30 / 49
第二七話 次に行く先
しおりを挟む
商業都市マニラウ、その街の一画。街の中央に近い場所に位置する大通りのとある店。いつでも活気づいた店内には未だに勇選会の話題が残り、皆が大いに食事を楽しんでいる。
その店の名前は『ピーリー焼肉店』。普通のステーキやハンバーグの他にも、香辛料の効いた辛いメニューや、物好きの為の食材まで揃っていた。働く店員も客に劣らず元気が漲っている。しばしば来客がピークに達した時間帯に何かしらのパフォーマンスを披露することもある程、サービス精神が旺盛であった。
「なあ聞いたか?勇者パーティにウノン・カピトのメンバー以外にも一人加入したってさぁ!」
「ああ聞いた事あるよその話。何でもその追加メンバー、スピットと同い年位だとか。後さ、結構前にマニラウに居たかもって話もあるが?」
「何ぃ!?知らんぞ俺はっ!そういう事は早く教えてくれって言ってるだろー!?」
「悪りぃな、だがそんな時間無かったろう。俺も聞いただけだから詳しくは…」
片方が喋る時にもう片方が食べている。これはこの店で毎日行われる噂話だ。最新の情報が飛び交ってはいるのだが、結局それも伝聞に過ぎず、実際それが起こったのは数日から数週間も前の話。工場で働くために私事は後回しで、もれなく情報に疎くなっている。だがそれでも彼らは構わない、だってそれだけでも十分の娯楽になるからだ。
しかし、ここ最近になって新たな噂が広がり始めていた。勇者一行がマニラウに居た、と言う話は知っていたがその後は誰も知らない。そこで誰かがこんな話を持って来たのだった。
「あんたは聞いた事ある?ディザントの現状をさ!輸入も輸出も制限されてて、何かやばい事でもやらかしたんじゃないか?確かなのは、ディザントで何かが起こってるって事だ!」
どこの誰が広め始めたのか分からないが、その信憑性は高く、新たな噂は瞬く間に拡散していった。話題の割合で言えば、勇選会四割、新たな噂が五割、一割はその他の話をしているか黙っている。連日話題には尾ひれが付いたり、様々な憶測が飛び交っている。客がそんな会話をしていれば否応無し店員の耳にも話題は入る。興味本位で聞き込んだり、吹っ掛けられたり、あるいは勝手に耳に入ってから離れなくなる。
「リタちゃん元気出しなって!あの子の事だ、大丈夫だよ!」
彼女は客にプレートや皿を配り終え、厨房の小スペースで休息をとった。やっと一息つける時間を手に入れたと思うのに、ほっと一息とは言えない位に重いため息を吐いたのだった。それを見かねた裏方担当の女性が元気付けようと声をかけるが、過去に何度も繰り返したそれに効果は無かった。
「ずっとあの調子だよ、客の前じゃ平気なふりは出来てもね…はぁ、こっちが滅入って来るよ」
「そっとしておいてあげなさい。仕方ないじゃ無いか、彼氏が一ヶ月も姿を見せないんだからよ」
「……今あの子の事彼氏って?」
「違うのか?」
店長の五十路の男と調理担当の女性が小声で話し合っていた。ちらっと問題の少女を見ると、また大きなため息を吐き、組んだ腕に顔を押し込む。次に仕事が来るまでずっとあんな感じである。接客時なら明るく振る舞えると言っていたが、それでも時々窓の外へ目を移し、寂しそうに息を吐くのを彼らは知っていた。
「で、今はどうか知ってるか?それも長い事蔓延ってるだろ?」
「聞いたとこによると、食糧の輸入が増えたとか言ってたな。モンスター共の被害が増えるだけじゃねーのかね」
「…今俺が言おうとした事を…」
それでも噂話は止まる事を知らず、一人の少女は不安を募らせるばかりだった。いつしか何十と居た客は引いて行き、昼のラッシュの時間が過ぎた事を察した。この場所の飲食店は主に工場で働く人向けの場所、夜になるまで再び客が来る事はそうそう無い。
静まり返った店の小スペースにて店長は食材の在庫の確認と会計とを照らし合わせ、調理担当の女性とリタがテーブルを拭いて周り、裏方担当の女性は洗い終えた食器類を片付けて店の前の掃き掃除を始める。毎日繰り返す動作は洗練されていて、たった数分で完璧に終わらせてみせた。だが店長の仕事はまだ終わっていないようだ、数分で終わるものでは無いから。
女性陣は思い思いの行動をとった。少女は長椅子に座るとテーブルに頬を擦り付けて傷心に浸り、歳を重ねた大人の女性は店の外で話し合った。彼女を気遣って声の届かない場所を選んだのだ。
「あんなになってどれくらい経つかしらね」
「一週間経った辺りから徐々に悪化していってる気がするわ」
「そうよねぇ…いつも通りなら噂になって何かしら情報が出るのに、それも無いからねぇ」
そう言って二人して窓越しのリタに目を向ける。店内を向いて居てもどこか哀愁を帯びていると感じた、それは時折ため息をして背が膨らんでいるからか。さっと横並びの状態に戻ると二人もため息を漏らした。手慰みに箒で石畳を掃きながら裏方担当の女性が話し始めた。
「あの調子じゃいつ仕事に手が回らなくなるか分かったもんじゃ無いよ」
「そうだね…勇者になって、もしかしたら普通の英雄らよりもリスク高い仕事してるかもだし、こっちだって一概に生きてるから大丈夫とも言えないしねぇ…あら?ラーク、どうかしたかい?」
調理担当の女性が裏方担当の女性、ラークの呆けた顔を見て問いかけた。見ているうちに引き攣った笑顔に変わって行くのを見て、どうしたものかと後ろを見た。
「あっ…」
あまりに突然の訪問に言葉が詰まった。殆ど人の居ない大通りに九人の集団が突然現れたのだ。一人一人は完全に私服だが、明らかに質の良さそうな生地と、この街でも珍しい比較的派手な模様があった。若者が多くも、一人の老人と一人の海エルフを仲間とした不可思議な連中だった。だが、その誰よりも先に一際目についた人物がいた。
「グレタ!多分うち来るよ!早く準備しなくちゃ!」
「わ、分かってる!急げ急げ!」
快活に店内に戻ってきた二人組は始めに店長へこの事を伝えた。彼はもう少しで確認を終える所でそれを知らされ、喜ばしくも少し面倒そうな顔をした。遠くで聞いていた少女は腕で上体を押し上げ、口も開いたまま目を輝かせてほくそ笑んだ。
彼らが家の中以外で鎧を脱ぐのはいつぶりなんだろうか。俺は一度も鎧を着ずに外を歩いている所は見た事はない、それは確かな事だ。鎧を脱ぎ捨てると印象の変わる人と変わらない人が居た。ジラフとスピットは変わらなかったが、バトラは結構印象が変わった。岩石と鉱石でできた上半身の鎧と、腰と足の鉄の装甲を外すと、丈夫そうな筋肉が見え、一際背中が隆起していた。
「まあ、弓を引くためなんだからこれぐらいあって当然だろ?」
と、おちゃらけた様に言っていた。別に普通に暮らす分には筋肉質だなぁと思うくらいだった、しかしいざ弓を引くとなると、広背筋が一瞬で増大したかに見えた。これが戦闘で培われた肉体なのかと少し戦慄した。
「でさー…確か勇者ってもう一人居たよな?あの人はどこに?」
声を上げたのはレイルだった。この九人は、勇者五人とウノン・ジード四人で構成されている。ディザントの英雄は、大体砂対策で鎧の上に布を巻いたり、そもそも遠距離主体故に鎧も着ない人が多い。さっきの話を続けるなら、印象が変わったのは頭を布で包んでいたリルくらい。
「アイツならマニラウにはもう来てるはずさ。鎧を直すってから」
「そう…じゃああの人も私服晒してるわけだ」
「いいや、どっから持って来たのか昔使ってた鎧を着てった。少し小さいらしいけど問題無いってさ」
