25 / 49
五
逃げた蟲
しおりを挟む
――なあ、一よ。てめえも偉くなったもんだなあ。
俺同様……いや、俺以上に汚い仕事を請け負っていたくせに、どこでどううまく転んだら、そんな立派ななりになれるんだ。
あやかりてえが、もうおせえな。俺ぁ、ここまで落ちぶれてしまった。
すでに俺は誰なんだ。
まるでわからねえよ。
何のために生きているのかすら、もうわからねえ。
とりあえずは、刀に血を吸わせねばなあ。
――だが手元にはもう、愛刀はねえんだよ……
◆
有馬から三井の話を聴いてから三日目。藤田が尾白屋を訪ねて来た。
そろそろ店を閉めようかと思っていた時間だった。
「三井を斬ったのかい?」
坊ちゃんが無邪気な顔で問うた。
だが、そういう顔ではなさそうだ。
「いや……斬ってはいない。いないが、三井は捕まったよ」
「……どういうこと?」
坊ちゃんの愛想笑いが引っ込む。俺も片付けの手を止め、店先の上り框に腰を下ろした。
「あっけなかったよ。俺の出る幕などなかった」
藤田の説明によると、真夜中に四谷巡回の巡査らの手によって、三井はあっさりとお縄になったようである。
それなのに、藤田の眉間の皺は深い。
「三井の隠れ家だと押さえた小屋からは石川の財布が出て来た。腰の刀には人を斬った筋がきっちり残っており、刃こぼれも認められた。だが……」
言い淀んだ藤田を坊ちゃんが問い詰める。
「三井さんの様子はどうだったの」
「奴はすでに尋問に答えることができなくなっていた。しらを切っていると思われ、少々手荒い真似をされたようだ。だがそうではない。俺が面会したところ、俺の顔も憶えておらぬ」
どういうことだ? たかが五年や六年で、一緒に戦った上役の顔を忘れるもんか。
「あんたのことを憶えていないってことは、つまり、記憶を失っていたということなのか」
藤田がかぶりを振る。
「いや、記憶の問題ではない。もはや奴は廃人だった」
机を拳で叩く音に、びっくりして振り返ると、坊ちゃんが目を吊り上げていた。
「それって、三井さんの中にいた大石の蟲が、すでに別人に乗り移ってしまったってことじゃないか! あんたが斬り殺すんじゃなかったのか!」
こんな風に声を荒げる坊ちゃんを見たことはなかった。怒りのあまり腰を上げ立ち上がろうとしてよろけた坊ちゃんを見て、慌てて駆け寄る。
「俺の持ち場は麻布から赤坂だ。四谷は管轄外で、俺が介入する許可を取る前に事が済んでいたのだ」
いや、それ以前に、有馬士官による告発でもあったのではなかろうか。
だが、苦々しい口調で言い訳をした藤田を、坊ちゃんがさらになじった。
「ばっかじゃないの! 次の犠牲者が出るよ」
無礼な言葉を浴びせられたのにもかかわらず、藤田はただ狼狽えたように反論した。
「次だと。三井捕縛が大石の目的だと言ったのはお前だ。奴はまんまと目的を達成したってだけだ。次など! 話が違う」
「例えば加納何某」
近藤局長をおとしいれたという加納道之助のことだ。
「確かにそいつが鍬次郎の一番の敵には違いない。彼奴が局長に傷を負わせ、新選組を窮地に追いやったと言っても過言ではないからな。だが加納なら、今は開拓使として箱館府にいると有馬から聞いたぞ。なんなら、大石が三井の体を借りて開拓使を志願した時には加納を狙っていたってことも考えられるが、奴は役に就かなかったのだ。つまり、加納に関しては諦めたんじゃねえのか」
「だとしても、大石の蟲は逃げおおせたんだ。誰かの中に入って……」
坊ちゃんが悔しそうに親指の爪を噛んだ。
「だったら、再び北に行って、今度は加納を殺してくれりゃあいい。俺としては願ったりの好都合だ」
本音なのか、ただの売り言葉なのか。どちらにせよ警官としてあるまじき発言をした藤田を、坊ちゃんが睨みつけた。
