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坊ちゃん、推理する

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 菱屋ひしやの事件に遭遇した明くる日。

 予定していた客先を全て回り終え、尾白屋に帰ってきたのは、まだ日暮れには早い時間だった。
 首から下げた懐中時計は、三時四十二分。
 いつものように、昔の木戸跡から路地を抜け、裏口へ回ろうとした時、表通りを伊勢屋の女将さんに連れられて行く豆千代の姿が見えた。

「坊ちゃん、豆千代さんが来ていたんですかい」

 作業部屋から店の帳場に座っていた坊ちゃんに声を掛けた。

「ああ、お帰り。昨日の礼だってさ。結局僕らは何もしていないのにね」

 長暖簾を開けて見下ろすと、帳場机の上には文英堂の袋があった。

「餡パンか」
「あとで一緒に食べよう。お絹に熱い茶を入れるように頼んでくれ」
「しかし、猫探しはどうなるんでしょうかね」

 よその家の猫のことなど、俺にはどうでもよいことだった。坊ちゃんが危ないことに首を突っ込みさえしなければそれでいい。
 あまつさえ、あの時の『虫のしらせ』は当たってしまった。
 よもや坊ちゃんは俺よりも正確に、『虫の報せ』を受け取っていて、事件が起こることを予見していたのではないか――と、いやな勘繰りすらしてしまっている。

「多分、もう猫は探さなくていいよ」
「どういう意味ですかい」

 さっぱり坊ちゃんの考えていることが読めないが、しかしあの性格上、それ以上わかりやすく説明してくれるとは思えない。
 期待できない返事を待つより先に、背負子しょいこに載せていた本を作業部屋に並べ、貸出台帳の記帳と照らし合わせていた。
 坊ちゃんの言った意味が分かったのは、それからしばらくして店じまいをしている時だった。

 菱屋から遣いの手代が来て、猫が見つかったと報せて来たのだ。それも礼金を払うと言って主人から言付かってきた金の入った袱紗ふくさを置いて行こうとするものだから、坊ちゃんがそれを辞する手紙を書き、その手紙を無理やり持たせて帰したのだった。

「坊ちゃんは猫が見つかることまで見えていたのですかい」

 店の戸を閉めた後、坊ちゃんに問うた。

「まさか」と、坊ちゃんが一笑に付す。

「でも、猫は探さなくていいと言ったじゃないですか」

 俺は常々、坊ちゃんの眼は千里眼ではないかと疑っている。しかもサトリであるような気がしてならない。それを裏付けるように、呆れた声が聞こえてきた。

 坊ちゃんが「ふん」と鼻を鳴らした。

「言っておくが、そもそも僕の神通力なんぞ、そんな万能ではない。失くした人が執着を抱いている物限定だ。その人の執着と同じ色の『念』の欠片がありそうな場所を探っているだけだから。それに念が強くなけりゃあ、色だってわかりにくいからね。別にサトリでも千里眼の持ち主でもない。けれどそういう意味では、あの亭主からは強い念を感じなかった。猫を探したいという執着の念がね」
「さっぱりわからん」

 わかったのは、やはり坊ちゃんに心を読まれたということだけだ。

「つまり、菱屋さんはそれほど真剣に『茶々』を探していなかったということさ」
「細君(奥さん)の猫だからじゃないのか」
「いや、はじめから猫はどこにも行っていなかったということだ」
「そんなこと、俺たちが探し始めたら、すぐにばれるじゃねえか」

 たまたま殺人が起こったから猫探しが中止になったというだけで、人殺しが起きることなど菱屋さんにも予測不可能だ。

「例えば、丁稚でっちの誰かに隠させるとか、どこかの部屋や蔵にしばらく閉じ込めておくとか」

 坊ちゃんが言うことを真に受けるとすれば、隠してある猫を坊ちゃんに探させようとしていたことになるじゃねえか。

「そんなことをして何の意味が……」
「その内分かるよ」

 また、もったいぶって……。

「説明してくださいよ」

 いったいあの猫探しに何の意味があったと言うのか、俺にはさっぱり分からねえ。
 だがしかし、『その内分かる』ということは、まだこの先に何かが起こって、それが猫探しと関係していたということが明白になるという示唆に他ならない。

「いったい、坊ちゃんには何が見えているのですかい。もしかして、既にあの厠殺人の下手人も見当が付いているとかじゃあ、ないでしょうね」
「あの警部補じゃないけどね、憶測の段階では言葉にしない方が良いから言わない。余計な先入観を持つと、真実を見誤ってしまうからね」

 坊ちゃんはあの時の言葉を覚えていたようだ。

 ◇

 それから二日明けて、あの教訓を坊ちゃんに教えた本人が尾白屋に訪ねて来た。

「随分風情のある店だな」

 店頭の台に飾られた紅葉もみじの投げ入れに目を止めたのは、藤田警部補だった。
 顔を上げた藤田と坊ちゃんの間で視線がぶつかった。
 二人の間に火花が散ったように感じたのは、俺の錯覚ではないと思う。

