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第2章 調教
8.封じられた過去(1)
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四方田家の先々代当主・図書助は、当時まだ十五歳の女中、おせつを孕ませた。
しかし図書助はそのとき既に、正室との間に三男二女をもうけており、さらに敷地内にある離れに妾をひとり囲い庶子までいた。
この上、妾子ですらない子供を認知するのは、正室の顔を潰すことであり、許されない事態だった。
そこで図書助は、おせつを女中の身分のまま、屋敷の北側、ちょうど母屋から死角になるところにある小屋を与え、母子を住まわせた。
おせつの活動範囲は、母屋の建物の中から、当主家族の目に触れない裏方へと追いやられた。
彼女は幼い於松を背中に背負い、水汲みや薪割り、井戸端での洗濯などの重労働を担った。
於松は、物心ついたときから、自分が「見られてはならない存在」だと悟っていた。
屋敷の表を歩くことは許されず、家族の目に触れる場所へ出ることも禁じられた。
母娘はまるで屋敷の影のように、一日中日の当たらない小屋で暮らしていた。
於松が十歳になった年の春、図書助の毒牙にかかった。
老いてシミの浮いた手が全身を這い、酒臭い息が首筋にかかる。
恐怖と嫌悪で体が震えたが、母のために耐え忍んだ。
母はすべてを知った時、土間の隅で声を殺して泣き崩れた。
しかし、屋敷を出ても、母娘ともに行くあてはない。
それは於松にもわかっていた。
遊郭に売られるよりはマシだと自分に言い聞かせ、母の前では気丈にふるまった。
「このことを外に漏らせば、お前の母親ともども斬り捨てる」
図書助が於松の耳に囁いた言葉は、彼の死後も重くのしかかった。
屋敷の者たちは、気づいていても、誰も何も言わなかった。
年に何回か、図書助の正室と顔を合わせることがあった。
彼女は何も言わない。
嫌味ひとつ言わず、声を荒げることもない。
ただ、汚物を見るような眼差しを一瞬だけ投げて、すぐに視線を外す。
その目が、於松の胸に焼きついて離れなかった。
十四歳の冬、正室の差配で、於松は菅野家に嫁いだ。
本来、四方田家の養女なら、立派な嫁入り道具を誂え、華やかな花嫁行列を組んで、表門から送り出されて然るべきである。
しかし於松は最低限の着物を一揃い与えられただけで、ひっそりと裏口から送り出された。
見送ったのは、母一人だった。
それでも於松は、屋敷を出た時、初めて自由な空気を吸った気がした。
母を残して行くことだけが、唯一の心残りだった。
しかし図書助はそのとき既に、正室との間に三男二女をもうけており、さらに敷地内にある離れに妾をひとり囲い庶子までいた。
この上、妾子ですらない子供を認知するのは、正室の顔を潰すことであり、許されない事態だった。
そこで図書助は、おせつを女中の身分のまま、屋敷の北側、ちょうど母屋から死角になるところにある小屋を与え、母子を住まわせた。
おせつの活動範囲は、母屋の建物の中から、当主家族の目に触れない裏方へと追いやられた。
彼女は幼い於松を背中に背負い、水汲みや薪割り、井戸端での洗濯などの重労働を担った。
於松は、物心ついたときから、自分が「見られてはならない存在」だと悟っていた。
屋敷の表を歩くことは許されず、家族の目に触れる場所へ出ることも禁じられた。
母娘はまるで屋敷の影のように、一日中日の当たらない小屋で暮らしていた。
於松が十歳になった年の春、図書助の毒牙にかかった。
老いてシミの浮いた手が全身を這い、酒臭い息が首筋にかかる。
恐怖と嫌悪で体が震えたが、母のために耐え忍んだ。
母はすべてを知った時、土間の隅で声を殺して泣き崩れた。
しかし、屋敷を出ても、母娘ともに行くあてはない。
それは於松にもわかっていた。
遊郭に売られるよりはマシだと自分に言い聞かせ、母の前では気丈にふるまった。
「このことを外に漏らせば、お前の母親ともども斬り捨てる」
図書助が於松の耳に囁いた言葉は、彼の死後も重くのしかかった。
屋敷の者たちは、気づいていても、誰も何も言わなかった。
年に何回か、図書助の正室と顔を合わせることがあった。
彼女は何も言わない。
嫌味ひとつ言わず、声を荒げることもない。
ただ、汚物を見るような眼差しを一瞬だけ投げて、すぐに視線を外す。
その目が、於松の胸に焼きついて離れなかった。
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本来、四方田家の養女なら、立派な嫁入り道具を誂え、華やかな花嫁行列を組んで、表門から送り出されて然るべきである。
しかし於松は最低限の着物を一揃い与えられただけで、ひっそりと裏口から送り出された。
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それでも於松は、屋敷を出た時、初めて自由な空気を吸った気がした。
母を残して行くことだけが、唯一の心残りだった。
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