へーと言うレイルは目を細め、頭の後ろで手を組む。彼らが共にやって来たのには理由がある。別に特別でも何でもないが、今回の討伐の貢献から、それ相応の場所へ食事をしに行こうとなって誘ったのだ。ディザントの飲食店にはあまり凝った物は出されない、他の大きな街のレストランと比べたら質素も質素だ。たまにはこっちも良いだろうと思っての事だった。
「ここだよ。俺のおすすめ」
「あ、ここ…来た事あるじゃん」
俺が指をさした店は『ピーリー焼肉店』、かれこれ一ヶ月以上も来ていない。しかしピークの時間はいつでも同じだ、それが過ぎ去れば全く人はいないと言っていい、少しみんなに待って貰ったのはこの為だ。にしても、スピットの口ぶりからしてつい最近ここに来ていたらしい。もしかしなくてもあのお祭りの日だろうか。
ドアを押すと、チリンと聞き慣れた鈴が鳴った。店内は狙い通りに閑散としている、反対に何度も見た厨房は慌ただしい。さっきまで外で何かを話していた二人は、俺たちに気付くなり店に戻った。その時からずっとあんな具合なんだろう。
「おお…ガラガラだぁ」
スピットは店内を見渡して呟き、何か世間って狭いんだな、と続けて仰いだ。俺はそれを尻目に呼び出しのベルを鳴らした。必要ではないかもしれないけど、一応の所作だ。すると直ぐに厨房から、好きな所に座っていて下さいな、と声が飛んできた。それに従い、俺たちは四人ずつに分かれて窓際のテーブルに座った。メルは一人が嫌だからと言ってついて来ただけで、鎧のせいで食べられはせず、すぐそこでゆらゆらと浮いている。
砂漠組はメニューを見ているだけでとても楽しそうだった。元々テーブルの端に立て替えられたそれを手に取ると、以前よりも確実に分厚くなっていた。商品数は変わらなかったが、そこには絵が付け足されていた。俺の知る物と似ていたが、写真ではなくあくまで絵だから見劣りする。それでも十分美味しそうに見えるから凄いものだ。
「おい…特別メニューっての見てみろよ…」
もう一冊を持っていたバトラがあるページに指を置いた。そっと覗き見ると、目を覆いたくなるようなゲテモノが目に飛び込んできた。特別メニューだからと今までスルーしていた料理だが、いざ絵が付くと別の意味で忌避感が大きくなった。
「どれ、いっちょ『ボイルドグラフォト』いってみよう」
その時みんなが無言で目を見開いてジラフを見た。話を聞いているだけだった砂漠組すらも振り向いた。彼の顔を見るに、とても楽しみにしている。しかし砂漠から出てきて最初に食べる物がそれとは、どうにも理解し難かった。
「…別にいいか。俺らは普通のやつを頼もっ」
それから皆は食い入る様にメニューを見て、次々と頼む物を決めていった。結果『シィラステーキ』を三つ、『アングラスライス』一つ、『ボイルドグラフォト』一つ、『リリムロステーキ』一つ、『オーヴステーキ』と『オヴンステーキ』を一つずつとなった。最後の二つは名前からも分かる通り、同じモンスターか家畜の肉を使っている。どうも部位が違うらしく、名前は似ているが全くの別物らしい。こう言う系統は結構ある。
ようやく全員の食べたい物が決まり、注文をするためにスピットが手を挙げた。それを見た店長は厨房の死角へと合図を送る。そして少しだけ間を開けて、少女がメモ帳を片手にやって来た。足取りは見知った通りに軽く、見せる笑みははち切れんばかりだった。彼女は一人一人から注文を聞き取り、メモにそれを認める。最後に俺の注文をメモに記すと、了解しました、と元気に声を張る。最後に俺を見て微笑むと、さっと振り向いて厨房へ行ってしまった。俺は彼女が微笑んだ時、少し目が腫れ、頬が赤く染まっている気がした。
「じゃあ、来るまでは暇だし、次に行く場所決めとく?」
スピットが暇つぶしにと話を持ちかけた。最初からこの為に食事会を開こうと言い出したのかもしれないと俺は思った。砂漠組はまた違う話題で盛り上がり、メルもテーブルまで呼んで、五人で話し合った。
大きな街は全部で六つある。まずは『マニラウ』言わずと知れた商業都市。そして砂漠の街『ディザント』今までいた所。そして平たい火山の上に造られた『王都トエント』この国の中心。ここまでは俺の知っている街だ。残りの三つは、水産の街『プライトル』海に面し、食に関する技術がとても進んでいると言う。火山下で栄えた街『フォルガドル』畜産が最も重宝されている。最後に『オーキンス山下』鋼鉄の山の麓の排他的な街。最近になって外にもオープンになったと言われている。
「で、択として残るのはヒカルの行ったことない土地だから、フォルガドルかプライトルかオーキンスって事になる」
「オーキンスは論外だろ?俺だって依頼された時しか行った事なかったぜ。あそこの老いぼれの目が怖かったぜ」
「確かに、俺もプライベートでは行きたくないな」
俺以外の男三人が口々に言う。俺は氷水の入ったピッチャーを傾けながらそれを聞いていた。未踏の地ならどこでもいいと思っていたから、彼らの決定に従う事にしていた。だからわざわざ会話に参加するまでも無い。今はマニラウから近い土地に行こうと言う話になっていて、どっちが近いか絶賛計算中だ。
「プライトルに行くとすると、テスタからラモサステンを通るだろ?フォルガドルに行くとすると、テスタからピモレーとリチュードを通る。ガドルルートだと村同士の距離が近くて、ラトルルートだと遠い。どうすっか?」
とは言えどちらも道のりが似たり寄ったりで決めかねている。違いは休憩できる場所が一箇所か二箇所かの違いだった。結局行き先を決めるのは俺に託されたのだった。そこで、ある事を尋ねてみた。
「聞きたいんだけどさ、その二つのある方角って分かる?」
それに、少し面食らった様子でジラフが答えた。
「ああ、どっちも西側だな。プライトルよりもフォルガドルの方が多少南寄りだ」
「それならプライトルにしていいかな、道が素直そうだから」
俺は迷いなく答えた。少しだけ街と村の位置関係を考えてみたが、どちらかに決めるなら道が簡単な方が良さそうだと思った。それを受けてみんな面白そうに笑った。
「いやーさ、薄々分かってたよ。いきなり火山には行きたく無いわな。確かに道はまっすぐだし、俺らからすればそう時間もかからんだろうさ」
口角が上がったままバトラが言った。また他の人達も考えは同じらしく、揃って笑みを浮かべていた。すると、メルがバッとテーブルに手を付いて身を乗り出し、そこからは彼女が話し手となって会話は続いた。
「実はね、近いうちに一度実家に帰ろうって思ってたの。私が英雄になってから一度も帰ってなくてね、泣きながら送ってくれたお母さんはどうしてるかな~って思ってたの。勇者になったんだし、頃合いかなって」
メルは終始笑顔だった。よっぽどそれを望んで居たらしい。しかし、不意にメルの眉間に僅かだが皺が寄る。スピットに鋭い目線を向けながら尖った口で言った。
「そう言えばさ、ここで決めて良かったの?ターラがいないのにさ」
やけに棘のある言い草だった。確かに一人欠けた状態で行き先を決めても良いものだろうか。そんな懸念をよそに、スピットは何食わぬ顔で言い返した。
「そこは心配ないさ、事前に聞いてあるから。『私はお前たちの決定に従う。元々後を追っていただけだから、どうなろうと断る事は無い』ってさ」
そっか、と微かな声を漏らしメルの表情が和らいだ。その時、覆鎧の向こうに人が見えた。油の弾けるプレートを四つ器用に持ち、隣のテーブルの前で立ち止まった。確か料理を担当していたその人は、屈んで速やかにそれぞれの注文した品を配置していった。
「こちらのテーブルはこれで全てですね?今からでもセットに変更できますが、どうなさいますか?」
