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八
別れの予感
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年明けの佐藤家は、年始の挨拶で人が慌ただしく出入りしていた。
「今日から江戸に行く。二泊で戻る」
「もう江戸じゃあないでしょう」
ノブがしらっと答えた。
「東京なんて呼び方、何年経っても馴染めねえや」
「たしかにそうよねえ」
「あっ」と、ノブが彦右衛門を見上げた。
「鉄之助さんの書簡」
「ああ、忘れちゃあいねえよ」
「ほれ」と示して見せた。
この年賀状だけは、東京の薬問屋から出る荷物と共に、大坂から飛脚を使うことに決まっていた。(※ちなみに大坂も、坂の文字が『阪』に変わっている。一説によると、坂という漢字を解体すると〈士が反する〉つまり、士分の反発を表しているからだという理由なのだとか。真偽は定かでないが、それほどに新政府は武士階級の反逆を恐れていたと言える)
「あら、ずいぶん薄いのね」
鉄之助が、ずっと故郷に宛てた文を書いていたことを、ノブは知っていた。
「もっとたくさんの書状かと思っていましたよ」
「あんなもん、出せるかってんだ」
彦右衛門は羽織の上に、黒い合羽を重ねて着た。
「兄上との別れから、ここに至った詳細、終いにゃあ、新政府への恨み言まで記してあったよ。『万一、開けられたらどうする』ってえ、叱ってやったぜ」
――ええ、聞こえていましたとも。あんたの大声は。
「で、どうなすったの?」
「年賀の挨拶文と、己の身の健勝だけを伝えろって書き直させたよ」
――ああ、だからこんなに薄っぺらいんだね。
彦右衛門がその薄っぺらい年賀状を、丁寧に懐に仕舞った。
「無事にこの書簡が大垣に届き、大垣から返事が返って来れば、その時は……」
まっすぐ前を向いたままで話す。しかし、『その時は』の後は続けなかった。
まだ、ノブに言いたくないのだろう。ノブも、その言葉の続きを聞こうとはしなかった。
その時はいずれ――寂しさは冬の寒さよりも堪える。ノブにとって鉄之助は、既に息子も同然だったのだから。
いつもお供をする清太は、まだ旅に出たきり帰っていなかった。彦右衛門は源之助を供に門を出た。
二人の背中を見送りながら、つい独り言ちる。
「いよいよなのかねえ」
ノブは、鉄之助との別れを予感した。
*
彦右衛門が居なかった二日間も、鉄之助は稽古を続けた。
松過ぎまで、道場には誰も来ない。だからひたすら、一人稽古をしていた。
「正月だってのに、もう少しのんびりしたら?」
振り返ると、美しく着飾ったハツが、道場の入り口に立っていた。
「手習いの次は剣術なの?」
「まあな。ほんまはもっと早うから、おおっぴらにやりたかったんやけどな」
昨年まで官軍の訪問を警戒して、道場での稽古は、早朝や天気の悪い日を選んでいた。
「お前こそ、家には帰らねえのか?」
正月三が日は、住み込みの奉公人だけでなく、別家を構える奉公人も、実家に帰ってくつろぐのが習わしである。だから、この佐藤家も静かなものだった。
「実家は空っぽだし、うちは親戚に嫌われてるからね。帰る家がないんだ」
鉄之助の表情が曇ったせいだろう。明るく言い訳し、初詣に誘って来た。
「あ、あたしだけじゃないのよ、残っているのは。だから、みんなで初詣に行くんだべ。ねえ、鉄之助さまも一緒に行こうよ」
きっと、ノブにわざわざ許可をもらってきたに違いない。
「すぐ近くの牛頭天王さんだよ」
ハツの髪に刺した銀色のかんざしが揺れた。
それを見て、少し心が動いた。でも――ハツとは親しいが、ほかの奉公人とはほとんど交わりが無い。気まずい思いをするのは苦手だ。
「ありがとう。でももうちょっと稽古をしときたいんだ。これ、覚えたての技やから」
そう言い訳をして断った。
「……じゃあ、おみやげ買って来るね」
少し、いや、かなりがっかりした表情を見せた。
「気を遣わなくてもええ」
言った時には、もう彼女はいなかった。
「悪いことしちゃったかな」
――せっかく誘ってくれたのにな。
