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本編
船上にて-2
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「文字が読めない?」
「すみません……」
忘れない内にと、手が空いたタイミングで奏澄は航海日誌のことをメイズに相談していた。あまり読み書きをするシーンが無かったので、メイズも奏澄が読み書きできないことを失念していたらしい。
「やっぱり航海日誌は、誰でも読める方がいいと思って。いい機会だし、文字を勉強したいなと」
「そうだな……。練習にもなるし、それがいいだろう」
「メイズ、教えてくれる?」
当然のように教えを乞うと、メイズが少しうろたえた。
「俺でいいのか?」
「え?」
「俺は、人にものを教えるのに向いていない。マリーに頼んだ方がいいんじゃないか」
その言葉に、奏澄は少なからずショックを受けた。メイズを頼ったのに、別の人を薦められるとは思わなかった。
「そんなこと、ない。私にこの世界のこととか、教えてくれたの、わかりやすかったし」
これはお世辞ではなく、本当にそう感じていた。奏澄の推測だが、おそらくメイズは学のある人種だ。海賊というのはもっと粗野なイメージがあったが、メイズと会話していると、思考しているのがわかる。奏澄のようなタイプと接するのに慣れていないのは時々感じるが、それをカバーできている。地頭がいいのだろう。
「メイズが面倒じゃなかったら、メイズに教えてほしい」
マリーに頼んだとしても、多分快く引き受けてくれるだろう。異なる世界から来たことも明かしてある、文字が読めないことを馬鹿にしたりはしないだろう。商人だから、説明も得意なはずだ。
だが、奏澄はあまり頭の回転が早い方じゃない。飲み込みが悪くても根気よく付き合ってくれる相手を選ぶなら、メイズの方が気が楽だ。
それを抜きにしても。何かを『教わる』ならメイズがいい、という気持ちがあった。
「……わかった。解りにくくても文句言うなよ」
「大丈夫!」
笑顔で返した奏澄に、メイズは息を吐いた。
*~*~*
「……………………」
「……大丈夫か」
「なんとか……」
書庫から比較的簡単な文章の本をテキストとして用意し、メイズから教えを受ける奏澄。自ら望んだことだが、その表情は暗い。
語学の習得がとても難しいことは覚悟していたが、何となく言葉は通じているからいけそうな気がしていた。なんなら五十音の文字を覚えれば読める感じなのでは、くらいに思っていた。全然違った、と奏澄は項垂れた。
基本的な構造は英語に似ている。文字はアルファベットに近い。だというのに、発音されるのは日本語の音。話す語順と文法が合わない。混乱する。
日本人が英文を考える時の悪い癖として、まず日本語を考えてから英語の構文に組み立て直してしまうと言う。それよりは、最初から英語の構文で考えられた方が良いそうだ。
しかし、それは当然話すのも書くのも同じ構文の場合だ。奏澄の場合、今書いているこの構文を最初から頭の中に作ると、今度は話す言葉が合わなくなる。
最悪単語ぐらいなら丸暗記していけば何とかなるかもしれないが、それではまともな文章にはならないだろう。
何故こんなにもややこしい言語なのか。意図せず顔が険しくなる。
「そんなに難しいか」
「私の世界にも似た文法の言語はあったけど、私の国のものとは全く違うし。それに、問題はそこじゃなくて、なんか気持ち悪いというか」
「気持ち悪い?」
そう。一番しっくりくる表現は、気持ち悪い。この奇妙にずれた感覚は、いったいどこから来るのか。
考えるように口元に手をやり、文章を呟くメイズの口元を見つめる奏澄。そういえばヘレン・ケラーは言葉を話すために唇に触れて学んだんだったか。いや、言葉は話せるのだからそこじゃない、と考えを振り払ったところで、急に違和感に気づいた。そして再度メイズの口元を注視する。
「メイズ。ちょっと、ここの一文を、私の方を見てゆっくり発音してみてくれない?」
「何? お前、発音は別に」
「いいから、お願い」
怪訝な顔をしながらも、言われた通りにするメイズ。それを見て、違和感の正体に気づいた奏澄は額を机に打ちつけた。
「ああああ、やっぱり。そういうことか」
「なんだ、いったい」
「見てもらった方が早いかな。私も同じ一文を読むから、口元を見ててくれる?」
またしても怪訝な顔のまま、ゆっくりと発音する奏澄の口元を注視するメイズ。奏澄が話すのを聞いて、その眉間の皺が深くなった。
「なんで、そうなる」
「ですよね。私も、そう思った」
まるで奇妙なものを見たかのような顔をして、メイズは考え込んだ。
「……喋っている言語が、違う?」
「多分、そういうことなんじゃないかと」
奏澄がメイズの口元を見て気づいたこと。明らかに『聞こえる言葉』と口の形が合っていない。つまり、耳に聞こえる音と、メイズが発している音が違う。ということは。