慣れた口調での定案だった。予想に過ぎないが、以前までは彼女がウエイターだったのだろう。そんな事を考えている内に、俺たちのテーブルにもプレートと皿が運ばれて来た。メルはいつのまにか遠くに離れていて、彼女はまっすぐに向かって来た。
「おまちどうさまです。シィラステーキと、アングラスライスと、リリムロステーキと、ボイルドグラフォトです。アングラスライスに付いているライスは後になりますが、これで全てで大丈夫ですね?セットにする、もしくは追加の注文はありませんか?」
相変わらずのハキハキとして透き通った声。ありません、と言われて一礼する姿も自然で美しい動作だった。ベテランの人の、豪快でありながら全く不快に感じない接客とはまた違う、優美で彼女らしい丁寧な身のこなしだった。彼女は礼の動作から、流れるように椅子に腰掛けた。そこは俺と背中合わせの席で、静かなら吐息も聞こえるくらいに近かった。
「おーっし!食おうぜ!」
「こら、行儀が悪い」
いち早くナイフを握ったスピットにジラフが小言を言った。とは言え、これを皮切りにみんながステーキやハンバーグを食べ始めた。ある程度の会話を続けながら、ひたすらに肉を頬張っていた。俺も早速初めて食べるリリムロステーキを切り分け始める。
「なあそれ、前も食べてなかったか?プライトルのやつじゃダメなの?」
「あっちじゃこんな調理はしないから珍しくて。アンギャモアって生も美味いぞ?ちょっと炙ってあるけど」
そう言ってバトラはフォークに刺した刺身のような物を口に放り込んだ。後からバトラの元には、調理担当の女性が茶碗を持って着ていた。それには米が盛られており、バトラは刺身を飲み込む前に米を口に入れた。そして彼は目を瞑り、天を仰いで美味いと言った。大方味を知っている側から見れば分からんでもないが、スピットからすぐさまツッコミが入った。
「なぁ…そんなに美味いのか?前も思ったけどさ、よくアレを生で食えるよな」
「美味いから良いじゃんか!ライスってのがスッゲェ合うんだこれにっ!」
バトラは真新しい味に感激していた。俺は過去に何度も食べているから驚きはしないが、やっぱりこの世界だとあまり有名な料理ではないらしい。ただし、美味いは共通だった。
「確かそれ、イデの料理だっけ?聞いたことしかないがそれだろう」
ジラフがゲテモノをフォークに突き刺したまま口を挟んだ。心臓っぽいそれは火を通してあったが生々しく、申し訳程度の焼き目が付いているだけだった。涼しい顔をして赤黒い塊を噛んでいるが、周りの目はまるで害虫でも見つけたかのように引き攣っている。俺には血合のような味しか想像できないが、実際どうなのだろう。あるいはそれよりも鉄味が強そうだ。
「あら、アンタ知ってるのかい?正解さ、イデの料理を参考に作ったのさ」
そう野次を飛ばしたのは調理担当の女性だった。身を屈めてテーブルに両肘を付き、ジラフの知識に好奇心を抱いた目を向けている。ここでスピットの手は止まり、完全に話にのめり込む。
「マジすか⁉︎」
彼は頬の膨れたままくぐもった声を張り上げる。クスクスと細く笑い、女性はなぜかを語り始めた。
「まぁ驚くのも無理ないさ、ここらじゃかなり珍しいからね。ウチの店長のお兄さんが英雄をやってたんだ、結構強い人で、イデにも行った事がある。その時に『スシ』って物に出会ったんだとさ。現地で勉強してこっちに技術を持ち帰り、ちょいとアレンジを加えてこれが出来た。ウチはそれを出させてもらってるのさ」
へぇと三人の声がシンクロする。バトラがまた刺身をフォークで突き刺し、目線は向けずに女性に対してある事を問い始めた。
「なるほどね、これはこっちに渡って来た物なんだ。プライトルじゃ食中りするからって生じゃないでしょ?じゃあ何でこれはほぼ生で出せてるの?」
「…にしては躊躇のない食べ方してるじゃないか」
「美味けりゃ中ってもいいから」
女性は片眉を上げて、あらそう、と若干引き気味に言った。彼女はすくっと立ち上がると、徐に広げた手ひらから火と水を出現させて、見ていた者を唸らせた。
「まあこう言う事さ、魔法を使ってる。あんた達のと比べれば弱々しいこと甚だしいが、料理をする上では中々役に立ってるよ。中りの原因の除去とか、肉を焼くのも短縮できて、一度にたくさん来ても間に合うって訳さ」
実は俺は知っていた。かのパフォーマンスに魔法を使った物が幾つかあるから。にしても、この人は魔法の才が周りよりも突出しているらしい。本来魔法は一人一つの適正だ、メルでもそうなのにこの人は少なくとも二つ持っている。もし英雄になっていたらと、何度か考えていた。そこで思い返すと、四つも持っている俺ってどんな扱いになるのか恐ろしくなってくる。
「そいじゃ、この辺りで失礼するよ。あまり食べるのを邪魔しちゃいかんからね。もう一人食べ終わる頃だし」
女性は俺に人差し指を向けて言った。それは大体が半分も食べていなかったのに対し、俺は最後の一切れだったから。ステーキと共に盛り付けられた野菜や芋などはとっくに無くなっていて、いくらか残骸が残るのみだった。
「早いな、お前」
「お前らみたいに喋ってないからな」
スピットがボソッとこぼした言葉ににべもなく言ってやり、ステーキの切れ端を頬張ると、プレートの上はまっさらになった。手招きをした女性にプレートを渡すと、そのまま厨房へそそくさと下がった。最後にコップ一杯の水を飲んで、俺は一人席を立った。
「退こうか?」
窓際に立つ俺に向かって、通路側でバトラが上目遣いで聞いて来た。大丈夫と断って数瞬、既に俺はバトラを跨いだ先にいた。
「あそっか、やっぱし便利だな」
たったの一メートルの為に『転身』を使った。何も長距離を移動する為だけにこれを使う訳じゃない、ただ人の向こうに行きたい時だって使う。俺が説明せずともみんなそう言う物だと察してくれたのか、もうそっぽを向いて口に物を運んでいる。
その時、か弱いが目線を感じた。皆から目を反らし、今まで座っていた席の真後ろを見る。そこには待ち遠しそうに横目で見つめるリタさんが居た。俺は黙って歩き出し、空いている隣の席に腰掛けた。彼女は途端に縮こまってしまい、何か声をかけてくる様子はない。焦れったいから、こっちから話を持ちかける事にした。
「久しぶり。かなり空いちゃった」
「ううん、いいよ。大変だったんでしょ?」
「うん、大変だった」
静かだが、確かに会話は始まった。彼女はもじもじしながらも、着実に会話を繰り広げていった。
「ねえ、あっちで何があったの?一ヶ月以上忙しかったんだしそれくらい大事な事なのは分かるけど…」
リタさんは早くもいつものペースに落ち着いていった。まだ気分が乗り切れていないっぽいが、徐々に俺の知る彼女に戻っていっている。
「ごめん、それは言えない事になってる」
「…そう」
彼女は物悲しげに肩をすくめてしまった。しかし、これに関してはそう言う取り決めになったから仕方のない事だった。
「そう言う決まりなんだ。でも、いずれ大きな発表が三つ出されるだろうからそれまでって事でさ」
「…三つも?いつ発表されるって?」
「全ての主要都市のお偉いさんに伝達される予測期間が…大体三週間くらいだから、きっかり一ヶ月後に決まってる」
リタさんがまた?と言いたそうな顔をした。それがいつものような可愛げのある顔ではなかったから、俺は久しぶりに快活に笑った。声を殺しはしたが、白い歯は丸見えとなった。
「ねぇそんなにおかしかった?」
彼女は釣られて笑いかけていた。その時見た彼女の表情こそ、俺の毎日見て来た慣れ親しんだものだった。
「いや、こんなに気の抜けたのは久しぶりでさ」
「…そっか」
彼女から向けられた目はとても優しかった。俺はスッと気が抜ける感じがして、マニラウを離れる前と同じ気分で会話を続けた。
