貸本屋の坊ちゃんには裏の顔がある。~魂の蟲編~

森野あとり

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それぞれの生い立ち

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 冷えると思ったら、今朝は霜が降りていた。
 こんな朝には、お絹さんの作ってくれた温かい豆腐の味噌汁が五臓六腑にしみて、実に幸せな気分になる。そのささやかな幸せをかみしめている最中、坊ちゃんが何気なくつぶやいた。

「また殺しが起きる予感がする」
「坊ちゃん、予感はかまいませんが、ご飯中は止めておくんなせえ」

 幸せな気分が台無しじゃねえか。
 睨んで見せたが、意に介さずってなもんだ。
 
「今日の客廻りは午前中に済ませておくように。昼飯は菱屋へ行こう。菱屋に部屋を取っておくよう、お絹に手配させておく。一時半だよ」

 まったく、俺の苦言など、虫の羽音程度のもんなんだろうよ。

「あのね、そんな金、何処から湧いてくるとお思いですかい」

 それでなくとも辻斬りの件や菱屋の殺しの件で出かけていたせいで、外回りの商いが減っているというのに。そもそも菱屋で出される割烹料理なんぞ、庶民には敷居が高すぎるってもんだ。

「だいじょうぶ。この間藤田さんが置いて行った一円がある。これで座敷を借りて〈鳥なか〉から鳥鍋を運ばせるんだ」
「足りなくても知りませんからね」
「もしかしたら払わずに済むかもしれないよ」

 悪い顔で茶をすする坊ちゃんに、その真意を問い詰めようとしたが、さっさと仕事に出るよう促されてしまった。

 今日は五丁目の芸者置屋を一軒ずつ回る。
 だが伊勢屋に顔を出した時、間が悪かったのか芸者や半玉たちは稽古に出かけていて、女中と男衆しかいなかった。
 そんな中、久しぶりに珠緒さんが顔を出した。

 まだ顔色は良くねえような。

「大丈夫ですか。ずっとせっていると伺ったのですが」

 珠緒さんはけだるそうに肩で息を吐いた。

「石川様を斬ったという男が捕まったって、読売が売られていたらしいからさ。そろそろ御座敷には出てほしいって、女将さんには言われているんだけれどねぇ」

 新聞が登場して、しばらく経つが、やはり地元の事件や流言などの報道には読売――いわゆる瓦版の方が庶民には馴染みがある。三井が捕まって間もなく、その読売は四谷、新宿、赤坂界隈で売られていた。

 ――『維新ノ亡霊捕縛』

 という煽情的な見出しのせいで飛ぶように売れていた。もちろん、俺も買った。

「だって、まだ小林様を殺した下手人は行方知れずじゃないか。捕まったのは辻斬りの男ってだけで、菱屋さんの殺しについては書かれていなかったんだよ」
「確かにそうですね」
 
 薩摩の巡査殺しに始まった三件の辻斬りについては三井の犯行だと裏付けられたようだが、菱屋で起こった殺しに関しては何も解決していない。しかも、三井の体は捕まったものの、殺しをしたであろうは逃げてしまったのだから、一連の事件は解決などしていないも同然だ。

「でもねぇ、現場に居合わせてしまった豆千代が、弱音を吐かずに頑張っているのを見たらさ、あたしも御座敷に出なきゃとは思うんだよ。だけどさ、どうしても気鬱がここまでせり上がって来ちまってねえ……ほんと、豆千代はえらい娘だよ……」

 話しながら己の喉元を擦る。
 俺は諺の滑稽本を貸してあげた時の豆千代の屈託ない笑顔を思い返した。

「あの子も苦労人なんでしょうね」

 あの笑顔の陰には、いくつもの苦労が隠されているように思えてならない。

「そうだねぇ」と、珠緒さんは遠くを見るような目をした。

「あの子はさ、元々吉原の生まれなんだよ。桐畑にね、御一新前に火事で焼け出されて仮宅をしていた妓楼があってね、どうやらそこから逃げだしたのを、うちの女将さんが縁あって拾ってあげたらしいんだよ」