「言葉が通じたのは、同じ言語を喋っていたわけじゃなくて……どういう理屈かわからないけど、お互いの言語に翻訳された状態で聞こえてるみたい」
言葉は通じる。だから、同じ言語を話しているのだと、ずっと思っていた。
前提が、そこから違っていたのだ。
人の口元を凝視することなどそうはないし、誰かと会話をする時はいつもいっぱいいっぱいだったため気づかなかった。だが、意識してみると、全く読唇ができない。
「となると、俺が文字を指しながら読み上げても、その音通りには聞こえていないわけか。それは……確かに、混乱するかもな」
「うー……。でも、原因がわかっただけ、多少マシ、だと、思う。そのつもりで聞けば多分理解できるから」
要は吹替と同じようなものだろう。吹替で聞きながら英語字幕を見ている。若干違う気もするが、そう考えればやってやれないことはない。と思うしかない。
「覚えが悪くて申し訳ないけど、引き続きよろしくお願いします」
「別に覚えは悪くない。学ぶ土台ができてるからな。セントラルに着くまで時間はある。ゆっくりやればいい」
優しい言葉に甘えたくなるが、あまりゆっくりもしていられない。セントラルに着くまでにある程度習得できなければ、セントラルでの情報収集は口頭に限られてしまう。それは避けたい。
しかし焦っても身にならないのはその通りなので、まずはテキスト代わりの本をまともに読めるようになろう、とページに視線を向けた。
「そういえば、書庫の中身残ってたんだね。本は全部商人の人たちが持って行ったかと思ってた」
「それは……」
奏澄としてはただの雑談のつもりだったが、珍しくメイズが言い淀んだ。
「何かメイズが読みたいものがあったの?」
本は売り物になるはずだ。何も言わなければ、商人たちが回収しただろう。しかし、メイズが希望したなら残っていてもおかしくはない。
「俺じゃない」
「え?」
あの時点では、メイズと奏澄の二人しかいなかった。不思議に思って首を傾げる奏澄に、メイズは視線を逸らして答えた。
「……お前が、そういうものは、好きかと思って」
目を見開く奏澄。何が好きだとか、嫌いだとか、そういう話はあまりしていない。その中で、メイズが自分のために。好きそうなものを、喜びそうなことを、考えてくれた。
海賊船の中に元々何があったのか、奏澄は知らない。奏澄が内部を見たのは、商人たちが引き上げた後だからだ。それでも、想像することはできる。海賊船にありそうなもの。金銀財宝、アンティーク。そういったものの中で、宝石でもレースでもなく、本を残すという選択をしたメイズ。
何故だか無性に気恥ずかしくて、嬉しくて、むずむずした。
「うん。好き。ありがとう」
はにかむように笑った奏澄に、メイズはぶっきらぼうに返事をした。
「すみません……」
忘れない内にと、手が空いたタイミングで奏澄は航海日誌のことをメイズに相談していた。あまり読み書きをするシーンが無かったので、メイズも奏澄が読み書きできないことを失念していたらしい。
「やっぱり航海日誌は、誰でも読める方がいいと思って。いい機会だし、文字を勉強したいなと」
「そうだな……。練習にもなるし、それがいいだろう」
「メイズ、教えてくれる?」
当然のように教えを乞うと、メイズが少しうろたえた。
「俺でいいのか?」
「え?」
「俺は、人にものを教えるのに向いていない。マリーに頼んだ方がいいんじゃないか」
その言葉に、奏澄は少なからずショックを受けた。メイズを頼ったのに、別の人を薦められるとは思わなかった。
「そんなこと、ない。私にこの世界のこととか、教えてくれたの、わかりやすかったし」
これはお世辞ではなく、本当にそう感じていた。奏澄の推測だが、おそらくメイズは学のある人種だ。海賊というのはもっと粗野なイメージがあったが、メイズと会話していると、思考しているのがわかる。奏澄のようなタイプと接するのに慣れていないのは時々感じるが、それをカバーできている。地頭がいいのだろう。
「メイズが面倒じゃなかったら、メイズに教えてほしい」
マリーに頼んだとしても、多分快く引き受けてくれるだろう。異なる世界から来たことも明かしてある、文字が読めないことを馬鹿にしたりはしないだろう。商人だから、説明も得意なはずだ。
だが、奏澄はあまり頭の回転が早い方じゃない。飲み込みが悪くても根気よく付き合ってくれる相手を選ぶなら、メイズの方が気が楽だ。
それを抜きにしても。何かを『教わる』ならメイズがいい、という気持ちがあった。
「……わかった。解りにくくても文句言うなよ」
「大丈夫!」
笑顔で返した奏澄に、メイズは息を吐いた。
*~*~*
「……………………」
「……大丈夫か」
「なんとか……」
書庫から比較的簡単な文章の本をテキストとして用意し、メイズから教えを受ける奏澄。自ら望んだことだが、その表情は暗い。
語学の習得がとても難しいことは覚悟していたが、何となく言葉は通じているからいけそうな気がしていた。なんなら五十音の文字を覚えれば読める感じなのでは、くらいに思っていた。全然違った、と奏澄は項垂れた。