「あそうだ、メニューに絵が追加されてたよね?あれって誰が描いてるの?」
「えっとね、全部私なんだ。ここで働き始めて一年経ったくらいからちょっとずつ描いてて、どれも何度も描き直してるんだ。どう?見やすくなってるかな?」」
リタさんは小っ恥ずかしそうに聞いて来た。視線と顔を落とすと、少し上目遣いで言った。それには純粋に思った事だけを言葉にした。
「やっぱりそうなんだ。色鮮やかですごく美味しそうに見えるよ」
「本当?」
「うん。食べた事がない料理も気軽に注文できるようになったと思う」
「なら…良かった」
その緩んだ顔は、俺の顔も緩ませる。今日だけの少ない言葉数でも、お互いに気を置かずに会話が出来るくらいにはなったのだった。長く会わないとどう話していいか分からなくなる、一ヶ月以上となれば確実にそんな状態になるだろう。この期間の埋め合わせには到底足りないが、前と同じ関係には戻っただろう。
「ねぇヒカルくん?ちょっと聞いていいかな…」
リタさんは急にかしこまり、台詞もだんだんと小さくなる。何?と聞き返すと、一度息を飲んだ後にこう言った。
「さっきさ、アングラスライスの話に興味なさそうだったよね。…もしかして、『元』を知ってるの?…イデ出身、だから?」
途切れ途切れに、言葉を選びながら言った。少しの恐れと疑惑も込めて。確か初めて会った時に、俺は自身の出生を誤魔化した。それに、ディザントに行く前には別世界の人みたいとも言われている。彼女は俺の生まれについてはっきりさせたいのだろうか。しかしながら、彼女もまた出生を明かしていない。だから教える義理はない。
「元は知ってる。でも、イデの出身じゃない」
目線を外し、右手で頬杖をついてそう答えた。それ以上の言及は、双方無かった。
「そうだよね…今だって、イデの言葉を話してるわけじゃないし」
椅子にもたれ、真っ直ぐ前を向く彼女の横顔は、安心しつつもまだまだ煮え切らない様子だった。俺はそんな彼女の姿に折れたのか、なぞなぞ紛いに情報を足す事にした。
「言い換えたら、半分は合ってるけど半分は間違ってる。どう言う事かはゆっくり考えてくれればいい」
リタさんは虚を突かれたように呆けた顔をした。またからかっているの?と疑いを掛けられたが首を振って否定した。最後に困惑させる事になってしまったが、自分が答えを見つけているといつ気づくだろうか。
別に俺は出生を隠すつもりは無い、この世界に来るまではそう思っていた。以前に降り立った二つの世界では最初から公言していた。この世界でもそうだと思っていたが、ある一人のせいで隠す事になった。オッサンこと、ヴィザー・エルコラドの事だ。俺を迷子の子供だと思ったのか、またそれを信じて疑わず、自分のやり方で育ててくれた。そんな彼に真実を伝える事が、どうも申し訳なく思えたからだ。
今ではもう隠す理由も無い、ただ言うタイミングが無くて拗らせているだけ。いつまで続くのか俺にも分からない。しかしながら、それに気づいている者は少なからず居るだろう。なんせ俺のステータスを見ると、皆が仰天するからだ。この世界でも、少し調べれば人の歩んだ軌跡は分かる。俺にはそれが無いから、いつか目をつけられるだろう。
「あー!食った食った!」
「こら、はしたない」
ガチャンと食器の音が響いたと思えば、大音声でスピットがいかにもご満悦そうに言った。俺とリタさんは二人してびっくりし、勢いよく振り向いた。俺たちは全く同じ行動をとった事に顔を見合わせて笑い合い、いつの間にか緊張感も薄れていた。
「会計は、八人分で1383ユーロだな。それとも個人で払いますか?」
「いや一括でいいっす、一番小さいのこれしか無いんで」
会計はスピットが行った。大きめの財布から一枚の硬貨を取り出して、それを店長に渡す。渡された硬貨を見て店長はどうも肝を冷やしたようだった。
「え!?あのこれ、紋様銀では!!?」
「そうさ、支払うついでにあげるよ。使う用途はなんでもいいからさ」
紋様銀は日本円換算で100万円、約13830円の何十倍もの値段。彼がそうした理由は、いつも言っている経済云々の為だろう。
「うわぁ…流石トップ英雄、あれじゃ金貨とか紋様金とかどれくらい持ってるんだろう…」
リタさんがいつぞやのメルみたいに畏縮していた。確かにあいつは過去に何百、何千、下手すれば万単位の数クエストをこなしている。彼曰く、使う場所も無いから溜まる一方。俺もどれくらい持っているか知っているわけでは無いが、『オニキスの心』にかけた値段を鑑みるに、まさしく桁違いだろう。
「さ、行くぞヒカル。最後の仕事が残ってるからなぁ!」
「わかったよスピット」
彼は美味い物が食べられてとても上機嫌だった。俺が着いて行こうと一歩踏み出した所で、リタさんに服の袖を掴まれた。
「ん、どうしたの?」
彼女はもじもじしながら声を絞り出した。
「また、来てくださいね。今度は、一ヶ月は空かないようにしてほしいな…」
俺にはそれが縋っているように見えた。出会って約一ヶ月ほどの歳下に、頬を染めて懇願していた。
「分かった。ならさ、一週間に一度にする?それなら予定にも支障は無いだろうし」
必ず週のどこかしらで行くのを約束し、彼女の顔は晴々として、周りの視線も気にせずに笑い合った。そして去り際に彼女は気付いた。
「あれ、目線…同じになってる?」
「あ…本当だ」
「ヒカルくん、プライトルにいる間に私よりも大きくなりそうだね」
「そうかもね」
本当の去り際に微笑み合って店を出て行った。
口の中に漂う余韻に浸りつつ、皆はいい物を見たなぁとか言いながら歩いている。これからまた路地に隠れて『転身』でディザントに戻る。人通りは無いが念の為、びっくりさせても、巻き込んでも申し訳ないのでいつもそうする。
「なあヒカルよ、お前あの子の事狙ってんのかぁ?」
にやにやしながらラグルが肩を組んできた。今回はずっしりと体重をかけて。
「そんなんじゃ無い、ただ仲が良いだけだよ」
俺はキッパリと言ってやったが、ラグルは信じようとしなかった。
「マジで言ってる?最後のアレとか完全に脈アリだぞ?」
「いや、多分そういうのとはちょっと違うと思う」
ラグルは調子が狂ったのか直ぐに引き下がった。それ以上は何も言って来なかったが、連れない俺を見据えてつまんなそうに仰いでいる。彼女は自分の事について話したがらない、一度もはっきりした事を口にしていない。考えすぎかもしれないが、過去に触れる事を避けているように感じた。そして、俺はただの拠り所なのだと思った。そう言い聞かせた。
数分後には、九人の集団は二つに分かれ、それぞれの仕事へと戻っていた。
その店の名前は『ピーリー焼肉店』。普通のステーキやハンバーグの他にも、香辛料の効いた辛いメニューや、物好きの為の食材まで揃っていた。働く店員も客に劣らず元気が漲っている。しばしば来客がピークに達した時間帯に何かしらのパフォーマンスを披露することもある程、サービス精神が旺盛であった。
「なあ聞いたか?勇者パーティにウノン・カピトのメンバー以外にも一人加入したってさぁ!」
「ああ聞いた事あるよその話。何でもその追加メンバー、スピットと同い年位だとか。後さ、結構前にマニラウに居たかもって話もあるが?」
「何ぃ!?知らんぞ俺はっ!そういう事は早く教えてくれって言ってるだろー!?」
「悪りぃな、だがそんな時間無かったろう。俺も聞いただけだから詳しくは…」
片方が喋る時にもう片方が食べている。これはこの店で毎日行われる噂話だ。最新の情報が飛び交ってはいるのだが、結局それも伝聞に過ぎず、実際それが起こったのは数日から数週間も前の話。工場で働くために私事は後回しで、もれなく情報に疎くなっている。だがそれでも彼らは構わない、だってそれだけでも十分の娯楽になるからだ。
