バズる間取り

福澤ゆき

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29.残留思念・2

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それから一年が過ぎた頃、あの悪魔のような男が、伊織を踏みにじった時は頭の中が真っ白になった。

あの日、いつまでもボイスレッスンに現れない伊織に胸騒ぎを覚えた。当時彼は、危険なほど四ノ宮に傾倒していた。衛士は度々忠告していたが、伊織は聞き入れなかった。
あの時、衛士は本当の意味で伊織のことが見えていなかった。
彼がどうして四ノ宮のような男に傾倒しているのか。その理由にもっと早く気づけていたら、あんなことにはならなかったのかもしれない。

四ノ宮は、小児性愛者という噂があり、そのほかにも悪い噂には枚挙に暇がなかった。

最悪の事態を想定し、母の愛人から組織の人間を急ぎで二人程派遣してもらい、四ノ宮のマンションに半ば襲撃のように押し入り、絶望した。

ベッドに寝かされていた伊織は頬に無数に涙の痕があり、体もシーツも血と体液で汚れていた。クスリの影響か、不明瞭な言葉を口走っていて朦朧としているようだった。
何があったのか一目で分かった。

モニターにはその最悪な時間の一部始終が収められていた。

四ノ宮は、母の愛人から借りて来た組織の人間により、半殺しにされた。

衛士は息も絶え絶えになった彼を足で踏みつけ、誓約書を書かせ、キー局を辞め、地方、もしくは国外に行き、二度と伊織に近づかないことを約束させた。

『お前ならxx組の後藤って知ってるだろ? 週刊誌にも書かれてるけど、あの人、俺のパパみたいなもんなんだ。次伊織に近づいたら、殺してもらうから』

胸倉を掴んでそう言うと、さすがに四ノ宮は青ざめたが、それでも気味の悪い笑みを浮かべて言った。

『……君自身とxx組との繋がりが表ざたになったらやばいんじゃないのか?』
『その時は、芸能界をやめる。元々、未練ないし。なんなら今この場でお前を殺して逮捕されてもいい。今ならネンショーぶち込まれるだけで数年で釈放だしな』

背後に立つ組員からナイフを借りて、思い切り振りかざし、寸前のところで首皮だけ切り裂くと、四ノ宮は半狂乱になって怯えながら首を横に振り、二度と伊織に近づかない事を誓った。
それからボロボロの伊織を自分の部屋に運び込み、体中についた血と体液、痕跡を泣きながら全て拭い去った。

この最悪な状況下で唯一、良かったことは、伊織はクスリのせいか精神的ショックからか、記憶が混濁していたことだ。
この記憶を鮮明に取り戻したら、伊織はきっと二度と笑えなくなる。それどころか、命を絶ってしまうかもしれない。

本人がその事実を知りさえしなければ、〝無かったこと〟に出来る。
この事実を知っているのは、四ノ宮と、自分だけだ。
もし四ノ宮が今後伊織に近づき、この事実を伝えるようなことがあったら、その時は今度こそ、自分の人生に代えてもあの男を消すしかない。

衛士は伊織に「何も無かった」と伝え、伊織もそれを信じてくれたが、彼はそれから長いこと塞ぎこんでいた。
カメラを向けられれば笑っていたが、楽屋に戻ってくると、どこかいつもぼんやりとしていた。

──みんな言うんだ。〝あの頃は可愛かった〟って。ファンレターの内容全部それだよ。昔の俺の話ばっかり。

伊織は成長していく自分と、世間が自分に対して求める〝商品価値〟のギャップに、ずっと苦悩していた。
乱暴された記憶がなくても、四ノ宮が自分を乱暴しようとしていたところまでは記憶がある。唯一自分を認めてくれていると思っていたのに、裏切られたのだ。そのショックは計り知れない。

伊織は今が一番いい。素のままが一番いい。無理に自分を商品化しなくていい。
それを面と面向かって伝えるのは照れくさかったというのもあるが、自分より、彼が大切にしているファンから言われた方が彼にとって嬉しいだろうと思った。

衛士は伊織が自分を本当の意味で〝見て〟くれていることが嬉しかったし、同じことを、彼にも返したかった。
だからわざと、全くの別人のように堅くかしこまった文章で、伊織に手紙を書き、差出人名を「A」とした。
アルファベットにすると匿名めいているが、自分のあだ名でもあった。

伊織はAからのファンレターを読み、涙ながらに久しぶりの笑顔を見せてくれた。衛士はそれからも、定期的に伊織にファンレターを送っていた。

Lamentの活動は続いたが、衛士はどうしても不安が消えなかった。
あの動画は全て機材ごと破壊し、プロに頼んで間違いなく消えていることを確認してもらったが、密かにバックアップを取っているという可能性も否定はできない。

