さえずり宗次郎 〜吉宗の隠密殺生人〜

森野あとり

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第一話 吉宗の隠密

吉宗の思惑

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 享保四年の卯月(旧暦4月)

 雑司ヶ谷ぞうしがやにある御鷹部屋御用屋敷おたかべやごようやしき内、宮井杢太夫もくだゆう宅の奥の間は、かつてないほどに緊迫した空気に包まれていた。


「相変わらず評判はいけねえな」

 客人の伝法な物言いに、家の主である杢右衛門もくうえもんは思わず首を縮めたくなったが、辛うじてその衝動に耐えた。

 宮井杢右衛門は将軍家鷹匠たかじょうの一人である。
 鷹匠とは――朝廷をはじめ、将軍や大名に仕えて鷹を飼育、訓練し、鷹狩に従事する役人のことであるが、彼はかつて紀州徳川家の鷹匠頭を務めていた。
 だが、この江戸では一介の鷹匠である。幕臣である将軍家鷹匠たちの総括は、若年寄の大久保佐渡守常春であり、鷹匠頭には御鷹狩廃止以前に鷹匠頭を務めていた家の者――小栗正と戸田勝房が起用されていた。
 それでも将軍吉宗の信頼するところはやはり、国元から呼び寄せた鷹匠たちなのだろう。本来ならば大久保に下知すべき案件を持って、わざわざこんな下屋敷が建ち並ぶ江戸の外れに、お忍びで足を運ぶくらいなのだから。

(それにしても……)

 びしっとひだが立っているとはいえ、地味な木綿のはかま姿で胡坐あぐらを組んでいる目の前の大男が将軍様だとは、どうしても実感しがたい。
 それほどまでに吉宗はくつろいでいた。
 紀州徳川家の殿様は、征夷大将軍と成り上がった今もまるで変わらず、そのままの『との』であった。

「江戸の鷹役人どもは、たるみすぎだと思わぬか」
「は、まことに」

 鷹場たかばの管理や餌の確保、それらを円滑に行わせるため、鷹匠や鷹匠同心(鷹匠の下の位)、果ては餌差えさしに至るまで、公儀の鷹役人にはそれなりの権限を与えている。だが、それが裏目に出ていた。
 御鷹場となった村に対しての過剰な接待の要求はもとより、その地にある大名屋敷との癒着、不正な野鳥や鷹の取引等々。彼奴らの横暴な行為は、江戸やその近郊の人々からも大いに反感を買っていた。

「だから餌差を狙った盗賊まで現れるのだ。おまけに先月の鳥見とりみ殺し。こいつあ、未だ片がついていねえ」

 鳥見とは鳥見役人のことを指す。江戸郊外に設けられた鷹狩用の土地を管理、監察させるという名目で置いた鳥見役所の役人のことである。
 その鳥見役所の同心が、見廻り中の村で斬り殺されるという物騒な事件が起こっていた。
 吉宗が肘を膝に乗せ頬杖をつくと、その大きな顔が一層近づいた。
 左の眉が上がり、鋭い眼光に見上げられる。

「火盗改メ(火付盗賊改方)が追っているが、奴らじゃあ、無理だろうよ。それにしても、そもそも鷹狩とは何であるかを役人どもがわかっておらぬ」
「ごもっともでございまする」

 鷹狩とは――吉宗に同意しつつ、杢右衛門はその真意を己に問う。

 将軍への忠心を明確な形にしたものが御鷹狩であり、御鷹の献上である。
 六代、七代と相次ぐ将軍の死に加え、財政面でも揺らぎが見える徳川将軍家の権力を、鷹狩復古によって立て直そうというのが、そもそもの狙いであった。
 だが、もう一つの狙いを正確に理解している鷹役人がどれほどいるだろうか。少なくとも鳥見役人はそれを正しく把握しているに違いないが、鷹匠や鷹匠同心、さらに餌差たちはどうであろう。

(鷹狩は軍事にほかならぬ)

 自問の答えを、己に言い聞かせた。

 吉宗の空いている方の手が、扇子を閉じたり開いたりもてあそぶ。

「まあ、乱れた御家人共の始末は佐渡守さどのかみに任せておくが、表向きの裁きなど、到底あてにはできぬ」

 吉宗が目を細めた。
 杢右衛門は唾を飲み、ここでようやく己の意見を口にした。

おそれながら、殿との。和歌山より、面白い男を連れて参っておりまする」
「ふむ?」

 興味を持ったようである。

「昔、粉河こかわ(和歌山北部の村)で見つけたわらしにございまする。捨て子であったのを在郷餌差ざいきょうえさし(その土地の雇われ餌差)の男が拾って育てておりました。それをそれがしが引き取り、根来衆ねごろしゅうの末裔に預け、武術一式、忍びの技一通りを仕込ませました。ここ江戸へはせがれ三九郎さんくろうの家来として連れて参っておりまする」

 吉宗が『根来衆』という言葉に反応した。

「根来の末裔……まさか、相賀おうがか」
「はい。相賀家の生き残りにございます。今は当家、宮井を名乗らせておりまする」

 戦国時代に栄華を誇った根来寺の鉄砲衆は、豊臣秀吉によって攻め入られた末、寺主であった田中一族は安芸あき毛利家の家臣として西国に逃れた。それを機に他の残党らも散り散りとなったが、やがて彼らは徳川の世が訪れると同時に、尾張徳川家家臣として迎えられ、今も百人番所(江戸最大の検問所)の根来同心ねごろどうしんとして、江戸は内藤新宿に配置されている。
 相賀家は和歌山に隠れ残った数少ない根来衆の中でも、今なお修験者しゅげんじゃとして修業を続けている唯一の忍びであった。つい十年ほど前までは、和歌山城の隠密でもある薬込役くすりごめやくの手先として暗躍していた。