しかし、ここ最近になって新たな噂が広がり始めていた。勇者一行がマニラウに居た、と言う話は知っていたがその後は誰も知らない。そこで誰かがこんな話を持って来たのだった。
「あんたは聞いた事ある?ディザントの現状をさ!輸入も輸出も制限されてて、何かやばい事でもやらかしたんじゃないか?確かなのは、ディザントで何かが起こってるって事だ!」
どこの誰が広め始めたのか分からないが、その信憑性は高く、新たな噂は瞬く間に拡散していった。話題の割合で言えば、勇選会四割、新たな噂が五割、一割はその他の話をしているか黙っている。連日話題には尾ひれが付いたり、様々な憶測が飛び交っている。客がそんな会話をしていれば否応無し店員の耳にも話題は入る。興味本位で聞き込んだり、吹っ掛けられたり、あるいは勝手に耳に入ってから離れなくなる。
「リタちゃん元気出しなって!あの子の事だ、大丈夫だよ!」
彼女は客にプレートや皿を配り終え、厨房の小スペースで休息をとった。やっと一息つける時間を手に入れたと思うのに、ほっと一息とは言えない位に重いため息を吐いたのだった。それを見かねた裏方担当の女性が元気付けようと声をかけるが、過去に何度も繰り返したそれに効果は無かった。
「ずっとあの調子だよ、客の前じゃ平気なふりは出来てもね…はぁ、こっちが滅入って来るよ」
「そっとしておいてあげなさい。仕方ないじゃ無いか、彼氏が一ヶ月も姿を見せないんだからよ」
「……今あの子の事彼氏って?」
「違うのか?」
店長の五十路の男と調理担当の女性が小声で話し合っていた。ちらっと問題の少女を見ると、また大きなため息を吐き、組んだ腕に顔を押し込む。次に仕事が来るまでずっとあんな感じである。接客時なら明るく振る舞えると言っていたが、それでも時々窓の外へ目を移し、寂しそうに息を吐くのを彼らは知っていた。
「で、今はどうか知ってるか?それも長い事蔓延ってるだろ?」
「聞いたとこによると、食糧の輸入が増えたとか言ってたな。モンスター共の被害が増えるだけじゃねーのかね」
「…今俺が言おうとした事を…」
それでも噂話は止まる事を知らず、一人の少女は不安を募らせるばかりだった。いつしか何十と居た客は引いて行き、昼のラッシュの時間が過ぎた事を察した。この場所の飲食店は主に工場で働く人向けの場所、夜になるまで再び客が来る事はそうそう無い。
静まり返った店の小スペースにて店長は食材の在庫の確認と会計とを照らし合わせ、調理担当の女性とリタがテーブルを拭いて周り、裏方担当の女性は洗い終えた食器類を片付けて店の前の掃き掃除を始める。毎日繰り返す動作は洗練されていて、たった数分で完璧に終わらせてみせた。だが店長の仕事はまだ終わっていないようだ、数分で終わるものでは無いから。
女性陣は思い思いの行動をとった。少女は長椅子に座るとテーブルに頬を擦り付けて傷心に浸り、歳を重ねた大人の女性は店の外で話し合った。彼女を気遣って声の届かない場所を選んだのだ。
「あんなになってどれくらい経つかしらね」
「一週間経った辺りから徐々に悪化していってる気がするわ」
「そうよねぇ…いつも通りなら噂になって何かしら情報が出るのに、それも無いからねぇ」
そう言って二人して窓越しのリタに目を向ける。店内を向いて居てもどこか哀愁を帯びていると感じた、それは時折ため息をして背が膨らんでいるからか。さっと横並びの状態に戻ると二人もため息を漏らした。手慰みに箒で石畳を掃きながら裏方担当の女性が話し始めた。
「あの調子じゃいつ仕事に手が回らなくなるか分かったもんじゃ無いよ」
「そうだね…勇者になって、もしかしたら普通の英雄らよりもリスク高い仕事してるかもだし、こっちだって一概に生きてるから大丈夫とも言えないしねぇ…あら?ラーク、どうかしたかい?」
調理担当の女性が裏方担当の女性、ラークの呆けた顔を見て問いかけた。見ているうちに引き攣った笑顔に変わって行くのを見て、どうしたものかと後ろを見た。
「あっ…」
あまりに突然の訪問に言葉が詰まった。殆ど人の居ない大通りに九人の集団が突然現れたのだ。一人一人は完全に私服だが、明らかに質の良さそうな生地と、この街でも珍しい比較的派手な模様があった。若者が多くも、一人の老人と一人の海エルフを仲間とした不可思議な連中だった。だが、その誰よりも先に一際目についた人物がいた。
「グレタ!多分うち来るよ!早く準備しなくちゃ!」
「わ、分かってる!急げ急げ!」
快活に店内に戻ってきた二人組は始めに店長へこの事を伝えた。彼はもう少しで確認を終える所でそれを知らされ、喜ばしくも少し面倒そうな顔をした。遠くで聞いていた少女は腕で上体を押し上げ、口も開いたまま目を輝かせてほくそ笑んだ。
彼らが家の中以外で鎧を脱ぐのはいつぶりなんだろうか。俺は一度も鎧を着ずに外を歩いている所は見た事はない、それは確かな事だ。鎧を脱ぎ捨てると印象の変わる人と変わらない人が居た。ジラフとスピットは変わらなかったが、バトラは結構印象が変わった。岩石と鉱石でできた上半身の鎧と、腰と足の鉄の装甲を外すと、丈夫そうな筋肉が見え、一際背中が隆起していた。
「まあ、弓を引くためなんだからこれぐらいあって当然だろ?」
と、おちゃらけた様に言っていた。別に普通に暮らす分には筋肉質だなぁと思うくらいだった、しかしいざ弓を引くとなると、広背筋が一瞬で増大したかに見えた。これが戦闘で培われた肉体なのかと少し戦慄した。
「でさー…確か勇者ってもう一人居たよな?あの人はどこに?」
声を上げたのはレイルだった。この九人は、勇者五人とウノン・ジード四人で構成されている。ディザントの英雄は、大体砂対策で鎧の上に布を巻いたり、そもそも遠距離主体故に鎧も着ない人が多い。さっきの話を続けるなら、印象が変わったのは頭を布で包んでいたリルくらい。
「アイツならマニラウにはもう来てるはずさ。鎧を直すってから」
「そう…じゃああの人も私服晒してるわけだ」
「いいや、どっから持って来たのか昔使ってた鎧を着てった。少し小さいらしいけど問題無いってさ」
へーと言うレイルは目を細め、頭の後ろで手を組む。彼らが共にやって来たのには理由がある。別に特別でも何でもないが、今回の討伐の貢献から、それ相応の場所へ食事をしに行こうとなって誘ったのだ。ディザントの飲食店にはあまり凝った物は出されない、他の大きな街のレストランと比べたら質素も質素だ。たまにはこっちも良いだろうと思っての事だった。
「ここだよ。俺のおすすめ」
「あ、ここ…来た事あるじゃん」
俺が指をさした店は『ピーリー焼肉店』、かれこれ一ヶ月以上も来ていない。しかしピークの時間はいつでも同じだ、それが過ぎ去れば全く人はいないと言っていい、少しみんなに待って貰ったのはこの為だ。にしても、スピットの口ぶりからしてつい最近ここに来ていたらしい。もしかしなくてもあのお祭りの日だろうか。
ドアを押すと、チリンと聞き慣れた鈴が鳴った。店内は狙い通りに閑散としている、反対に何度も見た厨房は慌ただしい。さっきまで外で何かを話していた二人は、俺たちに気付くなり店に戻った。その時からずっとあんな具合なんだろう。
「おお…ガラガラだぁ」
スピットは店内を見渡して呟き、何か世間って狭いんだな、と続けて仰いだ。俺はそれを尻目に呼び出しのベルを鳴らした。必要ではないかもしれないけど、一応の所作だ。すると直ぐに厨房から、好きな所に座っていて下さいな、と声が飛んできた。それに従い、俺たちは四人ずつに分かれて窓際のテーブルに座った。メルは一人が嫌だからと言ってついて来ただけで、鎧のせいで食べられはせず、すぐそこでゆらゆらと浮いている。
