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序章
噂の無能令息
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オーガスティヒ王国の社交界は、噂話を糧に呼吸している。
とりわけ甘美で、人々の舌を飽きさせない話題があるとすれば、それは決まって「転落」だ。
高い地位にある者が転落する様は、どんな舞踏会よりも人の心を躍らせた。
その年の春、社交界を賑わせたのはひとつの婚約解消だった。
第1王子オルトレイル・オーガスティヒと、アシュフィールド公爵家次男サーシャ・アシュフィールド。
2人がまだ幼い頃に結ばれ長年にわたり揺るがぬものとして認識されていた婚約が、理由は伏せられたまま中等部卒業と同時に解消されたのである。
王宮から発表されたのは「双方合意のもと、詳細は非公開とする」という、あまりにも簡素な文言だけだった。
だが、沈黙ほど雄弁なものはない。
「何れこうなるとは思っておりましたわ」
「ええ、やはり無理があったのよ」
「王子殿下も、さすがにお見限りになったのでしょうね」
貴族同士で開かれた夜会、学院の談話室、貴族街の喫茶店。
あらゆる場所で、サーシャ・アシュフィールドの名前が囁かれた。
アシュフィールド家といえば、王国三大貴族の一角。
代々、騎士団長や宰相を輩出し、平民にすら名を知られた名門中の名門だ。
だからこそ、その「次男」の存在は、余計に目立った。
15歳。
社交界に一度も姿を見せず、舞踏会にも、夜会にも出席しない。
王立学院にも通わず、在籍だけを残したまま中等部を終えたという、あまりにも奇妙な経歴。
理由は公表されていない。
だが人々は、理由など必要としなかった。
「病弱? いいえ、ただの無能でしょう」
「兄君があれほど優秀なんですもの。恥ずかしくて表舞台には出られないのですわ」
現騎士団長、サミュエル・アシュフィールド。
その名は、王国において知らぬ者はいない。
勇猛で、冷静で、王国の剣と称される存在。
そんな兄を持ちながら、弟は表舞台にすら立たない。
社交界は、サーシャを見たことがない。
だが、見たことがないからこそ、好き勝手に語ることができてしまった。
「王子殿下が婚約を解消なさったのは英断だな」
「ええ、あのままでは王家の沽券に関わりますもの」
詳細が伏せられていることは、むしろ都合が良かった。
理由がないなら、想像で補えばいい。
そしてその想像は、決まって同じ結論に行き着く。
――落ちこぼれの公爵家令息に、王子が愛想を尽かした。
エヴィエニス王立学院でも、その認識は変わらない。
実力至上主義を掲げる学院において「在籍しているだけで姿を見せない生徒」は、最下層に等しかった。
「アシュフィールド家の次男? ああ、噂の」
「結局、一度も通学しなかったらしいな」
「無能のくせに殿下の婚約者だったなんて笑えない」
実技演習で剣を振るう生徒たちは口々にそう言った。
魔法演習の場でも談笑の輪でも、サーシャという名前は揶揄と嘲りの文脈でのみ使われた。
誰ひとりとして、その事に疑問を抱かなかった。
なぜ王国随一の名門がその存在を表に出さないのか。
なぜ、兄である騎士団長が、弟について一切を語らないのか。
なぜ、婚約解消の場に、サーシャ本人が現れなかったのか。
答えは知らされていない。
だが、人々は「知ったつもり」になることに慣れていた。
その日もまた、誰かが言った。
「高等部に上がる頃には、完全に忘れ去られるだろうな」
「ええ。家の威光を借りるだけの貴族なんて、今どき物語にすらなりませんもの」
そうして、サーシャ・アシュフィールドは姿を見せぬまま、評価だけを決めつけられていった。
誰も知らない。
彼がどんな少年であるのか。
なぜ沈黙の中に置かれているのか。