「ほいだら、今は鷹匠見習いの弟子か」
「いえ、餌差を。あれは餌差にもってこいの男でして」
「ほお、……餌差とな」

 吉宗が半端に開いた扇子を口元にあてがった。

「宮井宗次郎。江戸に入る前は、城下で餌差見習いをさせておりました。此度の役どころにうってつけかと……」

 杢右衛門は語尾を濁らせた。吉宗が明確には口にしない依頼事。その答えがこれで正しいという確信はある。
 だが、肝心の吉宗は扇子で口元を隠したきり、黙り込んでしまった。
 さらに一言添える。

「鳥見役以上に自在に動かせまする」

 殺されずに役目をやり遂げましょう――という意味を込めた。
 杢右衛門の思惑通り、意味を理解した吉宗が、眼光炯々とした表情を見せた。
 本来、鳥見役人は、郊外にある御鷹場の鳥や土地の管理をするだけでなく、そこを出入りする人間も監察していた。つまり、隠密的な役割も担っていたのである。

「小鳥を追って、何処へでも気取けどられずに入っていくことでしょう。おまけに彼ら鳥刺しは地を読むことにも」

 ――パチリ

「……長けておりまする」

 杢右衛門が言い終わる前に、音を立てて扇子が閉じられた。

「なるほど、隠密には身分が低い者ほど動かしやすい。で、そ奴、今はいずこに」

 閉じた扇子の下から現れた口元を見て、杢右衛門はやや肩の力を抜いた。

「お会いなされますか」
「ああ。……いや、見るだけで良い」

 殿の気が変わらぬうちに――と、杢右衛門はさっそく吉宗を宗次郎の居そうな場所へと案内した。


 ◇

 御鷹部屋屋敷の外には畑地が広がっている。杢右衛門は吉宗を連れ、畑の脇の護国寺の広大な社を背に川沿いを歩む。
 その先にある鬼子母神堂への参拝帰りだろうか。時折、ススキでできたミミズクの玩具を手にした人々とすれ違う。しかし、使い古しの手拭いを頬かむりにした背後の大男が八代目将軍……上様だと、彼らは露にも思うまい。
 百姓町の中をしばらく行き、目前に武家のお抱え屋敷が見えてきた辺りで、杢右衛門は歩みを止めた。そして近くの雑木の間に身を隠した。
 ここから少し向こうに小川が流れている。その向こう岸にも同じような畑地が広がり、いくつものうねが並ぶ畑を背に、茶店が建っていた。
 杢右衛門は、あれにございますると、その茶店の方を指す。
 若い餌差役人の二人連れである。
 茶店の娘と笑い合っている様を見て、
「天下泰平の世であることが実感できる仕事ぶりであるな」
と、吉宗が皮肉を口にした。

「あの笠を被った小さい方が宗次郎にございます」
「ほう、随分と若いのぉ。しかも華奢なであるな」

 こうやって遠目に見ると、茶店の娘とさして変わらない線の細さである。しかも宗次郎は優男であった。むしろ侍よりも歌舞伎の女形の方が似合いそうな風貌なのだ。
 見たとおりに述べる吉宗の感想を、杢右衛門は黙って聞いていた。

「む!」

 吉宗が何かに気付いたようである。

「どうなされました」
「あ、いや」

 しかし、即座に否定された。
 その時、宗次郎が茶店から離れた。おもむろに根深の苗が植わる畑のあぜに入っていくと、鳥刺し棒を手に、腰を落とした。
 それは一瞬の出来事であった。
 宗次郎の右手が動いたと思った時には、とり餅のついた竿の先に雀がくっ付き暴れていた。

 吉宗の喉から唸り声が漏れていた。

「むう、雀にはヤツが見えておらぬのか」
「あれが宗次郎という男でございまする」

 昼日中、土の上を歩く雀を獲る。そんなことは、あの宗次郎にとって児戯にも等しい。

「しかも、あやつ、わしに気付いていたな」
「そんなはずは……」ない――と答えかけたが、ないとは言えず言葉を呑み込む。

 宗次郎はその境遇ゆえか、気配を察することにかけては神業であった。それが鳥刺しの技に生かされていると言っても過言ではない。

 吉宗が見守っていた光景に背を向けた。そのまま無言で来た道をすたすたと歩きだす。杢右衛門が慌てて後を追った。
 歩きながら吉宗が言った。

「よう、杢右衛門よ。なぜあのような男を隠しておった。もっと早くに使いたかったぞ」

 隠していたわけではない。むしろこの機会を杢右衛門の方が待っていたくらいである。第一、宮井家が江戸に下ったばかりの頃、宗次郎はまだ十五で元服もしていなかったのだから。

「あれは部屋住みの身分。今は斉藤半平太……もう一人の男でございますが、あれの助っ人として働かせている次第で」
「そうけ」

 杢右衛門の言い訳に、素っ気ない相槌が返された。

 残念なことに、三歩後をついて歩く杢右衛門には、吉宗の口角が上がっていることなど、知る由もなかった。
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