四ノ宮がいつかまた、伊織の元に現れ、真実を告げるかもしれない。
そしてもう一つ、厄介なことがあった。

伊織を助け出すとき、母の愛人の手を借りた。四ノ宮の居場所の特定も、マンションへの侵入も、動画データの完全消去も、組員たちが全てやってくれた。

『衛士。お前の頼み聞いてやったんだ。こっちの仕事も手伝え』

母の愛人である後藤にそう言われていた。

『……断るって言ったら?』
『お前の大事な大事な相方、今度はうちの組員にヤられちまうかもな』

彼らは冷酷だ。やると決めたらやる。だから、後藤に手を貸すしかなかった。

──衛士は真面目だから、そんなことしない。俺は分かるよ

伊織は週刊誌が出る度にそう言って、衛士の身の潔白を信じてくれていたが、その信頼を裏切る形になった。

後藤の元で手を汚しながら、一体どうしてこうなってしまったのか。どうしていればよかったのか、長いこと思い悩んだ。

そして衛士は18の時に、芸能界を辞める決意を固めた。言い逃れ出来ないネタを週刊誌に掴まれる前に引退しないと、伊織まで巻き込むことになる。
まだ、自分と組織の繋がりのことだけならいいが、四ノ宮の事件のことまで嗅ぎつけたら厄介だ。

『この仕事嫌いだし、面倒になって』

そんな理由の突然の強引な脱退に、当然伊織は激怒し、絶交状態となった。

それから数年、衛士は後藤の仕事を手伝いながら、ダークウェブを巡回し、違法動画サイトに、伊織の動画が挙げられていないかチェックしていた。
あの悪魔はいつまでも伊織に執着し、中傷コメントをSNS上で発信し続けている。いずれまた、我慢が出来なくなり、伊織に近づいてくるだろうと踏んでいた。

そして二年前、衛士は四ノ宮が東京のネットTVの局に移籍したことを知ると、衛士はその動向を探り続けた。
半年前から、彼は明らかにおかしな行動を取っていた。ネットTV局を休職し、それまで住んでいたマンションの部屋も引き払い、郊外の廃墟に棲みついていたのだ。

その廃墟は、伊織が子役時代によく使用していた劇場で、明らかに何か企んでいるとしか思えなかった。
衛士は、四ノ宮の動向を探りに、その劇場の廃墟を訪れた。
その後のことは、全て記憶が不明瞭だ。
もみ合いになり、階段から突き落とされたことは覚えている。その後自分が一体どうなったのか。
どこで眠っているのか。何も思い出せず、気づくとこのスタジオにいた。

まるで泥の中をさまようような半年間だった。
伊織を助けなければと思うのに、彼の元へ向かおうとすると、徐々に思考がぼやけていって、気づくとこのスタジオに連れ戻される。

段々と、自分自身のことも忘れてしまいそうになっていた。
少なくとももう、自分の顔はよく思い出せない。一体いつまで、自我を保っていられるのだろうか。

先ほどは、久しぶりに言葉を話すことが出来た。あの狗飼という少年が、はっきり自分の姿を捉えてくれたからだろう。

だが、彼がその場からいなくなると、少しずつまた、意識が遠くなっていった。

(伊織は……伊織だけは……)

ぼやけた思考の中で、今でも強烈な残像として焼き付いているのは伊織のことだけだった。
このスタジオで、何度も彼と一緒に撮影した。
その時の伊織の、輝くような眩しい笑顔だけが、屍となった今の自分を動かしている唯一の感情だった。
溶けていく思考の中、ただ、彼を救うことしか考えられない。

生前、どうしても後悔していることは、生きているうちに四ノ宮を殺しておかなかったことだ。
幽霊になったら、どれだけ憎く思っても、もう殺すことは出来ない。

誰かの、生者の体を乗っ取ることが出来ないかも考え、見回りにきた警備員を襲った。
どれだけがむしゃらに彼らの魂の中に入り込んでも、乗っ取ることが出来るのは僅かな時間だけだった。

だが、ようやく今、一つ大きなチャンスが回ってきた。

狗飼は今、伊織の元へ向かっている。
四ノ宮の元に向かうときは護身用にナイフなどの凶器を持って行くことを強く勧めた。彼は、途中で工具店に立ち寄り、バタフライナイフを買っていくと言っていた。

凶器を持った狗飼が、四ノ宮の元へと向かっている。彼は伊織を助ける気はあっても、四ノ宮を殺そうとまでは思っていないだろう。
生前の自分も、そうだった。

だが、あの悪魔はもう、どうしようもないのだ。法律では裁けない。何年檻の中に閉じ込めても、暴行して脅しても、いずれ再び伊織のもとへ現れるだろう。
だから、殺すしかない。
例え、僅かな時間でも、狗飼の体を乗っ取ることが出来れば、今度こそ躊躇わずに、あの男を殺すだろう。

(イオリ……イオリ……タスケル……カラ……コンドコソ、ゼッタイ)

その笑顔を守るためなら、自分もまた、悪魔にも怪物にもなれる気がしていた。

──衛士はそんなこと出来ない。俺には分かるよ

どろどろに醜く溶けた思考の中、優しい伊織の声が妙に鮮明に響いた。
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