砂漠組はメニューを見ているだけでとても楽しそうだった。元々テーブルの端に立て替えられたそれを手に取ると、以前よりも確実に分厚くなっていた。商品数は変わらなかったが、そこには絵が付け足されていた。俺の知る物と似ていたが、写真ではなくあくまで絵だから見劣りする。それでも十分美味しそうに見えるから凄いものだ。
「おい…特別メニューっての見てみろよ…」
もう一冊を持っていたバトラがあるページに指を置いた。そっと覗き見ると、目を覆いたくなるようなゲテモノが目に飛び込んできた。特別メニューだからと今までスルーしていた料理だが、いざ絵が付くと別の意味で忌避感が大きくなった。
「どれ、いっちょ『ボイルドグラフォト』いってみよう」
その時みんなが無言で目を見開いてジラフを見た。話を聞いているだけだった砂漠組すらも振り向いた。彼の顔を見るに、とても楽しみにしている。しかし砂漠から出てきて最初に食べる物がそれとは、どうにも理解し難かった。
「…別にいいか。俺らは普通のやつを頼もっ」
それから皆は食い入る様にメニューを見て、次々と頼む物を決めていった。結果『シィラステーキ』を三つ、『アングラスライス』一つ、『ボイルドグラフォト』一つ、『リリムロステーキ』一つ、『オーヴステーキ』と『オヴンステーキ』を一つずつとなった。最後の二つは名前からも分かる通り、同じモンスターか家畜の肉を使っている。どうも部位が違うらしく、名前は似ているが全くの別物らしい。こう言う系統は結構ある。
ようやく全員の食べたい物が決まり、注文をするためにスピットが手を挙げた。それを見た店長は厨房の死角へと合図を送る。そして少しだけ間を開けて、少女がメモ帳を片手にやって来た。足取りは見知った通りに軽く、見せる笑みははち切れんばかりだった。彼女は一人一人から注文を聞き取り、メモにそれを認める。最後に俺の注文をメモに記すと、了解しました、と元気に声を張る。最後に俺を見て微笑むと、さっと振り向いて厨房へ行ってしまった。俺は彼女が微笑んだ時、少し目が腫れ、頬が赤く染まっている気がした。
「じゃあ、来るまでは暇だし、次に行く場所決めとく?」
スピットが暇つぶしにと話を持ちかけた。最初からこの為に食事会を開こうと言い出したのかもしれないと俺は思った。砂漠組はまた違う話題で盛り上がり、メルもテーブルまで呼んで、五人で話し合った。
大きな街は全部で六つある。まずは『マニラウ』言わずと知れた商業都市。そして砂漠の街『ディザント』今までいた所。そして平たい火山の上に造られた『王都トエント』この国の中心。ここまでは俺の知っている街だ。残りの三つは、水産の街『プライトル』海に面し、食に関する技術がとても進んでいると言う。火山下で栄えた街『フォルガドル』畜産が最も重宝されている。最後に『オーキンス山下』鋼鉄の山の麓の排他的な街。最近になって外にもオープンになったと言われている。
「で、択として残るのはヒカルの行ったことない土地だから、フォルガドルかプライトルかオーキンスって事になる」
「オーキンスは論外だろ?俺だって依頼された時しか行った事なかったぜ。あそこの老いぼれの目が怖かったぜ」
「確かに、俺もプライベートでは行きたくないな」
俺以外の男三人が口々に言う。俺は氷水の入ったピッチャーを傾けながらそれを聞いていた。未踏の地ならどこでもいいと思っていたから、彼らの決定に従う事にしていた。だからわざわざ会話に参加するまでも無い。今はマニラウから近い土地に行こうと言う話になっていて、どっちが近いか絶賛計算中だ。
「プライトルに行くとすると、テスタからラモサステンを通るだろ?フォルガドルに行くとすると、テスタからピモレーとリチュードを通る。ガドルルートだと村同士の距離が近くて、ラトルルートだと遠い。どうすっか?」
とは言えどちらも道のりが似たり寄ったりで決めかねている。違いは休憩できる場所が一箇所か二箇所かの違いだった。結局行き先を決めるのは俺に託されたのだった。そこで、ある事を尋ねてみた。
「聞きたいんだけどさ、その二つのある方角って分かる?」
それに、少し面食らった様子でジラフが答えた。
「ああ、どっちも西側だな。プライトルよりもフォルガドルの方が多少南寄りだ」
「それならプライトルにしていいかな、道が素直そうだから」
俺は迷いなく答えた。少しだけ街と村の位置関係を考えてみたが、どちらかに決めるなら道が簡単な方が良さそうだと思った。それを受けてみんな面白そうに笑った。
「いやーさ、薄々分かってたよ。いきなり火山には行きたく無いわな。確かに道はまっすぐだし、俺らからすればそう時間もかからんだろうさ」
口角が上がったままバトラが言った。また他の人達も考えは同じらしく、揃って笑みを浮かべていた。すると、メルがバッとテーブルに手を付いて身を乗り出し、そこからは彼女が話し手となって会話は続いた。
「実はね、近いうちに一度実家に帰ろうって思ってたの。私が英雄になってから一度も帰ってなくてね、泣きながら送ってくれたお母さんはどうしてるかな~って思ってたの。勇者になったんだし、頃合いかなって」
メルは終始笑顔だった。よっぽどそれを望んで居たらしい。しかし、不意にメルの眉間に僅かだが皺が寄る。スピットに鋭い目線を向けながら尖った口で言った。
「そう言えばさ、ここで決めて良かったの?ターラがいないのにさ」
やけに棘のある言い草だった。確かに一人欠けた状態で行き先を決めても良いものだろうか。そんな懸念をよそに、スピットは何食わぬ顔で言い返した。
「そこは心配ないさ、事前に聞いてあるから。『私はお前たちの決定に従う。元々後を追っていただけだから、どうなろうと断る事は無い』ってさ」
そっか、と微かな声を漏らしメルの表情が和らいだ。その時、覆鎧の向こうに人が見えた。油の弾けるプレートを四つ器用に持ち、隣のテーブルの前で立ち止まった。確か料理を担当していたその人は、屈んで速やかにそれぞれの注文した品を配置していった。
「こちらのテーブルはこれで全てですね?今からでもセットに変更できますが、どうなさいますか?」
慣れた口調での定案だった。予想に過ぎないが、以前までは彼女がウエイターだったのだろう。そんな事を考えている内に、俺たちのテーブルにもプレートと皿が運ばれて来た。メルはいつのまにか遠くに離れていて、彼女はまっすぐに向かって来た。
「おまちどうさまです。シィラステーキと、アングラスライスと、リリムロステーキと、ボイルドグラフォトです。アングラスライスに付いているライスは後になりますが、これで全てで大丈夫ですね?セットにする、もしくは追加の注文はありませんか?」
相変わらずのハキハキとして透き通った声。ありません、と言われて一礼する姿も自然で美しい動作だった。ベテランの人の、豪快でありながら全く不快に感じない接客とはまた違う、優美で彼女らしい丁寧な身のこなしだった。彼女は礼の動作から、流れるように椅子に腰掛けた。そこは俺と背中合わせの席で、静かなら吐息も聞こえるくらいに近かった。
「おーっし!食おうぜ!」
「こら、行儀が悪い」
いち早くナイフを握ったスピットにジラフが小言を言った。とは言え、これを皮切りにみんながステーキやハンバーグを食べ始めた。ある程度の会話を続けながら、ひたすらに肉を頬張っていた。俺も早速初めて食べるリリムロステーキを切り分け始める。
「なあそれ、前も食べてなかったか?プライトルのやつじゃダメなの?」
「あっちじゃこんな調理はしないから珍しくて。アンギャモアって生も美味いぞ?ちょっと炙ってあるけど」