そして誰も想像していない。
この「無能令息」が、やがて王立学院の門をくぐることになるなどとは。
とりわけ甘美で、人々の舌を飽きさせない話題があるとすれば、それは決まって「転落」だ。
高い地位にある者が転落する様は、どんな舞踏会よりも人の心を躍らせた。
その年の春、社交界を賑わせたのはひとつの婚約解消だった。
第1王子オルトレイル・オーガスティヒと、アシュフィールド公爵家次男サーシャ・アシュフィールド。
2人がまだ幼い頃に結ばれ長年にわたり揺るがぬものとして認識されていた婚約が、理由は伏せられたまま中等部卒業と同時に解消されたのである。
王宮から発表されたのは「双方合意のもと、詳細は非公開とする」という、あまりにも簡素な文言だけだった。
だが、沈黙ほど雄弁なものはない。
「何れこうなるとは思っておりましたわ」
「ええ、やはり無理があったのよ」
「王子殿下も、さすがにお見限りになったのでしょうね」
貴族同士で開かれた夜会、学院の談話室、貴族街の喫茶店。
あらゆる場所で、サーシャ・アシュフィールドの名前が囁かれた。
アシュフィールド家といえば、王国三大貴族の一角。
代々、騎士団長や宰相を輩出し、平民にすら名を知られた名門中の名門だ。
だからこそ、その「次男」の存在は、余計に目立った。
15歳。
社交界に一度も姿を見せず、舞踏会にも、夜会にも出席しない。
王立学院にも通わず、在籍だけを残したまま中等部を終えたという、あまりにも奇妙な経歴。
理由は公表されていない。
だが人々は、理由など必要としなかった。
「病弱? いいえ、ただの無能でしょう」
「兄君があれほど優秀なんですもの。恥ずかしくて表舞台には出られないのですわ」
現騎士団長、サミュエル・アシュフィールド。
その名は、王国において知らぬ者はいない。
勇猛で、冷静で、王国の剣と称される存在。
そんな兄を持ちながら、弟は表舞台にすら立たない。
社交界は、サーシャを見たことがない。
だが、見たことがないからこそ、好き勝手に語ることができてしまった。
「王子殿下が婚約を解消なさったのは英断だな」
「ええ、あのままでは王家の沽券に関わりますもの」
詳細が伏せられていることは、むしろ都合が良かった。
理由がないなら、想像で補えばいい。
そしてその想像は、決まって同じ結論に行き着く。
――落ちこぼれの公爵家令息に、王子が愛想を尽かした。
エヴィエニス王立学院でも、その認識は変わらない。
実力至上主義を掲げる学院において「在籍しているだけで姿を見せない生徒」は、最下層に等しかった。
「アシュフィールド家の次男? ああ、噂の」
「結局、一度も通学しなかったらしいな」
「無能のくせに殿下の婚約者だったなんて笑えない」
実技演習で剣を振るう生徒たちは口々にそう言った。
魔法演習の場でも談笑の輪でも、サーシャという名前は揶揄と嘲りの文脈でのみ使われた。
誰ひとりとして、その事に疑問を抱かなかった。
なぜ王国随一の名門がその存在を表に出さないのか。
なぜ、兄である騎士団長が、弟について一切を語らないのか。
なぜ、婚約解消の場に、サーシャ本人が現れなかったのか。
答えは知らされていない。
だが、人々は「知ったつもり」になることに慣れていた。
その日もまた、誰かが言った。
「高等部に上がる頃には、完全に忘れ去られるだろうな」
「ええ。家の威光を借りるだけの貴族なんて、今どき物語にすらなりませんもの」
そうして、サーシャ・アシュフィールドは姿を見せぬまま、評価だけを決めつけられていった。
誰も知らない。
彼がどんな少年であるのか。
なぜ沈黙の中に置かれているのか。
そして誰も想像していない。
この「無能令息」が、やがて王立学院の門をくぐることになるなどとは。
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