女好き令息のままならない日常

ジカハツデン

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第1章

初めての朝

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 サーシャ・アシュフィールドは、その朝いつもより少しだけ早く目を覚ました。

「ついに今日からなんだ……」

 小さく呟いて、ベッドの上で上半身を起こす。

 16年。
 生まれてから今日まで、サーシャは家の外の世界というものを、ほとんど知らずに生きてきた。

 家庭教師と、医師と、専属侍従のエリオット。
 会話の相手は、いつも決まっていた。
 外の世界は絵本や伝記に出てくる空想のものしか知らない。

 だからこそ、今日から始まる新生活に向けて期待もあれど、不安も大きく膨らんでいた。

「友達、できるかな……」

 その言葉は、祈りに近かった。

 エヴィエニス王立学院。
 王国の貴族令息令嬢が通う、当たり前の場所。
 本来なら、サーシャもずっとそこにいるはずだった場所。

 体が弱く、魔力の循環が安定しない特殊体質。
 サーシャの意思に反して度々言うことを聞かなくなるこの体では、貴族の義務でもある学院への通学は叶わなかった。

 それでも、王位継承権第1位である王子殿下から婚約解消を突きつけられて約1年で状況は変わった。
 突如の婚約解消を世間がどう受け取ったかなど、サーシャには関係のない話だった。

 ただ、自分の新たな人生を歩み始めるために必死で努力しただけだ。

 魔力操作の訓練。
 脆い体を、魔力で内側から支える技術。

 やっと、一人で通学できるくらいにはなったはずだ。

「文化祭もあるって聞いたし……」

 サーシャが寂しくないようにと、父が頻繁に寄越してくるぬいぐるみを撫でながら未来を思い描く。

 兄を招待して一緒に回る文化祭。
 それから、できれば友達もたくさんできて。
 あわよくば――。

「可愛い女の子と、お付き合いとか……」

 ぽそっと呟いてみて、頬が熱くなる。
 何度も読み返しては心踊らせた英雄譚のように、姫を守る英雄になれるだろうか。
 母親以外の女性とは話したことすらほとんどないが、先程抱いた不安の代わりに小さな期待が沸き立つ。

 まだ見ぬ将来のパートナーを想像して、じわじわと上気する頬を両手で抑えベットの中で小さく足をばたつかせていた時、部屋の扉をノックする音が響いた。

「サーシャ様、お支度の手伝いに参りました」
「あ、エリー!ちょっとまってて!」

 サーシャが目を覚ますやいなやすぐに部屋を訪れて丁寧に身支度を手伝うのは、長年サーシャの専属侍従をしているエリオットだ。
 侍従としての仕事もそれ以外も完璧以上にこなすエリオットの事を完璧超人と称すサーシャだが、今日ばかりはもう少しゆっくり来てくれても良かったのに、とベッドから急いで飛び降りた。

「まだ入ってきちゃダメだからね!」
「ええ、サーシャ様の仰せの通りに」

 今日は反対され続けてきた学院への通学を始めるその日なのだ。
 心配性なエリオットを安心させる為にあの手この手を使ってきたが、結局今日までエリオットを安心させることができなかった。
 サーシャだって1度決めたことを覆すつもりは無いから今更やっぱり学院には通いません、とは行かないのだが、せめて長年付き添ってくれているエリオットだけは安心させたくてとある作戦を考えていた。

 その名も、「エリオットに手伝ってもらわなくてもお着替えくらい出来ます作戦」だ。
 この作戦の為にこっそり準備していた学院の制服をサイドチェストから急いで取り出す。

 別に取り立てて複雑な作りの制服ではない。ワンピース型の簡素な作りの寝間着を脱いで、ブラウスとハーフパンツとベストを着るだけ。たったそれだけの事だ。

「出来た……!エリー、入ってきて大丈夫だよ!」

 シワひとつない制服、は昨晩エリオットが畳んでくれていたおかげなのだが、ひとまずボタンもかけ違えずブラウスの裾が一部飛び出しているなんてことも無い、我ながら完璧な着こなしだった。

「では、失礼します。サーシャ様」

 毎朝エリオットがサーシャの部屋を訪れるのはかれこれ10年近く続いている習慣だが、未だに丁寧に腰をおりながら入室するエリオットは、さすが完璧超人だ。

 しかし、昨日までと違うのはサーシャが既に身支度を済ませているという点。寝間着姿のままベッドに腰かけて足をぷらぷらさせているサーシャではない。
 入室後頭を上げたエリオットはサーシャの姿を目にした途端、普段はぴくりともしない眉根を少し上げてサーシャを食い入るように見つめ出した。

「エリー見て!僕もう一人でお着替えできるからね!これで寮生活も心配なしだよ!」

 扉の前で固まっているエリオットに向かって両手を広げて己の姿を見せつける。

「……これは、……頑張りましたね」
「うん!そ、そうでしょ……!」

 サーシャの父と兄が口を揃えて仏頂面だの能面顔だの表現するエリオットだが、誰よりも近くで生活しているサーシャにだけは表情の機微が分かる。
 これは、このエリオットの顔は明らかに「困惑」だ。

「え……ちゃんとお着替えできてないかな……?」
「い、いえとんでもございません。サーシャ様がご自身でご支度なされるとは思ってもおらず。このエリオット、感涙に咽び泣いている所でございました」

 本人はそう言っているが、エリオットの紫紺色の瞳は全く潤んでいるようには見えないし、咽び泣くと言う割にはチャームポイントでもあるモノクルは1ミリも傾いてすらいないように見える。