基本的な構造は英語に似ている。文字はアルファベットに近い。だというのに、発音されるのは日本語の音。話す語順と文法が合わない。混乱する。
日本人が英文を考える時の悪い癖として、まず日本語を考えてから英語の構文に組み立て直してしまうと言う。それよりは、最初から英語の構文で考えられた方が良いそうだ。
しかし、それは当然話すのも書くのも同じ構文の場合だ。奏澄の場合、今書いているこの構文を最初から頭の中に作ると、今度は話す言葉が合わなくなる。
最悪単語ぐらいなら丸暗記していけば何とかなるかもしれないが、それではまともな文章にはならないだろう。
何故こんなにもややこしい言語なのか。意図せず顔が険しくなる。
「そんなに難しいか」
「私の世界にも似た文法の言語はあったけど、私の国のものとは全く違うし。それに、問題はそこじゃなくて、なんか気持ち悪いというか」
「気持ち悪い?」
そう。一番しっくりくる表現は、気持ち悪い。この奇妙にずれた感覚は、いったいどこから来るのか。
考えるように口元に手をやり、文章を呟くメイズの口元を見つめる奏澄。そういえばヘレン・ケラーは言葉を話すために唇に触れて学んだんだったか。いや、言葉は話せるのだからそこじゃない、と考えを振り払ったところで、急に違和感に気づいた。そして再度メイズの口元を注視する。
「メイズ。ちょっと、ここの一文を、私の方を見てゆっくり発音してみてくれない?」
「何? お前、発音は別に」
「いいから、お願い」
怪訝な顔をしながらも、言われた通りにするメイズ。それを見て、違和感の正体に気づいた奏澄は額を机に打ちつけた。
「ああああ、やっぱり。そういうことか」
「なんだ、いったい」
「見てもらった方が早いかな。私も同じ一文を読むから、口元を見ててくれる?」
またしても怪訝な顔のまま、ゆっくりと発音する奏澄の口元を注視するメイズ。奏澄が話すのを聞いて、その眉間の皺が深くなった。
「なんで、そうなる」
「ですよね。私も、そう思った」
まるで奇妙なものを見たかのような顔をして、メイズは考え込んだ。
「……喋っている言語が、違う?」
「多分、そういうことなんじゃないかと」
奏澄がメイズの口元を見て気づいたこと。明らかに『聞こえる言葉』と口の形が合っていない。つまり、耳に聞こえる音と、メイズが発している音が違う。ということは。
「言葉が通じたのは、同じ言語を喋っていたわけじゃなくて……どういう理屈かわからないけど、お互いの言語に翻訳された状態で聞こえてるみたい」
言葉は通じる。だから、同じ言語を話しているのだと、ずっと思っていた。
前提が、そこから違っていたのだ。
人の口元を凝視することなどそうはないし、誰かと会話をする時はいつもいっぱいいっぱいだったため気づかなかった。だが、意識してみると、全く読唇ができない。
「となると、俺が文字を指しながら読み上げても、その音通りには聞こえていないわけか。それは……確かに、混乱するかもな」
「うー……。でも、原因がわかっただけ、多少マシ、だと、思う。そのつもりで聞けば多分理解できるから」
要は吹替と同じようなものだろう。吹替で聞きながら英語字幕を見ている。若干違う気もするが、そう考えればやってやれないことはない。と思うしかない。
「覚えが悪くて申し訳ないけど、引き続きよろしくお願いします」
「別に覚えは悪くない。学ぶ土台ができてるからな。セントラルに着くまで時間はある。ゆっくりやればいい」
優しい言葉に甘えたくなるが、あまりゆっくりもしていられない。セントラルに着くまでにある程度習得できなければ、セントラルでの情報収集は口頭に限られてしまう。それは避けたい。
しかし焦っても身にならないのはその通りなので、まずはテキスト代わりの本をまともに読めるようになろう、とページに視線を向けた。
「そういえば、書庫の中身残ってたんだね。本は全部商人の人たちが持って行ったかと思ってた」
「それは……」
奏澄としてはただの雑談のつもりだったが、珍しくメイズが言い淀んだ。
「何かメイズが読みたいものがあったの?」
本は売り物になるはずだ。何も言わなければ、商人たちが回収しただろう。しかし、メイズが希望したなら残っていてもおかしくはない。
「俺じゃない」
「え?」
あの時点では、メイズと奏澄の二人しかいなかった。不思議に思って首を傾げる奏澄に、メイズは視線を逸らして答えた。
「……お前が、そういうものは、好きかと思って」
目を見開く奏澄。何が好きだとか、嫌いだとか、そういう話はあまりしていない。その中で、メイズが自分のために。好きそうなものを、喜びそうなことを、考えてくれた。
海賊船の中に元々何があったのか、奏澄は知らない。奏澄が内部を見たのは、商人たちが引き上げた後だからだ。それでも、想像することはできる。海賊船にありそうなもの。金銀財宝、アンティーク。そういったものの中で、宝石でもレースでもなく、本を残すという選択をしたメイズ。
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