漂う結び目

izumi_mutsu

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漂う結び目

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 もともと、賢一は動きながら考えるタイプだ。考えだけではなく、想像や妄想も、歩いていたり運転しているときの方が活発に浮かんでくる。
 特に運転中、知らず知らずのうちに浮かんでくるイメージを頭の中で遊ばせていることは普段から少なくなかった。誰にでもあることだろう。要は散漫運転だ。
 今、箱崎ジャンクションの悪意に満ちたカーブを曲がりながら、賢一は少しうろたえていた。
 ジャンクションの手前に差し掛かった時、朦朧としたイメージの解像度が急にあがり、映像と言っても差し支えないほどになったからだ。嗅覚や触覚の生々しさすら想起させた。
 桜が咲く頃から、着物姿の人物がイメージとして浮かぶことはあった。やはり、歩いていたり、運転しているときが多かった。
 半年ほど前、賢一は小さな木彫の人形を買っていた。普段ならまず入らないような、女性向けの雑貨店の表に出ていたものだ。説明しがたい魅力を感じ、大きさと作りに対して法外ともいえる値段を払った。木彫りの人形を差し出すというイメージはそこから来ているのではないかと安直に考えていた。
 女児のあざのある左腕は、時々見かける保育士から来ているのだろうと思った。
 ところが、たった今コンマ数秒で走り去った映像は、そんなぼんやりとした解釈を一蹴する明晰さだった。
 たどりついた駐車場からオフィスまでの道のりを賢一は憶えていなかった。浮かんだ映像の明確さは、落ち着きを失う理由としては十分だった。
「おつかれさん。どうした?」
 そんな賢一の顔を見て、自分のデスクから三園が声をかけた。
「景気の悪い顔してるな。何かやらかした?」
「いいえ、ルーティンですから。滞りなく」
「じゃ、腹減ってる?」
「税関の食堂に寄って来ました」
 賢一が席に着くと、三園はくるりと椅子を向けて長い足を組んだ。
「じゃあ、なんだよ」
「今話します。ばかばかしいと思わないでくださいよ」
 三園はすらりとした高身長の男で、賢一よりも三歳年上のはずだった。京都のそれなりの大学を出た後、ずっとこの会社にいる。通関は四年やっていると賢一には話していた。
 服装はいつもこざっぱりしていて、髪型は清潔だ。温厚な性格なのだが、見た目に反して発言が恐ろしく適当だった。口調も軽い。
 賢一には、そんな三園が話をしやすかった。相性などではなく、そこは三園の人間力であることは認めていた。
 賢一はパソコンで書類を作るふりをしながら、まぶたに浮かぶ妙なイメージのことを話した。
「お前、歴史好き?」
「興味ないですね。俺は、現実的な金の話が一番好きです」
「へっ、そうは見えないけどね」
 三園が事務椅子の背もたれに身体を預けながら言うと、向かいの席の稲田がディスプレイから顔をのぞかせた。
 三園よりもさらに六歳年上の、ずんぐりとして寡黙な男性だった。
「ストレス溜まってんじゃないか?」
「稲田さんまで。自覚ないんですよ。そりゃ、ないわけじゃないですけど」
 賢一は天井を眺めて稲田に答えた。
 期日には厳しくとも、不条理なノルマがあるような仕事ではないし、周りを巻き込むような野心家がいる部署でもない。あるとすれば、生活習慣だろうか。
「寝不足って言うのはあるかもしれないです」
「現代人はみんなそう」
「あと、ラーメンばっかり食ってるかな」
「それもみんな同じだな」
 軽く応じる三園とは逆に、稲田は顎に指を当てて目をつぶり、黙考し始めた。
 たっぷり三十秒ほどそうしたあと目を開くと、稲田は賢一に話しかけた。
「受診してみるか」
「はい? 医者ですか?」
 賢一は無遠慮な聞き返し方をしていた。
「みんな、はじめは青貝みたいなふざけたようなことを言い始めるんだよ。自分でも何が起こっているかわからないんだな。でも、繰り返すうちにだんだん妄想が核心に近づいていって、それが逃避の手段だと気づくことになる。自分の無意識が、抱えきれないストレスをどうにかごまかそうと、悪戦苦闘しているんだ」
「いやいやいや」
 稲田の理論に、賢一は首を横に振った。
「だいぶ飛躍してるように思いますよ、その話」
「そうやって、自分事として考えられないんだよ。でも、表向きは鬱で辞めていった人間を、俺は二人知っている。対処するなら今のうちだぞ」
 稲田の中では何やら深刻な想定が進んでいるようだ。
 いつも、稲田は他者の会話に興味を示すことがほとんどない。賢一にとっては利害関係の生じない人物だった。
 それが、今は大いに関わっている。
「河野さん、こいつ幻覚が出るらしいですよ」
 三園は、机の島の端にいる係長の河野に、軽い口調で声をかけた。明らかに面白がっている。
 河野は迷惑そうな顔で返した。そういう部分では常識人だ。
 河野は上に従順で下に厳しい組織向きな人間だから、決して慕われるタイプではない。ただ、実直というかクソ真面目なので、部下としては対応は難しくなかった。
 河野は部下三人の会話を、取るに足らない雑談として聞き流すつもりだったらしい。こちらに水を向けるなと、あからさまに目で伝えてきた。
 ところが、稲田がやおら立ち上がり、河野の机わきまで歩み寄った。その距離と姿勢は、どう見ても威圧的だった。
「うちの産業医、すぐ近くで開業してますよね。この職場の事情は何かとわかるだろうから、青貝を行かせてください」
「いや、それが必要だとはとても思えない」
 河野は稲田の理解できない進言に、戸惑った言い方をした。
「今ここで一人欠けたら、うちは回らないですよ」
「青貝も言ってたとおり、だいぶ飛躍しているように思うぞ」
 稲田はその場でさらに食い下がることはせず、河野に顔をぐいっと近づけた。
「河野さん、ちょっといいですか?」
 稲田は親指で会議室をさして言った。威圧的どころか、ほぼ恫喝だ。そこで断らずについていく河野を見て、賢一は稲田の扱いづらさを知った。
 狭いオフィスのパーテーション程度の壁では、会議室の声は筒抜けだ。賢一と三園は顔を見合わせた。
 稲田は従業員のメンタルヘルスについて、社の組織病理を絡めて蕩々と論じていた。
 ほとんどの話題を静観して過ごす稲田の地雷がそこだったことを、賢一は初めて知った。どこかで聞いたようなことを組み合わせた稲田の胡乱な論に対する、河野の面倒そうな相づちもよく聞こえてきた。
 五分は話し合っていただろうか。賢一も三園もすぐに飽きて、壁の向こうの会話は追わなかった。
 だから、なぜこんな結論になったのか、賢一にはさっぱりわからなかった。
「わかったわかった。受診させれば満足だな?」
 河野のそんな物言いが壁越しに聞こえたのと同時に、二人はドアを開けて出てきた。稲田は静かな表情で席に戻った。そこに当事者の意向は存在しない。
「河野さん、俺は必要だと全然思わないんですけど」
「そういうレベルの話じゃないな、これは。職場内平和のための政治的判断だ。坂間先生のところに行ってくれ」
 明らかな皮肉を言われても、稲田は涼しい顔をしたままだった。
 河野は五十嵐に心療内科クリニックの予約を取るように言い、五十嵐はすぐに受話器を取った。
「そんな無茶な」
「無茶じゃない」
 賢一の抗議に稲田がぼそっと言い、その場は収まった。三園は明らかに面白がっている顔をしていた。