「泣いてたの……?」
「はい。本当にご立派なことでございます。ただ、いくつか進言させていただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろん!変なところがあったら教えて!」
「では僭越ながら」

 そう言いながらエリオットはどこからともなくネクタイを1本取り出した。

「襟元を開けていらっしゃるのは大変勇ましくサーシャ様にお似合いなのですが、最初は無難にネクタイを締めておきましょう」
「あぇ、どうしよう、僕ネクタイ自分で結べないんだけど」

 思わぬ所を指摘されて思わず間抜けな声が漏れる。
 ネクタイを自分で締められないというのもあるが、正直に白状すると、第1ボタンを開けて制服を粗野に着こなす行為に少し憧れた部分があるのだ。それもあって、そこを指摘されると余計に小っ恥ずかしい気がしてしまう。

「ではこちらのリボンを着けてはいかがですか?サーシャ様に良くお似合いになるかと」
「リボンは……あまりかっこよくないよね……?襟元開けてるのは似合わない?」

 サーシャが憧れているのは分かりやすく、男らしさそのものだ。
 エリオットもすらりと伸びた長い手足に涼しげな目元、几帳面に着込んだ執事服の上からでも分かる鍛え上げられた肉体と、男らしさもしくは力強さという言葉が良く似合う男だった。
 そんな男が常にそばにいる生活で、憧れるなと言うのは無理がある。
 そもそもサーシャの愛読書は王国内でも大人気を誇る英雄譚なのだ。その影響もあってか、男など勇ましくあればある程良いと思っている。

 念の為、相当似合っていない可能性を考慮して、確認の為に襟元を両手で少し開きながらエリオットに見せつけた。

「……とても似合っておいでです。ですが、サーシャ様のお首元を晒されるのは、いささか問題が発生いたします」
「問題が起きちゃうの?じゃあ閉じとかなきゃだね」
「はい。それがよろしいかと」

 初日に早々に問題を起こすのは本意ではない。エリオットが言う通り、何かしらの問題があるのだろう。やはり英雄譚の主人公が制服の襟元を開けて着こなしていたのはあくまで物語の中だからであって、実際のエヴィエニス王立学院では禁止されている行為なのかもしれない。

 首元にエリオットの視線が突き刺さってる気配がしないでもないが、ちゃんとボタンを留めるのを見張っているのだろうかと思いつつ、いそいそと襟元を閉じることにした。
 ボタンを留め終えた瞬間、即座にエリオットから制服用のリボンが差し出され、そのまま襟元に巻き付けた。

「どう?似合ってる?かっこいい?」
「はい、とても。サーシャ様に良く似合うのはやはりリボンですね」
「んふふ、ありがとう。他は大丈夫?完璧?」

 サーシャの首元を凝視しながら何やら思案顔だったエリオットの眉根がほんの少しだけ柔らかくなったような気がした。
 これはいつもの事だが、サーシャだけがエリオットの感情の機微に気づくのが特技だった。

 特技だから、もう一段階エリオットの表情が変わったのが分かった。
 おそらく、リボン以外に何か気になるところがあったのだろう。

「完璧じゃない……?」

 サーシャの頭よりも上にあるエリオットの瞳を、機嫌を伺うように覗き込んだ。

「……サーシャ様は完璧なのですが……その、御御足を出されるパンツでは無い方がよろしいかと、愚考いたします」

 エリオットの視線が自分の足元に向いているのに気づき、サーシャは自分の姿を改めて見下ろした。

 膝が少し覗く丈のハーフパンツ。
 動きやすくて、見た目もちょっとだけ大人っぽいと思って選んだものだ。

「……そっか」

 素直に頷いて、サーシャは小さく笑う。

「エリーがそう言うなら、足が出てないやつにするよ。体、冷やさない方がいいんもんね」

 反論はしなかった。
 学院生活は今日が初日だ。ここで意地を張る理由はどこにもない。

 サーシャは素早くチェストを開け、折り畳まれた制服用のトラウザーズを取り出した。
 先ほどよりも少しだけ手間取りながらも、エリオットの助けを借りずに履き替える。

「……どう?」

 くるり、と一回転して見せる。
 先ほどよりも足元が隠れた分、少しだけ落ち着いた印象になった自分を、サーシャ自身も悪くないと思った。

「えへへ。これなら問題ない?」
「はい。良くお似合いです

 エリオットは静かに頷いた。
 それ以上、着こなしについての指摘はなかった。
 それでこの話題は終わりだろうと、サーシャは安心して息をつく。

「じゃあ、朝ごはん行こ!今日は何かな」

 気持ちを切り替えるように明るく言って、扉の方へ一歩踏み出しかけた、その時だった。

「……サーシャ様」

 低く、いつもよりも慎重な声が背後から掛けられる。
 サーシャは足を止め、振り返った。

「なに?エリー」

 エリオットは、少しだけ視線を伏せていた。
 言葉を選んでいる時にエリオットが浮かべる表情だった。

「……やはり」

 おそらくサーシャ以外は気づかない。
 だがサーシャには分かる。あまり言いたくないことを、言わざるを得ない状況だとエリオットが心を痛めていることに。

「学院に通うこと、今一度お考え直しいただくことは出来ませんでしょうか」

 その言葉は、あまりにも静かだった。
 責めるでもなく、命じるでもなく。
 ただ、深い憂慮だけを含んだ声。

 サーシャは、瞬きを一つする。

(……やっぱり、言われちゃった)

 予想していなかったわけではない。
 むしろ、言われない方がおかしいと思っていた。

 それでも、胸の奥がきゅっと小さく縮こまる。

 サーシャは唇を引き結び、再びエリオットを見上げた。
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