貸本屋の坊ちゃんには裏の顔がある。~魂の蟲編~

森野あとり

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逃げた蟲

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 ――なあ、はじめよ。てめえも偉くなったもんだなあ。

 俺同様……いや、俺以上に汚い仕事を請け負っていたくせに、どこでどううまく転んだら、そんな立派ななりになれるんだ。
 あやかりてえが、もうおせえな。俺ぁ、ここまで落ちぶれてしまった。

 すでに俺は誰なんだ。

 まるでわからねえよ。

 何のために生きているのかすら、もうわからねえ。

 とりあえずは、刀に血を吸わせねばなあ。


 ――だが手元にはもう、愛刀あいつはねえんだよ……


 ◆


 有馬から三井の話を聴いてから三日目。藤田が尾白屋を訪ねて来た。
 そろそろ店を閉めようかと思っていた時間だった。

「三井を斬ったのかい?」

 坊ちゃんが無邪気な顔で問うた。
 だが、そういう顔ではなさそうだ。

「いや……斬ってはいない。いないが、三井は捕まったよ」
「……どういうこと?」

 坊ちゃんの愛想笑いが引っ込む。俺も片付けの手を止め、店先の上り框に腰を下ろした。

「あっけなかったよ。俺の出る幕などなかった」

 藤田の説明によると、真夜中に四谷巡回の巡査らの手によって、三井はあっさりとお縄になったようである。
 それなのに、藤田の眉間の皺は深い。

「三井の隠れ家だと押さえた小屋からは石川の財布が出て来た。腰の刀には人を斬った筋がきっちり残っており、刃こぼれも認められた。だが……」

 言い淀んだ藤田を坊ちゃんが問い詰める。

「三井さんの様子はどうだったの」
「奴はすでに尋問に答えることができなくなっていた。しらを切っていると思われ、少々手荒い真似をされたようだ。だがそうではない。俺が面会したところ、俺の顔も憶えておらぬ」

 どういうことだ? たかが五年や六年で、一緒に戦った上役の顔を忘れるもんか。

「あんたのことを憶えていないってことは、つまり、記憶を失っていたということなのか」

 藤田がかぶりを振る。

「いや、記憶の問題ではない。もはや奴は廃人だった」

 机を拳で叩く音に、びっくりして振り返ると、坊ちゃんが目を吊り上げていた。

「それって、三井さんの中にいた大石の蟲が、すでに別人に乗り移ってしまったってことじゃないか! あんたが斬り殺すんじゃなかったのか!」

 こんな風に声を荒げる坊ちゃんを見たことはなかった。怒りのあまり腰を上げ立ち上がろうとしてよろけた坊ちゃんを見て、慌てて駆け寄る。

「俺の持ち場は麻布から赤坂だ。四谷は管轄外で、俺が介入する許可を取る前に事が済んでいたのだ」

 いや、それ以前に、有馬士官による告発でもあったのではなかろうか。
 だが、苦々しい口調で言い訳をした藤田を、坊ちゃんがさらになじった。

「ばっかじゃないの! 次の犠牲者が出るよ」

 無礼な言葉を浴びせられたのにもかかわらず、藤田はただ狼狽えたように反論した。

「次だと。三井捕縛が大石の目的だと言ったのはお前だ。奴はまんまと目的を達成したってだけだ。次など! 話が違う」
「例えば加納何某」

 近藤局長をおとしいれたという加納道之助のことだ。

「確かにそいつが鍬次郎の一番のかたきには違いない。彼奴が局長に傷を負わせ、新選組を窮地に追いやったと言っても過言ではないからな。だが加納なら、今は開拓使として箱館府にいると有馬から聞いたぞ。なんなら、大石が三井の体を借りて開拓使を志願した時には加納を狙っていたってことも考えられるが、奴は役に就かなかったのだ。つまり、加納に関しては諦めたんじゃねえのか」
「だとしても、大石の蟲は逃げおおせたんだ。誰かの中に入って……」

 坊ちゃんが悔しそうに親指の爪を噛んだ。

「だったら、再び北に行って、今度は加納を殺してくれりゃあいい。俺としては願ったりの好都合だ」

 本音なのか、ただの売り言葉なのか。どちらにせよ警官としてあるまじき発言をした藤田を、坊ちゃんが睨みつけた。


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