クリスマスに咲くバラ

篠原怜

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「ああ、悪い。気がつかなくて」

 彼の声のトーンがぐっと下がった。風邪でもひいたら大変だと、電話の向こうでおろおろし始めたかもしれない。

「東京駅には五時ごろか?」

 いいの、たいしたことないわ……と言おうとしたとき、すかさず質問が飛んでくる。

「うん」
「迎えに行けなくて悪いな」
「いいわよ、だって仕事でしょ?」
「まあな。でも、代わりに誰かを迎えに行かせるよ」

「大丈夫よ。タクシーで帰れるから」
「そんなわけには行かないさ。寒いし、お前のことだ。荷物だってたくさんあるんだろ?」
「え? うん、まあ……」

「ほらな。いいから黙って俺に甘えとけ」

 この言い方は少し俺さまっぽい。でも素直に甘えるべきだということを、長く付き合ううちに心得るようになった。

「貴大……。ありがとう」
「仕事が終わったら、なるべく早くマンションに行くからな。亜美」
「なに?」
「愛してるよ」

 貴大の少し日焼けした顔が思い浮かぶ。背が高くてスポーツが得意で、高校時代の彼は剣道に明け暮れていた。しかし大学に入ってからは、テニスやサーフィンといった屋外のスポーツもするようになった。

 少し独占欲が強いが、見た目は典型的な王子様キャラ。
 二歳年下だが、頭の回転が速くてとても頼りになる男性だ。

 亜美は電話をいっそう強く耳に押し当てた。すぐそばに彼を感じたかった。

「うん。あたしも……。愛してる」

 最後にそう告げて電話を切った。

 自分の席に戻り、シートに深く座り込む。
 ほとんど化粧をしていない顔にサングラスをかけ、頭にはビーニーを深めにかぶっている。別に変装するつもりはないが、のどの乾燥を防ぐためマスクをした。
 それからシートをわずかにリクライニングさせ、ファーのついたコートを胸の上まで引っ張り上げた。これであと少し眠れるだろう。
 
 高校時代にオーディションに受かったことがきっかけで、亜美はティーン向けのファッション雑誌の専属モデルとなった。仕事は徐々に増えていき、三十歳の今日まで、ファッション雑誌のモデルとして第一線で活躍してきた。

 だが早くから、この仕事は二十五歳までだと周囲にもらしていた。
 女たちがエステや高級化粧品に大金を払い、アンチエイジングとか美魔女という言葉を耳にする時代だが、本物の若さにはかなわないと亜美は思っている。

 雑誌の仕事も、現在は三十代女性をターゲットにしたものに変わり、イメージキャラクターに起用されていた化粧品のCMも、今年の春から後輩モデルにバトンタッチした。

 周囲に引き止められるまま、仕事を続けてきたがもう潮時なのだ。昨日が最後の撮影となったが、自分で決めたことだ。寂しくはあるが、悔いはない。

 しばらくは身辺を整理しながら今後のことを考え、いつか今までの経験を生かしたダイエットやエクササイズの本でも執筆できたらと思っている。

 お前に本が書けるのかと貴大は笑ったが、亜美は本気だった。
 ただし残念ながら、目下のところ執筆依頼は来ていない。
 先輩モデルの何人かは、結婚や出産を機にそれまでのライフスタイルを本にまとめ出版するケースが多かった。だとしたら亜美も貴大と結婚したら、本の仕事が来るのだろうか。

 結婚。

 その言葉を聞くたび、かすかな拒否反応のようなものを感じていた。貴大には申し訳ないが、本当なのだ。
 彼を愛しているし、必要としている。けれど結婚はまた別の次元だ。
 今年のバレンタインデーの日に婚約を交わしたのは、結婚を急ぐ貴大を安心させるため。結婚の日取りについては、永遠に未定のままだと亜美は思っている。







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