一緒に牛頭天王の前で手を合わせる姿を想像してしまった。
小さな後悔を振り払うように、再び木刀を振り続けた。
「今日から江戸に行く。二泊で戻る」
「もう江戸じゃあないでしょう」
ノブがしらっと答えた。
「東京なんて呼び方、何年経っても馴染めねえや」
「たしかにそうよねえ」
「あっ」と、ノブが彦右衛門を見上げた。
「鉄之助さんの書簡」
「ああ、忘れちゃあいねえよ」
「ほれ」と示して見せた。
この年賀状だけは、東京の薬問屋から出る荷物と共に、大坂から飛脚を使うことに決まっていた。(※ちなみに大坂も、坂の文字が『阪』に変わっている。一説によると、坂という漢字を解体すると〈士が反する〉つまり、士分の反発を表しているからだという理由なのだとか。真偽は定かでないが、それほどに新政府は武士階級の反逆を恐れていたと言える)
「あら、ずいぶん薄いのね」
鉄之助が、ずっと故郷に宛てた文を書いていたことを、ノブは知っていた。
「もっとたくさんの書状かと思っていましたよ」
「あんなもん、出せるかってんだ」
彦右衛門は羽織の上に、黒い合羽を重ねて着た。
「兄上との別れから、ここに至った詳細、終いにゃあ、新政府への恨み言まで記してあったよ。『万一、開けられたらどうする』ってえ、叱ってやったぜ」
――ええ、聞こえていましたとも。あんたの大声は。
「で、どうなすったの?」
「年賀の挨拶文と、己の身の健勝だけを伝えろって書き直させたよ」
――ああ、だからこんなに薄っぺらいんだね。
彦右衛門がその薄っぺらい年賀状を、丁寧に懐に仕舞った。
「無事にこの書簡が大垣に届き、大垣から返事が返って来れば、その時は……」
まっすぐ前を向いたままで話す。しかし、『その時は』の後は続けなかった。
まだ、ノブに言いたくないのだろう。ノブも、その言葉の続きを聞こうとはしなかった。
その時はいずれ――寂しさは冬の寒さよりも堪える。ノブにとって鉄之助は、既に息子も同然だったのだから。
いつもお供をする清太は、まだ旅に出たきり帰っていなかった。彦右衛門は源之助を供に門を出た。
二人の背中を見送りながら、つい独り言ちる。
「いよいよなのかねえ」
ノブは、鉄之助との別れを予感した。
*
彦右衛門が居なかった二日間も、鉄之助は稽古を続けた。
松過ぎまで、道場には誰も来ない。だからひたすら、一人稽古をしていた。
「正月だってのに、もう少しのんびりしたら?」
振り返ると、美しく着飾ったハツが、道場の入り口に立っていた。
「手習いの次は剣術なの?」
「まあな。ほんまはもっと早うから、おおっぴらにやりたかったんやけどな」
昨年まで官軍の訪問を警戒して、道場での稽古は、早朝や天気の悪い日を選んでいた。
「お前こそ、家には帰らねえのか?」
正月三が日は、住み込みの奉公人だけでなく、別家を構える奉公人も、実家に帰ってくつろぐのが習わしである。だから、この佐藤家も静かなものだった。
「実家は空っぽだし、うちは親戚に嫌われてるからね。帰る家がないんだ」
鉄之助の表情が曇ったせいだろう。明るく言い訳し、初詣に誘って来た。
「あ、あたしだけじゃないのよ、残っているのは。だから、みんなで初詣に行くんだべ。ねえ、鉄之助さまも一緒に行こうよ」
きっと、ノブにわざわざ許可をもらってきたに違いない。
「すぐ近くの牛頭天王さんだよ」
ハツの髪に刺した銀色のかんざしが揺れた。
それを見て、少し心が動いた。でも――ハツとは親しいが、ほかの奉公人とはほとんど交わりが無い。気まずい思いをするのは苦手だ。
「ありがとう。でももうちょっと稽古をしときたいんだ。これ、覚えたての技やから」
そう言い訳をして断った。
「……じゃあ、おみやげ買って来るね」
少し、いや、かなりがっかりした表情を見せた。
「気を遣わなくてもええ」
言った時には、もう彼女はいなかった。
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――せっかく誘ってくれたのにな。
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