な視線を感じた。誰かに見られているような感覚。
それがどこから来ているのかはわからない。
ただ、嫌な予感がして、私は布団から起き上がった。
廊下に出ると、そこにはまたあの白い手形があった。今度は一つではなかった。
窓の全面にびっしりと手形がついている。
まるで何十人もの手がガラスに押し付けられたように。
「……なんだこれ」
思わず声に出してしまった。
だが、誰もいないはずの廊下から返事が返ってきた気がした。「……おいで」と。
その声はどこからともなく響いてきたようだった。
私は恐る恐る窓の方に近づいた。
すると、ガラス越しにぼんやりとした顔が浮かび上がった。
それは人間の顔ではなかった。目がなく、口だけが大きく開いている。
白い手形の主は、この存在なのだろうか。
私は逃げ出そうとしたが、足が動かなかった。
窓の向こうの顔がゆっくりと笑ったように見えた。
そして、再びガラス越しに白い手が現れ、私に向かって伸びてきた。
「――だめだ」
声にならない声が喉の奥で詰まり、私はその場に崩れ落ちた。
意識が遠のく中で、私は確かに聞いた。誰かが何度も「助けて」と囁いている声を。
朝になって目を覚ますと、私は自分の部屋の床に倒れていた。
あの夜のことは夢だったのか、それとも現実だったのか。
だが、廊下に出てみると、窓ガラスにはまだ手形が残っていた。
管理人がいくら拭いても消えないという白い手形。
私はもう、それに手を重ねることはできなかった。
それから数日後、隣の佐藤さんが突然アパートを引っ越すと言い出した。
理由を聞いても教えてくれなかったが、彼の目は明らかに怯えていた。
私もこのアパートを出た方がいいのかもしれない――そう思いながらも、私はまだここに住んでいる。
白い手形は今も窓ガラスに現れ続けている。管理人はもう拭くのを諦めたようだ。
誰もがそれを見て見ぬふりをする。
それが何を意味しているのか、誰も知ろうとはしない。ただ一つ、確かなことがある。
あの手形は、何かを伝えようとしているのだ。
そして、それに触れた者は決して無事ではいられない――。
薄暗い曇り空の下、窓ガラスにべったりと貼りつくような白い手形は、妙に印象深いものだった。
大人の手にしては少し小さめで――子供の手のようにも見える。
しかし、子供がここにいるわけではない。うちのアパートは一人暮らし専用で、住人たちもみな大人だ。
だが、その手形は、どう見ても人間の手の形をしていた。
「あれ、気味が悪いよな」
隣の部屋に住む佐藤さんが、廊下で顔を合わせるたびにそう言ってくる。
彼は三十代半ばの男性で、仕事帰りにいつも缶ビールを片手にしているような人だ。
気さくで話しやすいが、どことなく神経質なところがある。
佐藤さんの話では、その手形は管理人が何度も拭き取ろうとしているらしい。
しかし、拭いても拭いても翌朝にはまた現れるというのだ。
「管理人さんもさ、最初は誰かの悪戯だって思ったみたいなんだけど、さすがに何度も続くと気持ち悪いだろ」
その話を聞いたとき、私は軽く笑って流した。
風で何かがついたんじゃないですか、と適当に答えたが、内心では少し引っかかっていた。
確かに、あの手形は普通じゃない。
雨の日も晴れの日も関係なく、いつも同じ場所に、同じ形で現れる。不気味と言えば不気味だった。
その夜、私はその白い手形のことを考えながら布団に入った。
窓ガラスに残る手形――それが誰のものなのか、どうして現れるのか。
管理人が拭き取っても消えないという話も妙だった。
だが、疲れていたせいか、考えながらいつの間にか眠りに落ちてしまった。
次の日、仕事から帰ると、またあの手形が窓にくっきりと浮かんでいた。
その日は晴れていたから、雨のせいではない。
私はしばらくその手形を眺めていたが、ふとした衝動に駆られて窓に近づいた。
思えば、このときから何かがおかしかったのかもしれない。