 ――遊郭で生まれた女児は、母親から引き離され禿かむろとして育てられる。しかし、三年前の明治五年に芸娼妓解放令が敷かれ、遊女らは年季奉公から解放された。これにより娼妓は自由職業となったのだ。手に技を持つ遊女らの中には芸者に転身する者もいたが、幼い禿らに選ぶ道などなく、多くは置屋や妓楼に留まったと言われる。

「禿時代によほど辛い目にあってきたんだろうねぇ。はじめのころは愛想笑いもへたくそでさ。遊郭で生まれたおなごなんてね、親の愛情など知らないもんだからさ、ふつうなら身近にいる人間に懐くもんだけどね。あの子はいつも遠慮がちで、いつも何かに怯えていたよ」

 珠緒さんが話す豆千代の過去は、ひどく不幸に感じた。今ではすっかり愛らしい笑顔が板についているが。

「ああ、そうだ。この間借りた本、もう少し延長してもいいかい」

 豆千代はあの諺の本がすっかり気に入ったらしい。

「暇があると、読み聞かせをねだるんだよ。でもね、いつも遠慮ばかりしているあの子がさ、お腹を抱えて笑っているのを見ているとさ、あたしも元気になれそうな気がしてね」

 珠緒さんがどこか哀しさを含んだ笑顔を見せた。

 伊勢屋を後にしてからも、豆千代の話が頭を離れねえ。
 ああ、ガキの頃を思い出しちまった……
 俺んちも酷かったからなあ。

 坊ちゃんの家にしたって直参旗本の家柄とはいえ、とりたてて裕福だったわけではない。二百俵七人扶持。下級旗本の暮らしは決して楽ではない。
 だが俺の実家の貧乏具合ときたら、そんな生半可なものではなかった。
 俺んちは貧困を絵に描いたような足軽御家人で、しかも親は無役であった。安酒に溺れる父と、内職と家計のやりくりに忙しい母。いつも「早く死にたい」とぼやく意地悪な祖母。その家の三男坊だった俺はいつも腹を空かせていた記憶しかない。
 長兄は惨めな家の跡取りが決められた人生に投げやりで、次兄はすでによくないごろつきの友人らと家を出て行方知れず。あいつらのようにはなりたくないと、剣術の稽古にだけは欠かさず通っていたのだが、貧しさ故、それすら辞めさせられそうになったところを酒井殿が拾ってくださった。
 剣術の素質を認められ、酒井家主君の小姓見習いとして仕えるようになったのは、俺が十の時。子供の居ない酒井氏は養子にと言ってくれるほどかわいがってくれたのだが、その話が具体的な形になろうとした矢先、奥方が身籠り、坊ちゃんが産まれたんだ。
 それでも養子の話を受けてほしいと言ってくれて、有難かったよなあ……

 けどなあ、自身の身分の低さを思うといたたまれなかったんだよ。結局、俺が自ら固辞したんだ。
 今も後悔などしていないさ。
 生まれて来た坊ちゃんがすぐに歩けなくなっちまった時には、「あの時、養子の話を受けるべきだった」などと心無いことを口にする家臣もいたが、酒井殿は養子の話を蒸し返すことなく、障害のある我が子を迷わず跡取りに定めた。もちろん、それは酒井氏の役が文官であったからの決意で、酒井家が武官の家柄であったなら、きっと俺が養子になっていただろうよ。
 だとしても、変わらずかわいがってくれた主君を、俺は本当の父以上に慕っていた。そして歩けない朔真さくまのことも、心から愛していた。

 己の過去を振り返った時、何とも言えない小さな痛みにも似た感覚が胸の柔らかい部分を締め付けるんだ。
 慕い、愛し、そしてその情に応えてもらえる。それは紛れもない幸福の形だと感じている。
 だから、幼いころの惨めな生活を忘れたというわけではないが、あの時舐めた苦汁は全部報われたとさえ思えるのだ。

(豆千代も幸せを掴めるといいな。)

 幕府解体の動乱に飲み込まれ、様々なものを失ってしまったが、それでも今の自分の生活は悪くはない。
 俺は薄幸の少女の幸せを願わずにはおれなかった。


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