 夜七時、日本橋浜町の心療内科には、静けさが満ちていた。
 職場のある雑居ビルよりも数段こぎれいな低層ビルの二階だ。大きな観葉植物と、パステルカラーのソファというありふれた待合には、疲れ切った顔をしたダークスーツの若い女性がうつむいて座っていた。
 その女性は会計待ちなのか、賢一はすぐに診察室に通された。
 中には風船のように身体が膨らんだ、白衣と白髪の男性が待ち受けていた。人相の悪いプーさんを連想し、賢一はすぐに帰りたくなった。
「はい、どうなさいましたか?」
 医者の坂間は賢一とはろくに目を合わせないで聞いた。
「はあ、自分ではなんともないと思ってるんですけど、職場で心配されまして」
「ほう」
「なんというか、幻覚というのとは違うと思うんですけど、このところ映像がちらつくんです。妙にリアルな」
「ふむふむ」
 机に片肘をついて、目線ではパソコンのディスプレイに向いている。
 受診自体に乗り気ではない賢一は腹も立たないが、患者をなめ腐った医者だった。
 相づち以外の応答がないため、賢一はとりあえず浮かんでくる映像の説明をした。着物にちょんまげの人物なので江戸時代だろうこと、大きな町だという感覚、決まって水路の脇の情景であること。
「ああ、もういいや」
「はい?」
 坂間は手をぶんぶん振ると、くいっと賢一の方に向かい合った。
「ちょっと手を拝借」
 そう言うと、賢一の両手首をつかみ、目をつむった。賢一はこの不機嫌な初老の男に両手を捕まれている絵面を想像し、不条理を思った。
「脈は問題ないし、気も流れてる。あなた、病気じゃないよ」
「はあ」
「何かがちらついたとして、日常生活には差し障りないんでしょ。しばらく様子を見てよ」
 坂間は賢一の手を離すと、もうキーボードでカルテに入力を始めた。
 そこでさっさと帰ってもよかったが、賢一は考える前に口を開いた。
「確かに医者にかかるのは大げさだと思いましたけど、自分でも怯えるようなリアルさだったんです。それも春から徐々にそうなっていて。ちょっと普通じゃないなって感じはするんです」
「うーん、あなた、まだ三十前でしょ。普通が何かを語るにはまだ早いな。これからいろいろあるだろうし」
「いや、そういう話では」
 坂間は目だけを賢一に向けると、ため息交じりに言った。
「別に適当なことを言っているわけじゃないよ。あなたは病んでいるという状態ではない。それに、もう少し話が進まないとなんとも言えない。気になることが続くようならまた受診してよ。はい、お疲れ様でした」
 本当に疲れ切った顔をして、坂間は患者を診もせずにそう言った。
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