私は手を伸ばし、自分の手をその手形に重ねてみた。
冷たいガラス越しに白い手形が透けて見える。
自分の手の大きさと比べると、やはり少し小さい。
子供の手よりは大きいが、大人の手としては小さい。
妙に生々しい形をしているのに、どこか不自然な感じがした。
そして――そのときだった。
ガラス越しに、もう一つの手が現れた。
私の手に重なるように、内側から現れた白い手。
それは、私が重ねた手にぴったりと合わせるようにして動いた。
驚いて手を引っ込めようとしたが、動けなかった。
まるでガラスが吸い付いてくるような感覚がして、私の手はその場に固定されてしまった。
「……なんなんだ? ……誰なんだ?」
声にならない声で問いかけたが、答えはない。
ただ、ガラス越しの手がゆっくりと動いた。
指先がなぞるように動き、まるで何かを伝えようとしているようだった。
だが、私はそれ以上見ることができなかった。
恐怖が全身を支配し、無理やり手を引き剥がしてその場を逃げ出した。
部屋に戻っても、心臓の鼓動はなかなか収まらなかった。
あれは何だったのか。誰かの悪戯だと言い聞かせようとしたが、納得できなかった。
ガラスの向こう側から手が現れるなんて、普通ではあり得ない。
その夜、私は奇妙な夢を見た。
暗い廊下を歩いていると、遠くから誰かがこちらに手を伸ばしてくる。
白い手形が浮かび上がり、私の腕を掴む。
恐怖で振り払おうとするが、力が入らない。
手は私を引きずり込み、どこかへ連れていこうとしている――。
目が覚めたとき、全身が汗でびっしょりだった。
時計を見ると、午前二時を過ぎている。
窓の外は静まり返り、アパート全体が闇に包まれていた。
だが、私は妙な視線を感じた。誰かに見られているような感覚。
それがどこから来ているのかはわからない。
ただ、嫌な予感がして、私は布団から起き上がった。
廊下に出ると、そこにはまたあの白い手形があった。今度は一つではなかった。
窓の全面にびっしりと手形がついている。
まるで何十人もの手がガラスに押し付けられたように。
「……なんだこれ」
思わず声に出してしまった。
だが、誰もいないはずの廊下から返事が返ってきた気がした。「……おいで」と。
その声はどこからともなく響いてきたようだった。
私は恐る恐る窓の方に近づいた。
すると、ガラス越しにぼんやりとした顔が浮かび上がった。
それは人間の顔ではなかった。目がなく、口だけが大きく開いている。
白い手形の主は、この存在なのだろうか。
私は逃げ出そうとしたが、足が動かなかった。
窓の向こうの顔がゆっくりと笑ったように見えた。
そして、再びガラス越しに白い手が現れ、私に向かって伸びてきた。
「――だめだ」
声にならない声が喉の奥で詰まり、私はその場に崩れ落ちた。
意識が遠のく中で、私は確かに聞いた。誰かが何度も「助けて」と囁いている声を。
朝になって目を覚ますと、私は自分の部屋の床に倒れていた。
あの夜のことは夢だったのか、それとも現実だったのか。
だが、廊下に出てみると、窓ガラスにはまだ手形が残っていた。
管理人がいくら拭いても消えないという白い手形。
私はもう、それに手を重ねることはできなかった。
それから数日後、隣の佐藤さんが突然アパートを引っ越すと言い出した。
理由を聞いても教えてくれなかったが、彼の目は明らかに怯えていた。
私もこのアパートを出た方がいいのかもしれない――そう思いながらも、私はまだここに住んでいる。
白い手形は今も窓ガラスに現れ続けている。管理人はもう拭くのを諦めたようだ。
誰もがそれを見て見ぬふりをする。
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あの手形は、何かを伝えようとしているのだ。
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