幻日~遠い日の夢

森野あとり

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別れの予感

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 年明けの佐藤家は、年始の挨拶で人が慌ただしく出入りしていた。

「今日から江戸に行く。二泊で戻る」
「もう江戸じゃあないでしょう」

 ノブがしらっと答えた。

「東京なんて呼び方、何年経っても馴染めねえや」
「たしかにそうよねえ」

「あっ」と、ノブが彦右衛門を見上げた。
「鉄之助さんの書簡」
「ああ、忘れちゃあいねえよ」
「ほれ」と示して見せた。

 この年賀状だけは、東京の薬問屋から出る荷物と共に、大坂から飛脚を使うことに決まっていた。(※ちなみに大坂も、坂の文字が『阪』に変わっている。一説によると、坂という漢字を解体すると〈士が反する〉つまり、士分の反発を表しているからだという理由なのだとか。真偽は定かでないが、それほどに新政府は武士階級の反逆を恐れていたと言える)

「あら、ずいぶん薄いのね」

 鉄之助が、ずっと故郷に宛てた文を書いていたことを、ノブは知っていた。

「もっとたくさんの書状かと思っていましたよ」
「あんなもん、出せるかってんだ」

 彦右衛門は羽織の上に、黒い合羽を重ねて着た。

「兄上との別れから、ここに至った詳細、終いにゃあ、新政府への恨み言まで記してあったよ。『万一、開けられたらどうする』ってえ、叱ってやったぜ」

 ――ええ、聞こえていましたとも。あんたの大声は。
「で、どうなすったの?」
「年賀の挨拶文と、己の身の健勝だけを伝えろって書き直させたよ」

 ――ああ、だからこんなに薄っぺらいんだね。

 彦右衛門がその薄っぺらい年賀状を、丁寧に懐に仕舞った。

「無事にこの書簡が大垣に届き、大垣から返事が返って来れば、その時は……」

 まっすぐ前を向いたままで話す。しかし、『その時は』の後は続けなかった。
 まだ、ノブに言いたくないのだろう。ノブも、その言葉の続きを聞こうとはしなかった。

 その時はいずれ――寂しさは冬の寒さよりも堪える。ノブにとって鉄之助は、既に息子も同然だったのだから。

 いつもお供をする清太は、まだ旅に出たきり帰っていなかった。彦右衛門は源之助を供に門を出た。
 二人の背中を見送りながら、つい独り言ちる。

「いよいよなのかねえ」

 ノブは、鉄之助との別れを予感した。


 
 彦右衛門が居なかった二日間も、鉄之助は稽古を続けた。
 松過ぎまで、道場には誰も来ない。だからひたすら、一人稽古をしていた。

「正月だってのに、もう少しのんびりしたら?」

 振り返ると、美しく着飾ったハツが、道場の入り口に立っていた。

「手習いの次は剣術なの?」
「まあな。ほんまはもっと早うから、おおっぴらにやりたかったんやけどな」

 昨年まで官軍の訪問を警戒して、道場での稽古は、早朝や天気の悪い日を選んでいた。

「お前こそ、家には帰らねえのか?」

 正月三が日は、住み込みの奉公人だけでなく、別家を構える奉公人も、実家に帰ってくつろぐのが習わしである。だから、この佐藤家も静かなものだった。

「実家は空っぽだし、うちは親戚に嫌われてるからね。帰る家がないんだ」

 鉄之助の表情が曇ったせいだろう。明るく言い訳し、初詣に誘って来た。

「あ、あたしだけじゃないのよ、残っているのは。だから、みんなで初詣に行くんだべ。ねえ、鉄之助さまも一緒に行こうよ」

 きっと、ノブにわざわざ許可をもらってきたに違いない。

「すぐ近くの牛頭天王さんだよ」

 ハツの髪に刺した銀色のかんざしが揺れた。
 それを見て、少し心が動いた。でも――ハツとは親しいが、ほかの奉公人とはほとんど交わりが無い。気まずい思いをするのは苦手だ。

「ありがとう。でももうちょっと稽古をしときたいんだ。これ、覚えたての技やから」

 そう言い訳をして断った。

「……じゃあ、おみやげ買って来るね」

 少し、いや、かなりがっかりした表情を見せた。

「気を遣わなくてもええ」

 言った時には、もう彼女はいなかった。

「悪いことしちゃったかな」

 ――せっかく誘ってくれたのにな。

 一緒に牛頭天王の前で手を合わせる姿を想像してしまった。

 小さな後悔を振り払うように、再び木刀を振り続けた。

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