冷徹令嬢(中身42歳)の経営改革 ~企業再建のプロが転生したら、効率重視の行動が「聖女の奇跡」と勘違いされまして~

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第14話:水洗トイレの感動と、招かれざる産業スパイ

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長い、本当に長い王都への出張から戻った私が、屋敷に到着して最初に向かった場所。  それは自室でも、両親の待つサロンでもない。

 ――トイレだ。

 私は個室に入り、新設された陶器の便座に座り、用を足した後、壁に取り付けられた手動ポンプのレバーを引いた。  ゴボゴボッ、という音と共に水が流れ、汚物が綺麗に吸い込まれていく。  臭い戻りを防ぐ『S字トラップ』も完璧に機能している。

「……文明だ」

 私は個室の中で、一人静かに天井を仰いだ。  この瞬間、私のQOL(生活の質)は中世から近代へと飛躍的な進化(イノベーション)を遂げた。  これで毎朝、悪臭に顔をしかめたり、汲み取り式の不衛生さに怯えたりする必要はない。  あまりの感動に、無表情のまま涙がこぼれそうになった。

(よし。これでこの屋敷は、世界で最も快適な拠点(ベース)になった)

 私はスッキリとした気分で個室を出た。  廊下では、ハンスがハンカチを持って待機していた。

「お、おかえりなさいませ、お嬢様。……そんなに感動的なトイレだったんですか?」 「ええ。この感動は、株価がストップ高になった時の興奮に匹敵するわ。……ところでハンス、私の留守中に問題(インシデント)は?」

 私が尋ねると、ハンスの表情がサッと曇った。

「……はい。実は、少し厄介なお客様が領内に紛れ込んでいまして」 「お客様?」 「行商人(ペドラー)を名乗っていますが、目つきが鋭すぎます。それに、商売もせずに『マヨネーズ工場』や『堆肥センター』の周りをうろついているんです。おそらく……」

「隣国、ガルディア帝国の密偵(スパイ)ね」

 私は即答した。  アグランド王国の東に位置する軍事国家、ガルディア帝国。土地が痩せており、常に資源を求めて周辺国に圧力をかけている厄介な隣人だ。  我が領地の急激な復興と、謎の調味料「天使のクリーム」の噂を聞きつけ、その技術を盗みに来たのだろう。

「ど、どうしましょう? 衛兵を呼んで捕らえますか?」 「いいえ。現行犯でなければシラを切られるだけよ。それに、外交問題に発展すれば、せっかくの私のスローライフが戦争で吹き飛ぶ。コストが高すぎるわ」

 私は思考を巡らせた。  産業スパイへの対抗策は、捕縛や拷問ではない。  彼らの目的(技術奪取)を無力化し、逆にこちらの顧客(カスタマー)に取り込むことだ。

「……ハンス。その『お客様』を、丁重に招待しなさい。『当家の特産品試食会にご招待します』と言ってね」 「えっ? 招待するんですか!?」 「ええ。最高の『おもてなし』で、彼らの戦意を骨抜きにするのよ」

        ***

 屋敷の裏庭に設けられた野外テーブルに、三人の男たちが座らされていた。  薄汚れた商人の服を着ているが、姿勢が良すぎるし、掌には剣ダコがある。隠しきれない軍人の匂いだ。  リーダー格と思われる男――ヴォルフと名乗った――は、油断なく周囲を警戒している。

「……おい、どういうつもりだ。俺たちはただの貧乏商人だぞ。こんな貴族の庭に呼ばれる覚えはねぇ」

 ヴォルフが低い声で威嚇してくる。  私は向かいの席に座り、優雅に紅茶を飲んだ。

「まあ、そう警戒なさらないで。遠方からのお客様に、我が領地の自慢の味を知っていただきたいだけです」 「知るか。俺たちは忙しいんだ。帰らせてもらう」

 彼らが立ち上がろうとした時、ガストン料理長とメイドたちが、大きな皿を運んできた。  皿の上には、茹でたジャガイモ、人参、キュウリ、そしてハムを、たっぷりのマヨネーズで和えた料理――『ポテトサラダ』が山盛りにされている。

 この世界にはまだない、マヨネーズ料理の王道だ。

「……なんだ、これは? 白くてドロドロしたものが絡みついているが」 「毒見は済ませてあります。……さあ、一口どうぞ。ガルディア帝国では味わえない、豊穣の味ですよ?」