「何の用? 本を借りてくれるのか。それとも失せ物探しかな」

 多分相手がどれほど位の高い役人であっても、坊ちゃんの尊大な態度は変わらないのだろうな。
 俺は帳場格子の後ろで、入荷した新刊の整理をしつつ二人のやり取りに聞き耳を立てる。

「そう突っかかるな。あの場はああ言うしかなかったのだ。やたら的を射た推理を披露することで、下手人を逃したくなかったからな。賊があの場の近くにいて、我々の会話を聞いていたかもしれぬだろう」
「……わかっていたけどね。やっぱり藤田さんも、近くに殺人者が潜んでいたと思っていたんだ」

 今日の藤田は坊ちゃんを子ども扱いしていないようだった。二人の目線は同じ位置にあった。

「お前のその聡さは危険だぞ。いくら賢くてもしょせんはガキだ。しかもその体だ」
「平気だ。僕には三四郎がいるから」

 嬉しいことを言ってくれるが、四六時中一緒にいるわけにはいかないだろが。藤田が危惧したよりもずっと、坊ちゃんの危うさを気にかけているのだぞ。

(さて、そろそろ物騒な会話を止めさせねば。)

 店先に出て二人の間に割って入った。

「で、今日は何の用ですかい」

 それなのに藤田の用件は、今の会話に輪をかけて物騒な内容だった。

「また殺しがあった。今度の殺しは、今世間を騒がせている辻斬りだ」
「また? 最近の新聞に載っていましたっけ」

 新聞や読売は新刊が出る度、購入してすぐに目を通している。

「いや、昨日の夜の話だからな。まだ新聞社はおろか、かわら版屋も嗅ぎつけていない」
「どこですか、殺しがあったのは。まさか赤坂界隈とか言うんじゃあ、ないでしょうね」
「今回は四谷だ。だが場所は関係ねえ。殺された人物が問題なんだ」

 俺の目の前に、すっと本が差し出された。

「これは御宅の貸本だな」

 本の背表紙裏には、尾白屋の印が押されていた。
 その本を見下ろし言う。

「尾白屋とはまあ、変わった屋号だな」

 うちの印は、黒丸の中に白抜きで猫の座ったお尻の姿を模してある。店先に掛けられた暖簾の柄とお揃いだ。意匠は坊ちゃんが考え、細かな部分はお絹さんの知り合いの版元お抱えの絵師に頼んだ。

「シロや、おいで」

 坊ちゃんが呼ぶと、背後の長暖簾の下から猫が顔を出した。二年前にお絹さんが拾って来た真っ白い猫もずいぶんと大きくなった。彼女は喉を鳴らしながらのっそりと近寄って、坊ちゃんの動かぬ方の太ももに、当たり前のように鎮座した。

 しかし、飼い猫というのは、何処の猫もこんな風に太っているのだろうか――と、喉を鳴らすシロを見て、菱屋の茶々と頭の中で比べてみた。

「この子がうちの名前の由来だよ。猫が白い……尾っぽも白い、面白い……でしょ」

 ケラケラと笑う坊ちゃんを、藤田が呆れた目で見ている。
 うん、わかるぞ。貴様の気持ちが……

「ふざけた名だ」

 そう。命名に関して、坊ちゃんの感覚は今一つだと思う。
 いや、今はそんなことを聞きたいんじゃねえ。

「で、これが何か」

 本を坊ちゃんの前の帳場机に置いた。

「死体が持っていたのか、賊が持っていたのかまではわからんが、斬られたむくろの横にこの本が落ちていた」

 さっそく坊ちゃんが貸出台帳を取り出しめくっていく。女子おなごのような桃色の爪先が一人の名前の上で止まった。

「この本は五日前、この人に貸し出している。期限は……明後日だね」

 俺を見上げる。俺は覗き込んで名前を確認した。
 そうだ、確かに貸し出した記憶がある。人気作家の連本(シリーズ)の新作だ。


 ――田町五丁目伊勢屋方、珠緒様


珠緒たまおさん。裏の伊勢屋さんの芸者だよ。この間の菱屋の座敷にもいた」

 猫探しに行った日、豆千代と共に殺された小林氏の座敷に呼ばれていた芸者衆の一人だ。

「では、珠緒から又借りをした人物が持っていたということだな」

 調べを終えたとばかりに背を伸ばした藤田に対し、坊ちゃんが追求する。

「で、殺されたのは誰なんだい」

 問いに答えてくれる気配はない。坊ちゃんがさらに笑みと誘いの言葉を付け加えた。

「事件解決の協力をしてさしあげますよ」
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