そう言ってバトラはフォークに刺した刺身のような物を口に放り込んだ。後からバトラの元には、調理担当の女性が茶碗を持って着ていた。それには米が盛られており、バトラは刺身を飲み込む前に米を口に入れた。そして彼は目を瞑り、天を仰いで美味いと言った。大方味を知っている側から見れば分からんでもないが、スピットからすぐさまツッコミが入った。
「なぁ…そんなに美味いのか?前も思ったけどさ、よくアレを生で食えるよな」
「美味いから良いじゃんか!ライスってのがスッゲェ合うんだこれにっ!」
バトラは真新しい味に感激していた。俺は過去に何度も食べているから驚きはしないが、やっぱりこの世界だとあまり有名な料理ではないらしい。ただし、美味いは共通だった。
「確かそれ、イデの料理だっけ?聞いたことしかないがそれだろう」
ジラフがゲテモノをフォークに突き刺したまま口を挟んだ。心臓っぽいそれは火を通してあったが生々しく、申し訳程度の焼き目が付いているだけだった。涼しい顔をして赤黒い塊を噛んでいるが、周りの目はまるで害虫でも見つけたかのように引き攣っている。俺には血合のような味しか想像できないが、実際どうなのだろう。あるいはそれよりも鉄味が強そうだ。
「あら、アンタ知ってるのかい?正解さ、イデの料理を参考に作ったのさ」
そう野次を飛ばしたのは調理担当の女性だった。身を屈めてテーブルに両肘を付き、ジラフの知識に好奇心を抱いた目を向けている。ここでスピットの手は止まり、完全に話にのめり込む。
「マジすか⁉︎」
彼は頬の膨れたままくぐもった声を張り上げる。クスクスと細く笑い、女性はなぜかを語り始めた。
「まぁ驚くのも無理ないさ、ここらじゃかなり珍しいからね。ウチの店長のお兄さんが英雄をやってたんだ、結構強い人で、イデにも行った事がある。その時に『スシ』って物に出会ったんだとさ。現地で勉強してこっちに技術を持ち帰り、ちょいとアレンジを加えてこれが出来た。ウチはそれを出させてもらってるのさ」
へぇと三人の声がシンクロする。バトラがまた刺身をフォークで突き刺し、目線は向けずに女性に対してある事を問い始めた。
「なるほどね、これはこっちに渡って来た物なんだ。プライトルじゃ食中りするからって生じゃないでしょ?じゃあ何でこれはほぼ生で出せてるの?」
「…にしては躊躇のない食べ方してるじゃないか」
「美味けりゃ中ってもいいから」
女性は片眉を上げて、あらそう、と若干引き気味に言った。彼女はすくっと立ち上がると、徐に広げた手ひらから火と水を出現させて、見ていた者を唸らせた。
「まあこう言う事さ、魔法を使ってる。あんた達のと比べれば弱々しいこと甚だしいが、料理をする上では中々役に立ってるよ。中りの原因の除去とか、肉を焼くのも短縮できて、一度にたくさん来ても間に合うって訳さ」
実は俺は知っていた。かのパフォーマンスに魔法を使った物が幾つかあるから。にしても、この人は魔法の才が周りよりも突出しているらしい。本来魔法は一人一つの適正だ、メルでもそうなのにこの人は少なくとも二つ持っている。もし英雄になっていたらと、何度か考えていた。そこで思い返すと、四つも持っている俺ってどんな扱いになるのか恐ろしくなってくる。
「そいじゃ、この辺りで失礼するよ。あまり食べるのを邪魔しちゃいかんからね。もう一人食べ終わる頃だし」
女性は俺に人差し指を向けて言った。それは大体が半分も食べていなかったのに対し、俺は最後の一切れだったから。ステーキと共に盛り付けられた野菜や芋などはとっくに無くなっていて、いくらか残骸が残るのみだった。
「早いな、お前」
「お前らみたいに喋ってないからな」
スピットがボソッとこぼした言葉ににべもなく言ってやり、ステーキの切れ端を頬張ると、プレートの上はまっさらになった。手招きをした女性にプレートを渡すと、そのまま厨房へそそくさと下がった。最後にコップ一杯の水を飲んで、俺は一人席を立った。
「退こうか?」
窓際に立つ俺に向かって、通路側でバトラが上目遣いで聞いて来た。大丈夫と断って数瞬、既に俺はバトラを跨いだ先にいた。
「あそっか、やっぱし便利だな」
たったの一メートルの為に『転身』を使った。何も長距離を移動する為だけにこれを使う訳じゃない、ただ人の向こうに行きたい時だって使う。俺が説明せずともみんなそう言う物だと察してくれたのか、もうそっぽを向いて口に物を運んでいる。
その時、か弱いが目線を感じた。皆から目を反らし、今まで座っていた席の真後ろを見る。そこには待ち遠しそうに横目で見つめるリタさんが居た。俺は黙って歩き出し、空いている隣の席に腰掛けた。彼女は途端に縮こまってしまい、何か声をかけてくる様子はない。焦れったいから、こっちから話を持ちかける事にした。
「久しぶり。かなり空いちゃった」
「ううん、いいよ。大変だったんでしょ?」
「うん、大変だった」
静かだが、確かに会話は始まった。彼女はもじもじしながらも、着実に会話を繰り広げていった。
「ねえ、あっちで何があったの?一ヶ月以上忙しかったんだしそれくらい大事な事なのは分かるけど…」
リタさんは早くもいつものペースに落ち着いていった。まだ気分が乗り切れていないっぽいが、徐々に俺の知る彼女に戻っていっている。
「ごめん、それは言えない事になってる」
「…そう」
彼女は物悲しげに肩をすくめてしまった。しかし、これに関してはそう言う取り決めになったから仕方のない事だった。
「そう言う決まりなんだ。でも、いずれ大きな発表が三つ出されるだろうからそれまでって事でさ」
「…三つも?いつ発表されるって?」
「全ての主要都市のお偉いさんに伝達される予測期間が…大体三週間くらいだから、きっかり一ヶ月後に決まってる」
リタさんがまた?と言いたそうな顔をした。それがいつものような可愛げのある顔ではなかったから、俺は久しぶりに快活に笑った。声を殺しはしたが、白い歯は丸見えとなった。
「ねぇそんなにおかしかった?」
彼女は釣られて笑いかけていた。その時見た彼女の表情こそ、俺の毎日見て来た慣れ親しんだものだった。
「いや、こんなに気の抜けたのは久しぶりでさ」
「…そっか」
彼女から向けられた目はとても優しかった。俺はスッと気が抜ける感じがして、マニラウを離れる前と同じ気分で会話を続けた。
「あそうだ、メニューに絵が追加されてたよね?あれって誰が描いてるの?」
「えっとね、全部私なんだ。ここで働き始めて一年経ったくらいからちょっとずつ描いてて、どれも何度も描き直してるんだ。どう?見やすくなってるかな?」」
リタさんは小っ恥ずかしそうに聞いて来た。視線と顔を落とすと、少し上目遣いで言った。それには純粋に思った事だけを言葉にした。
「やっぱりそうなんだ。色鮮やかですごく美味しそうに見えるよ」
「本当?」
「うん。食べた事がない料理も気軽に注文できるようになったと思う」
「なら…良かった」
その緩んだ顔は、俺の顔も緩ませる。今日だけの少ない言葉数でも、お互いに気を置かずに会話が出来るくらいにはなったのだった。長く会わないとどう話していいか分からなくなる、一ヶ月以上となれば確実にそんな状態になるだろう。この期間の埋め合わせには到底足りないが、前と同じ関係には戻っただろう。
「ねぇヒカルくん?ちょっと聞いていいかな…」
リタさんは急にかしこまり、台詞もだんだんと小さくなる。何?と聞き返すと、一度息を飲んだ後にこう言った。
「さっきさ、アングラスライスの話に興味なさそうだったよね。…もしかして、『元』を知ってるの?…イデ出身、だから?」
