想い、くゆる。

谷地雪@第三回ひなた短編文学賞【大賞】

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想い、くゆる。

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志保しほ

 病室の入口から聞こえた柔らかい声に、私はベッドの上でぱっと顔を輝かせた。

鷹斗たかとくん」
「窓開けてるのか? 今日天気いいもんな」
「そうなの。風が気持ちいい」

 微笑んだ私の視線に合わせて、鷹斗くんも揺れるカーテンを見つめる。
 こんな時間が心地いい。穏やかな、ゆったりした時間が流れていく。

「そうだ、これ。志保が読みたがってた本」
「わ、ありがとー!」

 鷹斗くんがテーブルに置いてくれたのは、最近映画化されて話題になった本。
 病院の売店には置いてなかったし、私は外に買いに行けない。
 だから頼んだのだけど、私がお願いしたのは昨日だ。

「嬉しいけど、さすがに毎日来てくれなくてもいいんだよ?」
「いいの。俺が来たくて来てるんだから」
「……ありがと」

 はにかんだ私に、鷹斗くんが緩く目を細める。
 この顔が、とても好き。
 
 ぱらり、ぱらり。ページをめくっていく。黙って本を読む私の側で、鷹斗くんも自分の本を読んでいる。
 ここだけ時間の流れが違うみたいだ。

 鷹斗くんは、私に「体調どう?」とは聞かない。
 私も、鷹斗くんに「仕事いいの?」とは聞かない。
 だって答えは決まっているから。そんな無意味なことはしない。
 特別なことはしない。ただただ、毎日を穏やかに過ごす。

 一人だったらきっと、耐えられなかった。
 優しい恋人がいて良かった。
 こんな幸福な終わりを迎えられるなんて、私はなんて恵まれているんだろう。

「大好きよ、鷹斗くん」
「俺も好きだよ、志保」

 惜しみなく愛を与えてくれる最愛の人は、そっと私の額にキスを落とした。



 ×××



「遺産は全部【鷹斗】に渡す……!? なんだよ、この遺言書!!」

 ガシャン、と花瓶が割れる音がした。見る人のいなくなった花は既に片付けられていたので、中身は空で、破片だけが飛び散った。
 病室には三人の男がいた。落ち着いた若い男が一人。怒り狂った中年の男が一人。弁護士バッジを付けた初老の男が一人。
 弁護士の男が、厳しい顔で口を開く。

「静かにしてください、病室ですよ」
「個室なんだから、文句ねぇだろ! あいつだってもう死んだんだし!」

 遺体は既にこの場には無い。ただ、残された荷物の引き取りや手続きのために、家族が病院に呼ばれていた。
 この部屋に入院していた、志保の夫が。
 
「俺はあいつの旦那だぞ!? 相続権は俺にあるだろ!」
「しかし、故人のご遺志ですので。遺言書は確かに、この通り私が託されております」

 それを提示した弁護士は、荒々しい男の語気にも怯まず、淡々と発言した。

「ふざっけんな! こんなどこの馬の骨とも知れない赤の他人に、なんで俺の金を渡さないといけねぇんだよ!」

 胸倉を掴まれた若い男は、はっと鼻で笑い飛ばした。

「赤の他人、ねぇ。あんたの方が、よっぽど赤の他人じゃん」
「なんだと!? 俺はあいつと結婚してたんだ!」
「紙切れ一枚の関係だろ。それだって、病気がわかったらすぐ放棄しようとしたくせに」
「なに……!?」

 乱暴に手を振り払って、若い男――鷹斗は、志保の夫を睨みつけた。

「あんたは志保さんの病気がわかった途端、離婚しようとした。けど、思ったより余命が短いことがわかって、それなら死んでから全ての遺産を貰おうと企んだ。でもあんたは、志保さんを病院に放り込んだきり、一度も会いに来なかった。死に顔さえも見ようとしなかっただろ。それで金だけ毟り取ろうなんて、よく言えたもんだな」

 かっと顔を赤くした志保の夫は、指をさして怒鳴り散らす。

「夫婦の問題だ、口出しされることじゃない! お前こそ、人の妻に手を出して、こんなの不倫だろ! 慰謝料請求してやるからな!」
「ばっかじゃねぇの。書類も読めないんだな、あんた」

 鷹斗が広げたのは、志保のサインが入った一枚の契約書だった。

「俺は介護職員だよ。終末期医療の患者に向けた、介護サービスの担当者だ」
「か、介護……?」
「元々は、天涯孤独の患者さんに、家族のふりをして接する職員だった。医療関係者としか会話しないことに孤独を感じる人は多かったからな。そこから患者さんの希望に応じてサービスの幅が広がって、友達や恋人、色んなをつけられるようになったんだ。家族間の関係性が悪い人や、あんたみたいに一度も会いに来ない奴もいるからな。本人の同意だけでサービスの利用はできる」

 志保の夫がぐっと言葉に詰まった。許可していない、と言いたかったのだろう。治療方針だってろくに聞いていないくせに、何故口を出せると思ったのか。

「志保さんの希望は三つ。恋人として接すること。名前をたくさん呼ぶこと。同じ本を読んで感想を言い合うこと。たったこれだけ」

 大股で詰め寄って、鷹斗は志保の夫の胸に契約書を叩きつけた。

「たったそれだけしかしない、ニセモノの恋人以下だったんだよ、あんた」

 吐き捨てて、鷹斗は病室を出て行った。後の手続きは、弁護士がうまくやってくれるだろう。

 病院の屋上に出ると、涼しい風が頬を撫でた。
 あんなことがあっても、天気は関係なく晴れやかで、爽やかな風が木々を揺らす。
 病室では一度も吸うことのなかった煙草を一本取り出して、鷹斗は火をつけた。
 
 自分はニセモノの関係しか築けない。
 鷹斗というのも偽名だ。接する患者ごとに名前を変える。
 患者は皆死んでいく。思い出には残らない。遺族には恨まれることもある。
 それでも。

「志保さん、いい笑顔だったな……」

 自分だけが見た、最期の顏。
 愛しい恋人に向ける、最高に美しい笑顔。
 あれを誰も知らないのは、もったいないから。
 その顔を、鷹斗の名と共に、自分の思い出として胸に仕舞う。

 ――俺が、覚えてる。

 鷹斗の役割を終えた自分には、またすぐに新しい役割が与えられる。
 だから今だけ。
 この煙草が消えるまでの間だけ。
 恋人として、あの人を弔おう。

 ゆっくりと、穏やかに。
 細く空に昇っていく煙を、ただ眺めていた。
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