俺同様……いや、俺以上に汚い仕事を請け負っていたくせに、どこでどううまく転んだら、そんな立派ななりになれるんだ。
あやかりてえが、もうおせえな。俺ぁ、ここまで落ちぶれてしまった。
すでに俺は誰なんだ。
まるでわからねえよ。
何のために生きているのかすら、もうわからねえ。
とりあえずは、刀に血を吸わせねばなあ。
――だが手元にはもう、愛刀はねえんだよ……
◆
有馬から三井の話を聴いてから三日目。藤田が尾白屋を訪ねて来た。
そろそろ店を閉めようかと思っていた時間だった。
「三井を斬ったのかい?」
坊ちゃんが無邪気な顔で問うた。
だが、そういう顔ではなさそうだ。
「いや……斬ってはいない。いないが、三井は捕まったよ」
「……どういうこと?」
坊ちゃんの愛想笑いが引っ込む。俺も片付けの手を止め、店先の上り框に腰を下ろした。
「あっけなかったよ。俺の出る幕などなかった」
藤田の説明によると、真夜中に四谷巡回の巡査らの手によって、三井はあっさりとお縄になったようである。
それなのに、藤田の眉間の皺は深い。
「三井の隠れ家だと押さえた小屋からは石川の財布が出て来た。腰の刀には人を斬った筋がきっちり残っており、刃こぼれも認められた。だが……」
言い淀んだ藤田を坊ちゃんが問い詰める。
「三井さんの様子はどうだったの」
「奴はすでに尋問に答えることができなくなっていた。しらを切っていると思われ、少々手荒い真似をされたようだ。だがそうではない。俺が面会したところ、俺の顔も憶えておらぬ」
どういうことだ? たかが五年や六年で、一緒に戦った上役の顔を忘れるもんか。
「あんたのことを憶えていないってことは、つまり、記憶を失っていたということなのか」
藤田がかぶりを振る。
「いや、記憶の問題ではない。もはや奴は廃人だった」
机を拳で叩く音に、びっくりして振り返ると、坊ちゃんが目を吊り上げていた。
「それって、三井さんの中にいた大石の蟲が、すでに別人に乗り移ってしまったってことじゃないか! あんたが斬り殺すんじゃなかったのか!」
こんな風に声を荒げる坊ちゃんを見たことはなかった。怒りのあまり腰を上げ立ち上がろうとしてよろけた坊ちゃんを見て、慌てて駆け寄る。
「俺の持ち場は麻布から赤坂だ。四谷は管轄外で、俺が介入する許可を取る前に事が済んでいたのだ」
いや、それ以前に、有馬士官による告発でもあったのではなかろうか。
だが、苦々しい口調で言い訳をした藤田を、坊ちゃんがさらになじった。
「ばっかじゃないの! 次の犠牲者が出るよ」
無礼な言葉を浴びせられたのにもかかわらず、藤田はただ狼狽えたように反論した。
「次だと。三井捕縛が大石の目的だと言ったのはお前だ。奴はまんまと目的を達成したってだけだ。次など! 話が違う」
「例えば加納何某」
近藤局長をおとしいれたという加納道之助のことだ。
「確かにそいつが鍬次郎の一番の敵には違いない。彼奴が局長に傷を負わせ、新選組を窮地に追いやったと言っても過言ではないからな。だが加納なら、今は開拓使として箱館府にいると有馬から聞いたぞ。なんなら、大石が三井の体を借りて開拓使を志願した時には加納を狙っていたってことも考えられるが、奴は役に就かなかったのだ。つまり、加納に関しては諦めたんじゃねえのか」
「だとしても、大石の蟲は逃げおおせたんだ。誰かの中に入って……」
坊ちゃんが悔しそうに親指の爪を噛んだ。
「だったら、再び北に行って、今度は加納を殺してくれりゃあいい。俺としては願ったりの好都合だ」
本音なのか、ただの売り言葉なのか。どちらにせよ警官としてあるまじき発言をした藤田を、坊ちゃんが睨みつけた。
2
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる