貸本屋の坊ちゃんには裏の顔がある。~魂の蟲編~

森野あとり

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坊ちゃんの予感的中! 二人目の死体

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 一見するとさりげないが、よく見ると贅を凝らした小物や設えのある部屋で、俺は無意識に胡坐を組んだ膝を揺らしていたらしい。

「そわそわしないでよ」

 坊ちゃんに指摘されて気付いた。
 いや、仕方が無いだろう。こういうちゃんとした座敷なんぞで遊んだ事もなきゃ、飯を食ったこともねえんだからよ。
 なんつーか、落ち着かねえ。
 自慢じゃねえが、遊郭にすら行ったことがねえんだよ。

 お絹さんが予約を取っておいてくれた菱屋の座敷は、一番こじんまりとした部屋にもかかわらず、尾白屋の店先よりも広く感じる。

 ほどなくして運ばれてきた鳥鍋に火が入ると、醤油の匂いが漂い始めた。

(こりゃ、たまんねえや)

 部屋の雰囲気とはやや場違いの庶民的な甘く香ばしい匂いを吸い込み、肺に幸せな気分を充満させる。
 さっそく箸を手に、まずは柔らかな葱の青い部分を……。

(うわ、やわらけえ)

 桐畑の中でも食傷町と呼ばれる界隈にはその名に相応しく安くて旨い店が揃っていた。
 御一新後、その賑わいはやや廃れたとはいえ、この辺りのほとんどの店はそのまま営業を続けている。中でも〈鳥なか〉は坊ちゃんのお気に入りで、ここの葱鍋は安くて旨い。
 鶏肉と葱を炊き合わせているだけなのだが、関西風の出汁が絶妙な甘さで、最期に卵を落とすのが最高なんだな。
 
 またもや、あの厠の時と同じく鋭い悲鳴が聞こえてきたのは、俺が生卵を手にした時だった。
 今日は少年の声だ。
 不意を突かれたせいで、落としそうになった卵を器に戻していると、にわかに部屋の外が騒がしくなった。
 もう、俺は慌てねえぞ。なにしろ坊ちゃんが予知していたからな。だが……

「このことを俺の腹の虫は教えてくれなかったぞ」

 なぜか小林殺しの日のように、今日はには見舞われなかったのだ。だから油断をしていた。

「僕が先に『殺しが起きる』と教えたからさ。余計な情報を仕入れていると、そんな風に勘が働かなくなっちまうんだよ」
「そうは言うが、坊ちゃんはあの悲鳴を勝手に殺しだと決めつける根拠はなんですかい。ただ単に酔っぱらいが暴れただとか、虫の苦手な丁稚が蜘蛛の巣にかかっただとか、そういう可能性だってあるわけでさ」

 部屋の外の騒ぎ具合を聴くにつけ、それがただの酔っぱらい騒ぎなんぞではないことは明らかで、この江戸に熊や狼が出るわけもないのだから、おのずと事件の可能性は高まっているがな。
 そのうち誰かと誰かが口論している声まで届いてきた。

 ――だから、あそこには誰も立ち入らせるなと言ったはずだ。

 この怒鳴り声は菱屋の亭主に違いない。

 ――またもや人が死ぬなんて、いったい、うちの店はどうなっちまったんだ。

 近づいてくる口論の内容に、坊ちゃんが「ほらね」とばかりに肩をすくめて見せた。
 だがしかし、声の主は部屋の前を素通りして行ってしまったのだ。

「坊ちゃんは行かないんですかい」
「向こうから頼みに来るよ。それまでは動かない」

 素知らぬ顔で、坊ちゃんは生卵を落とした鍋の汁を自分の椀に注いで、鶏の脂のしみたクタクタの葱と共にすすった。
 その言葉どおり、しばらくするといきなり襖が開いた。

「お食事中すみませんが、旦那様が、あの廊下の厠へ来てくださいとのことです」

 ちょうど俺が卵を落とした汁をすくったところだった。

(なんて都合だよ)

 溶いた卵の中に残った肉を見つけてしまった。半熟の黄身をまとった鶏肉がキラキラとしてやがる。
 坊ちゃんと鶏肉を見比べ、結果、俺は坊ちゃんの冷ややかな目に屈した。

「へえへえ、行きますよ」

 仕方なく坊ちゃんを抱え、女中の後について、以前小林が殺された廊下の厠へと急ぐ。
 今度はいったい誰が犠牲になったってんだ、まったく……

 廊下の先には、すでに藤田が来ていた。

「またお前らか」

 わかりやすいなぁ、おい。んな、嫌な顔をしなくても良かろうが。

「おや、藤田さん。僕らは今日、ただのお客ですよ。たまたま臨時で小遣いが入ったのでね、贅沢をしてみようかなってね」

(よく言うよ)

 我が店主ながら呆れた。
 しっかり殺人を予見して予約を入れたくせに。しかも、その臨時の小遣いは、辻斬り事件解決のために協力を願い出た藤田からの袖の下じゃねえか。

 藤田は舌打ちをすると、俺たちに背を向け、菱屋に問いかけた。

「この厠は事件が解決するまで使うなと言っておいたはずだが」

 無駄に声が大きいのは相当苛ついているからだな。

 小林さんが殺されてからすでに十と四日。辻斬りは逮捕されたが、廃人となってしまった三井からは何も聞き出せず、この厠の事件とかかわりがあったかどうかさえ不明で、不審者の目撃も全くない。
 つまり迷宮入りってことだ。それなのに、またもや犠牲が出たとなりゃ、苛つくのも仕方がねえ。

「わかっております。ですからこうやって張り紙をしておいたのです」

 確かに厠の戸には『立入厳禁』の紙が貼ってある。
 でかい声で威圧された菱屋が、憮然と言い返す。

「店の者にも客にも、中庭に作った簡易の厠を使うように言ってありましたよ」

 突然、坊ちゃんが割って入った。

「でも、雪隠の扉に板も何も打ち付けてはいなかったんだ。これじゃあ、だれでも出入りできるよねぇ」

 その言い分にひやりとした。
 それじゃあ、まるでわざと菱屋が戸を開放していたような言い草だ。案の定、菱屋が必死の形相で反論してきた。

「そ、それはっ、なにしろまだ賊が捕まっていないからですよ! まだポリスさんらが調べに来たりするかもしれないでしょう」

 うむ、確かにそれも言い分としては正しい。

 結局、発見者の小僧と菱屋の亭主、そして俺たちを残して、まわりに集まっていた野次馬は別の部屋へ集められた。
 
「で、此度はてめえが見つけたのか」
「へ、へ、へい」

 かわいそうに、藤田に睨まれた小僧は、まるで自分が殺しかなにかを疑われていると勘違いしているらしく、青くなって震えている。

「だだ、だってさ、ずっと閉まっていたはずの厠の扉が開いていたんだもの、きき、気になってしまって」
「で、中を覗いたってわけだな」
「う、うん」

 今は閉められている扉を、藤田が勢いよく開けると、ぶらりと力なく垂れる女の脚が目に入った。

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