途切れ途切れに、言葉を選びながら言った。少しの恐れと疑惑も込めて。確か初めて会った時に、俺は自身の出生を誤魔化した。それに、ディザントに行く前には別世界の人みたいとも言われている。彼女は俺の生まれについてはっきりさせたいのだろうか。しかしながら、彼女もまた出生を明かしていない。だから教える義理はない。
「元は知ってる。でも、イデの出身じゃない」
目線を外し、右手で頬杖をついてそう答えた。それ以上の言及は、双方無かった。
「そうだよね…今だって、イデの言葉を話してるわけじゃないし」
椅子にもたれ、真っ直ぐ前を向く彼女の横顔は、安心しつつもまだまだ煮え切らない様子だった。俺はそんな彼女の姿に折れたのか、なぞなぞ紛いに情報を足す事にした。
「言い換えたら、半分は合ってるけど半分は間違ってる。どう言う事かはゆっくり考えてくれればいい」
リタさんは虚を突かれたように呆けた顔をした。またからかっているの?と疑いを掛けられたが首を振って否定した。最後に困惑させる事になってしまったが、自分が答えを見つけているといつ気づくだろうか。
別に俺は出生を隠すつもりは無い、この世界に来るまではそう思っていた。以前に降り立った二つの世界では最初から公言していた。この世界でもそうだと思っていたが、ある一人のせいで隠す事になった。オッサンこと、ヴィザー・エルコラドの事だ。俺を迷子の子供だと思ったのか、またそれを信じて疑わず、自分のやり方で育ててくれた。そんな彼に真実を伝える事が、どうも申し訳なく思えたからだ。
今ではもう隠す理由も無い、ただ言うタイミングが無くて拗らせているだけ。いつまで続くのか俺にも分からない。しかしながら、それに気づいている者は少なからず居るだろう。なんせ俺のステータスを見ると、皆が仰天するからだ。この世界でも、少し調べれば人の歩んだ軌跡は分かる。俺にはそれが無いから、いつか目をつけられるだろう。
「あー!食った食った!」
「こら、はしたない」
ガチャンと食器の音が響いたと思えば、大音声でスピットがいかにもご満悦そうに言った。俺とリタさんは二人してびっくりし、勢いよく振り向いた。俺たちは全く同じ行動をとった事に顔を見合わせて笑い合い、いつの間にか緊張感も薄れていた。
「会計は、八人分で1383ユーロだな。それとも個人で払いますか?」
「いや一括でいいっす、一番小さいのこれしか無いんで」
会計はスピットが行った。大きめの財布から一枚の硬貨を取り出して、それを店長に渡す。渡された硬貨を見て店長はどうも肝を冷やしたようだった。
「え!?あのこれ、紋様銀では!!?」
「そうさ、支払うついでにあげるよ。使う用途はなんでもいいからさ」
紋様銀は日本円換算で100万円、約13830円の何十倍もの値段。彼がそうした理由は、いつも言っている経済云々の為だろう。
「うわぁ…流石トップ英雄、あれじゃ金貨とか紋様金とかどれくらい持ってるんだろう…」
リタさんがいつぞやのメルみたいに畏縮していた。確かにあいつは過去に何百、何千、下手すれば万単位の数クエストをこなしている。彼曰く、使う場所も無いから溜まる一方。俺もどれくらい持っているか知っているわけでは無いが、『オニキスの心』にかけた値段を鑑みるに、まさしく桁違いだろう。
「さ、行くぞヒカル。最後の仕事が残ってるからなぁ!」
「わかったよスピット」
彼は美味い物が食べられてとても上機嫌だった。俺が着いて行こうと一歩踏み出した所で、リタさんに服の袖を掴まれた。
「ん、どうしたの?」
彼女はもじもじしながら声を絞り出した。
「また、来てくださいね。今度は、一ヶ月は空かないようにしてほしいな…」
俺にはそれが縋っているように見えた。出会って約一ヶ月ほどの歳下に、頬を染めて懇願していた。
「分かった。ならさ、一週間に一度にする?それなら予定にも支障は無いだろうし」
必ず週のどこかしらで行くのを約束し、彼女の顔は晴々として、周りの視線も気にせずに笑い合った。そして去り際に彼女は気付いた。
「あれ、目線…同じになってる?」
「あ…本当だ」
「ヒカルくん、プライトルにいる間に私よりも大きくなりそうだね」
「そうかもね」
本当の去り際に微笑み合って店を出て行った。
口の中に漂う余韻に浸りつつ、皆はいい物を見たなぁとか言いながら歩いている。これからまた路地に隠れて『転身』でディザントに戻る。人通りは無いが念の為、びっくりさせても、巻き込んでも申し訳ないのでいつもそうする。
「なあヒカルよ、お前あの子の事狙ってんのかぁ?」
にやにやしながらラグルが肩を組んできた。今回はずっしりと体重をかけて。
「そんなんじゃ無い、ただ仲が良いだけだよ」
俺はキッパリと言ってやったが、ラグルは信じようとしなかった。
「マジで言ってる?最後のアレとか完全に脈アリだぞ?」
「いや、多分そういうのとはちょっと違うと思う」
ラグルは調子が狂ったのか直ぐに引き下がった。それ以上は何も言って来なかったが、連れない俺を見据えてつまんなそうに仰いでいる。彼女は自分の事について話したがらない、一度もはっきりした事を口にしていない。考えすぎかもしれないが、過去に触れる事を避けているように感じた。そして、俺はただの拠り所なのだと思った。そう言い聞かせた。
数分後には、九人の集団は二つに分かれ、それぞれの仕事へと戻っていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
異世界ビルメン~清掃スキルで召喚された俺、役立たずと蔑まれ投獄されたが、実は光の女神の使徒でした~
松永 恭
ファンタジー
三十三歳のビルメン、白石恭真(しらいし きょうま)。
異世界に召喚されたが、与えられたスキルは「清掃」。
「役立たず」と蔑まれ、牢獄に放り込まれる。
だがモップひと振りで汚れも瘴気も消す“浄化スキル”は規格外。
牢獄を光で満たした結果、強制釈放されることに。
やがて彼は知らされる。
その力は偶然ではなく、光の女神に選ばれし“使徒”の証だと――。
金髪エルフやクセ者たちと繰り広げる、
戦闘より掃除が多い異世界ライフ。
──これは、汚れと戦いながら世界を救う、
笑えて、ときにシリアスなおじさん清掃員の奮闘記である。
40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
部長に傷つけられ続けた私
とうとうキレてしまいました
なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます
転生先はご近所さん?
フロイライン
ファンタジー
大学受験に失敗し、カノジョにフラれた俺は、ある事故に巻き込まれて死んでしまうが…
そんな俺に同情した神様が俺を転生させ、やり直すチャンスをくれた。
でも、並行世界で人々を救うつもりだった俺が転生した先は、近所に住む新婚の伊藤さんだった。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
勇者の隣に住んでいただけの村人の話。
カモミール
ファンタジー
とある村に住んでいた英雄にあこがれて勇者を目指すレオという少年がいた。
だが、勇者に選ばれたのはレオの幼馴染である少女ソフィだった。
その事実にレオは打ちのめされ、自堕落な生活を送ることになる。
だがそんなある日、勇者となったソフィが死んだという知らせが届き…?
才能のない村びとである少年が、幼馴染で、好きな人でもあった勇者の少女を救うために勇気を出す物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる