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六
政府の役人
しおりを挟む明朝早く。長屋門に設けた道場に、二人の姿があった。
早朝だというのに、すでに汗が吹き出すような蒸し暑さである。
「やああああ!」
「とおっ!」
ハツが台所脇の井戸で水を汲んでいた。そこまで居合の声は聞こえていた。
「おかみさん、源之助さまの朝食、どうなさいます?」
彦右衛門が留守となると、どうせ仕事は番頭任せであろう。ならば、ああやって早朝から稽古をし始めたら、いつ終わるか分かったものではない。
「いつも通りでいいわ」
ノブは、素っ気なく答えた。
――あの気性の激しさは、父親譲りかしらね。いいや、あたしが新選組への入隊を許さなかったせいだ。
歳三の死は、彼に何を残したのだろうか。やるせなさに、大きなため息を吐いた。
歳三が甲府攻めに失敗したと報せが入ると、即座に家族は官軍の追っ手から逃れるため、離散して親戚の家を転々とした。実際、日野にも官軍は進攻してきた。この時、八王子に逃げていた源之助は官軍に捕えられ、八王子宿にて取り調べを受けている。
その後、無事解放されたから良かったものの、この事実を知らされた時、ノブは心臓が止まりそうになった。
詰問と答えた内容については、当然彦右衛門に報告済みだが、その時の取り調べの様子を、源之助が詳しく語ることは無かった。
きっと屈辱的な思いをしたに違いない。彼の体に残されたいくつかの痣が、尋問の厳しさを物語っていた。
それでも、歳三が攻めている間は良かった。だが、旧幕府軍降伏を知らされてから、息子は変わった。
「何をお考えでしょうかね」
無言になったノブに、ハツが声を掛けた。
「どうしてそう思うの?」
ほかの女中が膳を並べ始めた。
ハツが何かを言い掛けたが、慌ただしい朝の雰囲気に呑まれ、その質問に答えることは無かった。
日が経つにつれ、官軍への警戒心が薄れていくのか、昨晩は遅くまで、源之助と鉄之助が政の話をしていた。それもかなり危険な内容ばかり。
――ハツはそれを知っているのだ。
再びノブの口から、ため息が漏れた。
*
こんな日に限って、面倒な客が来た。
「先日提出された玉川普請のための材木について、現地調査を行いたく……」
政府の役人を名乗った青年は、西国訛りであった。
未だ和装の旅姿で、刀袋を下げている。源之助よりも少し大人びた風貌の青年だ。
――幕府の頃は、浪人か下級武士ってところだろうな。
番頭は姿を監察し、勝手な想像をした。
記帳した名を確認する。
――土佐藩、岩崎二郎
「土佐の岩崎様とおっしゃられますと、あの実業家の」
「いや、あしは足軽の三男坊じゃ。残念ながら、岩崎弥太郎殿とは全くの無関係じゃき~。ほんに残念じゃが」
番頭の質問を遮って、愛嬌のある顔の前で手をひらひらとさせた。
「しかし、本日は佐藤殿が出かけられて留守にございます。調査は事前の報告の上、後日改めて」
「なに、簡単な目視調査じゃ。わざわざ名主殿に御同行頂かなくとかまわぬ」
江戸の頃はこういった役人も多かった。彼らは佐藤家に好意的であった。だが、今の役人は居丈高で偉そうに命令するのだ。
そう思うと、この男は珍しい。
「ではご宿泊は一泊で」
番頭は少々悩んだ。
土佐藩と言えば、多くの志士を輩出している。新選組が、かの有名な池田屋事件で最も多く斬ったのは、土佐人だとも伝えられている。何より、新政府軍の根っことなった、薩摩と長州を結びつけたのは、土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎なのだ。
この佐藤家の番頭を務める男である。その辺りは、用心せねばならないと心得ていた。
彼はこの宿泊客を、鉄之助の部屋から離れた上段の間に通した。そして直ちに、源之助へ報告に行った。
「くせえな。官軍の手先じゃねえのか?」
「どうなさいましょう」
源之助が少し考えた。
「まあいい。今夜は俺も陣屋で寝よう」
源之助はこの男の宿泊を許したのだ。
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