 私が「ガルディア帝国」という単語を出した瞬間、ヴォルフたちの肩がピクリと跳ねた。  図星だ。だが、私は気づかないふりで微笑んだ(無表情で)。

 ヴォルフは観念したように、フォークでポテトサラダを口に運んだ。  どうせ泥臭い芋料理だろう、と侮った顔で。

 咀嚼。  そして――硬直。

「…………なっ!?」

 ヴォルフの目がカッと見開かれた。  ホクホクとしたジャガイモの甘み。それを包み込むマヨネーズの濃厚なコクと酸味。シャキシャキとしたキュウリの食感。  それらが口の中で渾然一体となり、暴力的な旨味となって脳髄を刺激する。

「う、美味い……! なんだこれは! 芋が……ただの芋が、宝石のような味に!」 「隊長、俺のも食ってください! この白いソース、悪魔的な美味さです!」

 部下たちも我を忘れてガツガツと食べ始めた。  軍事国家である彼らの国は、食文化が貧しい。硬いパンと塩辛い干し肉が主食の彼らにとって、このクリーミーで複雑な味わいは、未知の衝撃(カルチャーショック)だろう。

 私は彼らが皿を空にするのを見計らって、静かに口を開いた。

「美味しいでしょう? それが、平和と貿易の味です」

 ヴォルフがハッとして私を見た。口の周りにマヨネーズをつけたままで。

「あなた方の国は、武力で領土を奪うことには長けていますが、こうした『文化』を育てる時間はなかったようですね」 「……貴様、気づいて……」 「技術を盗むのはお勧めしません。この『天使のクリーム』の製法は複雑で、微妙な温度管理と配合比率が必要です。素人が真似ても、ただ分離した油と酢ができるだけ」

 私は彼らの前に、手土産用のマヨネーズ瓶を三つ置いた。

「盗むのではなく、『買いなさい』。当家は輸出を歓迎します」

「……買うだと?」 「ええ。もしあなた方の国が我が国に攻め込めば、この供給は止まります。二度とこのポテトサラダは食べられない。……ですが、友好的な貿易相手であり続ける限り、この味はあなた方の食卓にも届きます」

 私はニヤリと笑った。

「どちらが『お得』か。優秀な軍人であるあなた方なら、計算できるはずですが?」

 これは脅迫ではない。純粋な損得勘定の提示だ。  「戦争をするより、マヨネーズを買って家でポテサラを食べている方が幸せだ」と思わせれば、私の勝ちだ。

 長い沈黙の後。  ヴォルフは深々と溜息をつき、テーブルの上の瓶を大切そうに懐にしまった。

「……完敗だ。幼い領主殿」

 彼の目から、殺気が消えていた。

「俺たちの負けだ。……技術を盗むどころか、こんな美味い餌付けをされちまっちゃ、戦う気も失せる」 「わかっていただけて何よりです。お帰りの際は、検問フリーの裏道をハンスに案内させますわ」 「……恩に着る。国に帰って上に報告するよ。『アグランドには侵攻するな。あそこには、剣よりも恐ろしい魔性の味がある』とな」

 男たちは礼を言い、逃げるように、しかしどこか晴れやかな顔で去っていった。  彼らはきっと、国に帰れば熱烈な「マヨネーズ普及員」となり、帝国市場を開拓してくれるだろう。

「ふぅ……一件落着(ケース・クローズ)ね」

 私は空になった皿を見つめた。  これで外交リスクも回避し、新規の輸出ルートも開拓できた。一石二鳥だ。

「お、お嬢様……」

 一部始終を見ていたハンスが、震える声で呟いた。

「スパイを食事だけで手なずけ、自国のファンに変えて帰すなんて……。これこそ『戦わずして勝つ』……! お嬢様は、伝説の軍師の生まれ変わりですか!?」

「いいえ。ただの市場拡大戦略(マーケティング)よ」

 私は椅子から立ち上がった。  さあ、邪魔者は消えた。  今度こそ、誰にも邪魔されず、あの快適な水洗トイレで新聞を読む時間を楽しむのだ。

 ――しかし。  私のスローライフへの渇望とは裏腹に、世界は私を放っておかなかった。  数日後。今度は王都から、近衛騎士団長ヒルデガルドの名で、一通の極秘書簡が届くことになる。

『至急相談あり。――北の国境に、正体不明の魔物の群れが出現した。貴官の知恵を借りたい』

 ……またか。  私は天を仰いだ。  どうやら、内政チートの次は、ファンタジーの定番「魔物討伐」のコンサルティングをさせられる運命にあるらしい。
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