幻日~遠い日の夢

森野あとり

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怪しい男

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 わずかな荷物を部屋に置くと、男はすぐさま広縁から直接下りて、庭を散策し始めた。ぐるりと池の周りを歩いた後、照り付ける太陽の下、池の鯉に干飯をやっていた。

 縁側の柱からその姿を観察していた源之助が、鉄之助の部屋に向かった。

「妙な泊まり客が来た。橋の普請に関わる役人なのだが」

 名主である佐藤家に役人が訪ねて来ることは珍しくない。そのせいで鉄之助は源之助の言葉にピンと来ていない。

「役人の泊り客など珍しくないでしょう。その方の目に留まらぬよう、部屋を移りますが」
「や、そうじゃねえんだ。調査書の書簡に間違いないようなんだが、亭主が留守だと言っても『かまわねえ』と言う上に……どうもなぁ、元土佐藩ってのも引っかかる」
「土佐藩……」

 鉄之助の表情が硬くなった。源之助は胡坐をかき、右手で顎を擦った。

「下っ端の役人だと名乗って入るが、下っ端であれば、木賃宿か村の旅籠にでも泊るもんだ。うちに泊まったり休息所として使うのは、たいてい上の奴らだ。軍の上層だとか官僚、元幕府のお偉いさんだとか……な」
「そうなんですね」
「本陣ってのは、元々、大名行列の御殿様を泊めるための宿だからな。だが、奴はここに泊まるよう、上司の紹介状も持参している」

 土方歳三も戊辰戦争前は、旅籠ではなく本陣を利用していた。それだけ当時の新選組は羽振りが良かった言う事だ。

「去年、亀とか言う名前の新選組残党を連れてきたのは土佐人のポリスだったが、まさか、そいつからおめえの存在がばれたとかじゃねえよなぁ」
「まさか今更。それにいくら私が新選組にいたとはいえ、実際には無名の見習い隊士だったのですから。まあ、そんな人間でも、匿っていることが罪に問われないとは限りませぬが」

 鉄之助は自分で言っておいて、その考えにハッとしたような顔をしていた。
 面倒なのは、亭主の判断を仰げないことだ。

「しかし、用心に越したこたあねえ。鉄、今夜は奉公人の部屋に隠れるか。親父のいねえ時に面倒はごめんだ」

 ――パンッ
 源之助が自分のこめかみを叩いた。耳元で羽音がしたのだろう。開いた掌に、潰れた蚊と血がついていた。

「源之助さまは?」
「俺はこの隣の部屋で寝る」

 ――しかしもし、万が一、官軍の偵察であれば、どうすりゃいい。いや、それよりも……

 源之助が思案していると、鉄之助が不穏な言葉を口にした。

「それで、万が一の時には、斬るおつもりで?」

 久しぶりに聞いた「斬る」という言葉。改めてその物騒さに背中が冷やりとする。

「バカ野郎、今はそんなご時世じゃねえや」
「しかし、奴の差料は預かっておらぬのでしょう」
「竹光ってこともあるだろうよ」

 鉄之助は、源之助以上に嫌な予想をしていた。

「もし俺を狙ったのではないとすれば、佐藤家の人々を……」

 暑さとは別の、嫌な汗が背を伝った。

「まさか、考えすぎだろ」
「やはり……私もここに居てはいけませんか? ご迷惑をかけぬよう用心いたします」

 確かに、奴の本当の目的を知りたいと思った。

「きっと、わざわざこの宿を選んだ理由があるはずだと思えてなりませぬ」

 鉄之助の頑固な目に、源之助が折れた。

「ち、しゃあねえな。なら、俺の小刀を貸してやる。だが、絶対に抜くな。何があっても、だ」



 夕刻、源之助は客人の部屋を訪ねた。


「当主の彦右衛門が留守にしておりまする。わたくしは、息子の源之助と申します」

 酒と肴の膳をノブが運んだ。

「わざわざ、挨拶とは恐れ多いことじゃ」
「いえ。それで橋の調査はどうでございましたか」

 昼過ぎ、男は玉川の橋と渡し舟の現状を検分するために出かけていた。

「昨年の嵐で流された渡し舟より、二梃増えておりまする。佐藤殿の報告書と相違ござらぬ。あとは明日、材木の使用量を確認するだけにござる」

 燭台に灯を灯し、ノブが席を外した。
 ノブが退席するのを確認して、源之助が酒を勧めた。

「我が宿はどうでございますか」
「ほんに、立派なもんじゃ。わしなどにはもったいない」
「土佐のお侍様とお伺いしましたゆえ」

 銚子を手に、単刀直入に言った。

「土佐人は好かぬか?」

 猪口を手に、男が口角を上げた。
 意外な返事だった。まるでこちらが警戒していることを、知っているかのような。

「滅相もないことで御座います。むしろ土佐のお方が、我が家を嫌っておるのではと。……いえ、いらぬ詮索でございます」

 男は口角を上げたまま、猪口を睨んでいた。が、しばらくして飲み干した。

「武蔵の酒も旨か」

 形のいい、切れ長の目を細めた。
 刀は刀掛。見たところ、大刀は二尺四寸くらいか。すぐに手の届く位置ではない。しかし、源之助の緊張がほぐれることはなかった。
 麻の粗末な袴は、しかしひだが立っていて、身綺麗であった。その座った姿にも……

 ――隙がねえな。

 死んだ沖田総司が纏っていたような、張りつめた空気を感じた。彼もにこやかな青年だったが、いつも隙の無い雰囲気を漂わせていたものだ。その姿を思い出させた。

 ――隙がねえのか、それとも、こやつが緊張しているのか……。つつけば何か出て来るだろうか。

 空になった猪口に、二杯目を注いだ。

「我が家が新選組を支援していたことを存じておられたのでは」

 源之助は敢えて、新選組の名を口にした。

「あっしは志士ではないき。ゆえに近藤殿や土方殿とはまるで面識ござらぬ。それどころか、戊辰戦争以前は国から出たことが無いちや、京の土を踏んでもおらぬわ」

 男はしらっと答え、酒をすすった。

「とんだ御無礼つかまつりました。てっきり、藩士殿で江戸住まいかと思うておりました」

 源之助は非礼を深く詫びた。もちろん、フリである。

 ――近藤殿、土方殿だあ? 
 まるで先生方と親父との所縁を知っている口調じゃねえかよ。南国の下級武士がか?

 心の臓がばくばくと、やけに速く脈打っているのがわかる。

「かまわんき。だが江戸城で働いていたのは確かじゃが、何しろ戦の最中に雇われたクチじゃ。人手が足らぬと言うから、役人の手伝いをしておっただけじゃき。なにせ土佐でおっても、下級武士など食っていけんのでござる。ま、食えりゃあ、主人は誰でも良かったのでござるよ」

 武士の義を守るために命を賭けた『土方歳三』という叔父を持つ源之助には、耐えられない程にふざけた答えだった。こめかみの下に嫌な力が入り、つい歯を食いしばりそうになった。
 だがそれも、幕府の庇護の下で暮らしが成り立っていた、武州の豪農や名主だからの考え方だのだろう。この男の言う、その身分ゆえに『食っていけん』生活というものを、源之助は知らない。
 何かも言い返せず、ただ酒だけを注いだ。

 その後退席し、主屋ではなく鉄之助の部屋に戻った。


 すっかり、陽が落ちていた。
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