幻日~遠い日の夢

森野あとり

文字の大きさ
29 / 61

政府の役人

しおりを挟む

 明朝早く。長屋門に設けた道場に、二人の姿があった。
 早朝だというのに、すでに汗が吹き出すような蒸し暑さである。

「やああああ!」
「とおっ!」

 ハツが台所脇の井戸で水を汲んでいた。そこまで居合の声は聞こえていた。

「おかみさん、源之助さまの朝食、どうなさいます?」

 彦右衛門が留守となると、どうせ仕事は番頭任せであろう。ならば、ああやって早朝から稽古をし始めたら、いつ終わるか分かったものではない。

「いつも通りでいいわ」
 ノブは、素っ気なく答えた。

 ――あの気性の激しさは、父親譲りかしらね。いいや、あたしが新選組への入隊を許さなかったせいだ。

 歳三の死は、彼に何を残したのだろうか。やるせなさに、大きなため息を吐いた。

 歳三が甲府攻めに失敗したと報せが入ると、即座に家族は官軍の追っ手から逃れるため、離散して親戚の家を転々とした。実際、日野にも官軍は進攻してきた。この時、八王子に逃げていた源之助は官軍に捕えられ、八王子宿にて取り調べを受けている。
 その後、無事解放されたから良かったものの、この事実を知らされた時、ノブは心臓が止まりそうになった。
 詰問と答えた内容については、当然彦右衛門に報告済みだが、その時の取り調べの様子を、源之助が詳しく語ることは無かった。
 きっと屈辱的な思いをしたに違いない。彼の体に残されたいくつかの痣が、尋問の厳しさを物語っていた。

 それでも、歳三が攻めている間は良かった。だが、旧幕府軍降伏を知らされてから、息子は変わった。

「何をお考えでしょうかね」
 無言になったノブに、ハツが声を掛けた。

「どうしてそう思うの?」

 ほかの女中が膳を並べ始めた。
 ハツが何かを言い掛けたが、慌ただしい朝の雰囲気に呑まれ、その質問に答えることは無かった。
 日が経つにつれ、官軍への警戒心が薄れていくのか、昨晩は遅くまで、源之助と鉄之助が政の話をしていた。それもかなり危険な内容ばかり。

 ――ハツはそれを知っているのだ。

 再びノブの口から、ため息が漏れた。



 こんな日に限って、面倒な客が来た。

「先日提出された玉川普請のための材木について、現地調査を行いたく……」

 政府の役人を名乗った青年は、西国訛りであった。
 未だ和装の旅姿で、刀袋を下げている。源之助よりも少し大人びた風貌の青年だ。

 ――幕府の頃は、浪人か下級武士ってところだろうな。

 番頭は姿を監察し、勝手な想像をした。
 記帳した名を確認する。

 ――土佐藩、岩崎二郎

「土佐の岩崎様とおっしゃられますと、あの実業家の」
「いや、あしは足軽の三男坊じゃ。残念ながら、岩崎弥太郎殿とは全くの無関係じゃき~。ほんに残念じゃが」

 番頭の質問を遮って、愛嬌のある顔の前で手をひらひらとさせた。

「しかし、本日は佐藤殿が出かけられて留守にございます。調査は事前の報告の上、後日改めて」
「なに、簡単な目視調査じゃ。わざわざ名主殿に御同行頂かなくとかまわぬ」

 江戸の頃はこういった役人も多かった。彼らは佐藤家に好意的であった。だが、今の役人は居丈高で偉そうに命令するのだ。
 そう思うと、この男は珍しい。

「ではご宿泊は一泊で」

 番頭は少々悩んだ。
 土佐藩と言えば、多くの志士を輩出している。新選組が、かの有名な池田屋事件で最も多く斬ったのは、土佐人だとも伝えられている。何より、新政府軍の根っことなった、薩摩と長州を結びつけたのは、土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎なのだ。

 この佐藤家の番頭を務める男である。その辺りは、用心せねばならないと心得ていた。
 彼はこの宿泊客を、鉄之助の部屋から離れた上段の間に通した。そして直ちに、源之助へ報告に行った。

「くせえな。官軍の手先じゃねえのか?」
「どうなさいましょう」

 源之助が少し考えた。

「まあいい。今夜は俺も陣屋で寝よう」

 源之助はこの男の宿泊を許したのだ。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

BL認定児童文学集 ~これ絶対入ってるよね~

松田夕記子
エッセイ・ノンフィクション
「これは児童文学だ。でも絶対にBLだよね!」という作品を、私の独断と偏見をもとに、つらつらとご紹介していきます。 「これ絶対入ってるよね」は、みうらじゅん氏の発言としてあまりにも有名ですが、元のセリフは「この下はどうなっていると思う? オレは入ってるような気さえするんだけど」が正しいです。 BL小説をご覧になって頂き、誠にありがとうございました。このエッセイはクリスマスの25日に完結します。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

処理中です...