漂う結び目

izumi_mutsu

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漂う結び目

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 潤んだ宵の空とは相容れない乾いた道の上を、春の風が過ぎていく。時につむじを巻くその風に、人々は袖で顔を覆い目を細めた。
 この町が埃まみれなのは、道に草が生える間もなく人が踏んでいくからだろうか。場末と呼ばれるような場所であっても、日の出ているうちは人通りが絶えなかった。
 からからに乾いた街の合間を、水路が枝分かれしながら縫っていく。
 その中の一本である、この掘川は、少なくない部分が河岸地だ。建ち並ぶ蔵や店のすぐ裏手で荷役が行われていた。ただ、荷船がひしめく一帯を少し離れれば、堀川沿いの散策ができるようになった。
 荷船が作る水脈は川面を揺らし、見る人の心の波と共鳴して静かに整えていく。多くの人が水辺を歩きたがる理由だ。
 日常のすぐわきを流れる水路には、風流とは別の面もある。
 堀川は、生活の根幹を支える物流網であると同時に、当然ながら、陸を急ぐときには障壁でもあった。すぐ向こうに見えている場所に行くのに橋へ迂回しなければならないのは、時として苛立たしいものだった。
 ただ、確かにこの町の人々はせっかちではあるものの、橋への遠回りを厭う人間がそれほどいるとは思えない。そもそも、決して橋が少ないわけではない。
 橋と運河は町そのものだ。なくなることを望むのは、今ある暮らしを否定することと等しい。
 そこまで寸暇を惜しみ、またそこまで今の暮らしを嫌悪する人がいるとしたら、
世の世知辛さに相当追い込まれているのだろう。そのことに、身分や貧富の差は関係しない。
 逆に、町を流れる水路に愛着を持つことにも、金銭的な余裕は関係しない。裏長屋の住民であっても、堀川が嫌いな人間は珍しかった。
 表店から一歩裏に入った裏店は、どこも見分けがつかない簡素な建物が固まっていた。
 簡素さはみすぼらしさとは違った。二階建てのものも、棟割りのものも、まだ建物が新しいせいかもしれない。見て取れるのは、暮らしの素っ気ない軽みだった。
 生活の多くの部分を他者に依存できる、栄えた街にだけ許される軽みだ。
 多くを自分たちの手でまかなわなければならない遠郷から見れば、その気楽さが理想と映るらしく、ますます人を呼び寄せた。
 そうやって方々から寄り集まった人間が、実際にはなんと言うことはない日々を送るのが、このあたりの町だった。
 個々人の些細な生活の積み重ねで、町の色味は生まれてくる。このあたりはまだ淡色といってよかった。町の切り盛りに関わるようなしがらみは緩く、人同士のつながりは熟していない。
 そのくらいのほうが暮らしやすいという人間は多いし、それでは救われない人間も確かにいる。
 この子はどちらなのだろう。
 若者は、暮れゆく堀の水面を並んで眺めている女児の頭に目をやった。女児は、その日にあった友だちとのできごとを、なにやら一生懸命に話している。
 どちらがいいかは決まっていると、若者は思う。子どもは大人の目が至る所にあるような、人の気が濃く絡まった場所でこそ、逆に自分だけの世界を見つけられるのだ。
 このあたりの町にはまだ若々しい勢いがあり、それ故に時として殺伐とする。その点も、この子の気性には合っていないだろう。
 若者は思い出したように懐から木彫りの人形を出すと、女児に渡した。女児は大げさではない笑顔で礼を言うと、両手でそれを受け取った。
 女児は、同じくらいの年の子どもと比べると背が高く、目鼻立ちが整っているため、遠目には大人びて見えた。
 周囲に迷惑をかけまいとする振る舞いがそう見せている面は確かにある。そろそろ奉公に出てもいい年だったから、どちらにしろ幼いとは言えない。
 それでも若者のように心を許した相手には、歳よりも子供っぽい言動がにじみ出た。
 普段気を張っている反動でもあるだろう。また、世話を任される弟妹がいるわけでもなく、家業を手伝わされるでもない、浮いた立ち位置のせいでもあるだろう。
 腫れ物に触るような扱いにはしないように、彼女を引き取った若夫婦も、長屋の住民も気をつけてはいた。
 それでも、若夫婦に初めての子どもができてしまえば、やはり女児に向ける気は薄くなる。
 女児が川向こうの町から焼け出され、母の従兄弟夫婦に引き取られたのが数年前で、ちょうど若者が指物大工として独り立ちした時だった。
 大火とはとても言えない、ありきたりの火事だったから、死人が出たのは運が悪かったとしかいえない。どういう具合なのか、家族の中で女児だけが助かった。
 彼女を引き受けた若夫婦は、彼らなりによくやっていた。そのことは長屋のみんなが認めていたし、近所の住民もできる範囲で手助けしてきた。
 例えば、どこぞの無尽講から金を調達し、女児の身の回りの品ややけどの薬を用立てしたのは、長屋の差配だった。
 おかげで、発作のような寂しさにとらわれることを除けば、女児は曲がることなくここまで育ってきた。
 そんな女児に、今日も若者は暮れの堀端で、自作の人形を渡していた。
 どうせもらったそばから友だちにやってしまう。それが彼女なりの世渡りなのだろう。
 人形を受け取るとき、左腕の袖がずれる。大きなあざになったやけど後が目立った。
 若者は知らなかったが、女児がそんなに素直な笑顔を向けるのは、彼だけだった。
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