漂う結び目

izumi_mutsu

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漂う結び目

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 薬研堀周辺に無数にある、古ぼけた小さな雑居ビルの一つだった。
 エレベーターで四階に上がる。短い廊下の先、曇りガラスのドアを開けると、事務所になっていた。
 机の島には中年女性が一人いて、やたらと細かいエクセルの表から目を離して振り向くと、庸子たちに会釈した。話はついているようだ。
 三園は簡素な応接スペース横の、パーテーションでできた通路を進んだ。そして二つある小部屋の一つに庸子と絵梨花を通した。
 絵梨花は予想外の展開にすっかりおとなしくなっている。それは庸子も同じだった。
「会議室です。好きに使ってください」
「あの、ありがとうございます。本当に助かるんですけど、部外者が入っちゃって大丈夫なんですか? しかも子どもまで」
「問題ないっす。うるさい上司も先輩も、今日はもういないんで」
 三園はにやりとすると、自分の弁当の袋をぶら下げてドアから出て行った。
 庸子は会議室の長机に座った。絵梨花には大きなパイプ椅子で我慢させた。
「場所貸してくれてよかったね」
「うん」
 弁当はまだ暖かい。庸子は素直にありがたかった。
 ドアの外で男性の話し声が聞こえた。庸子は立ち上がろうとしたがやめた。ドアを足で開けたのが賢一だったからだ。
 手には紙コップを二つ持っている。
「わかめスープ、飲むかな。職場にあったから」
「ありがとう。絵梨花は好きだよ」
 賢一はコップを二人の前に置くと、引き返していった。一分も経たないうちに、さらに水の入ったコップを二つ持って、向かい合わせで置いてある長テーブルの向こう側に座った。
 確かに、子どもには水もあった方がいい。
「賢一、昔から気が利くよね」
「これのこと? それを言うなら三園さんだよ。あの人、軽い人間を装っているけど、中身は気配りだけでできてるからね」
 賢一は紙コップのスープを見ながら言った。二三度会っただけの庸子も同感だった。
「仕事、大変なのか?」
 前置きのない、友人らしい聞き方をされて、庸子は箸を置いた。野菜炒めに入ったニンジンを二つつまんだだけだったから、賢一がそう聞きたくなるのもわかった。
「正直、大変だね」
 庸子はプラスチックのスプーンを手にした絵梨花に目をやった。ケチャップで口を汚しながら、食べるのに夢中のようだった。
「自分ではもっとやれると思ってたけど、甘かったかな」
「甘い?」
「ちょっと職場で厳しいこと言われただけで、もう心が折れそうになってるからね」
 賢一は組んでいた足をほどくと、テーブルに肘をついた。庸子の声がかすれたからだろう。
 娘の前で情けない。そんな思いが、つかの間よぎった。
「庸子がしんどいって言うくらいなんだから、ちょっと厳しく言われただけじゃないだろ」
「へへ、私のこと買ってくれるよね。でもさ、今の仕事してからよくわかったよ。私はそれほどできるわけじゃない」
「聞き捨てならないな。恐ろしく弱気じゃないか」
 賢一が少し驚いたような顔をした。
 高校時代の庸子はクラスの垣根を越えて友人を持ち、他校の生徒と遊ぶことも多かった。学校の中で独特な存在感を持っていたことは、当時から自覚していた。庸子の快活な性格と、故郷の穏やかな気質が合ったのだろうと思う。
 そんな庸子が、賢一や詩郎と海辺で過ごす時間を持っていたことを、周囲の友人は不思議に思っていたようだ。
 賢一はその頃の自分と今を比較しているのだと、庸子は思った。
「私はそんなにたくましくない」
「たくましいと思ったことはないよ。大変なのは仕事かい?」
 重ねて聞かれて、庸子はうなずいた。
「普段はまだいいんだよ。でも、少しでも仕事が増えると、職場が壊れるんだね。なにしろ零細だから」
「ノルマ、厳しいのか」
「それだけじゃすまない。雰囲気が壊滅的」
 二年前に入社したデザイン事務所の待遇はひどいものだったが、夫が単身赴任先で倹約しているので問題はなかった。
 激務ではあっても、子持ちの庸子には相応の配慮もしてくれていた。
 夜、ガラス越しに見る、色見本をちりばめたデザイン事務所は、ビルの谷間に咲く花のようだ。自分がそこの机に座っていることが嬉しかった。
 ただ、それも通常運転の時だけだ。
 少しでも受注量と成果のバランスが崩れると、途端に職場が荒れた。そのたびに庸子は一人でやっていくことの苦しさを意識した。
 今の生活を選んだときは、無理だとは思っていなかった。
 幹部海上保安官の夫は、通常なら海上勤務と本庁勤務を繰り返す。横浜勤務の後、山口に配属されたのは例外的な人事だと聞かされた。
 だから、本人は嫌がるだろうが、次は霞ヶ関になるのは既定路線だった。
 それまで、一人でやっていくつもりだった。絵梨花の育休をきっかけに、ようやく踏み出した一歩だ。
「美大を出ているわけでもない私が業界の消耗品だってことは、覚悟の上だった。誰もが通る道だと思ってたし」
「苦しいよ、そういう覚悟は。クリエイティブな業界ではありがちな話なんだろうけど」
「でしょ。よく聞く話だから、私にもできるって思った。実際、職場でひどいこと言われたとしても、仕事と家事だけなら、思考停止してルーティンでやっちゃえる」
 賢一が口を開きかけたが、庸子は続けた。
「だけどさ、子育てはそう言うわけにいかないよね。この子に負のオーラを浴びせてるんじゃないかって、怖くなる」
 話しながら、庸子は目頭が熱くなってきた。
「ご主人はなかなか帰って来れない?」
「そうね。何ヶ月に一回ってとこかな」
 いたとしても、自分は夫の肩にもたれかかったりはしない。逆に、単身赴任先で乾ききってくる夫は、時に庸子の負担になった。
「そんなに根詰めるような性格じゃないだろ。もっと楽しいこと、無理のないことを組み合わせて行けばいいと思うんだけど」
「昔みたいに?」
 目頭をティッシュで押さえながら庸子が笑った。
「あんなに無責任に毎日を謳歌できるのは、子どもの時だけだよ。私は地元の大学に進学したときから、はっきりと自分は泥臭くいかないとダメなんだって思った」
「高校の頃の庸子が子供じみてたとは思わない。卒業した後のことは、何も知らないけどね」
「そうだよ。二人して都会に行っちゃったでしょ」
 その言葉も、賢一には予想外だったようだ。何度か瞬きをしていた。
「俺と詩郎のことか?」
「他に誰がいるのよ」
「あのころから不思議だったんだ。なんで庸子が俺たちとつるんでたのかって」
「そういうところ、バカだよね。私にとっては大切な時間だったよ」
 どうしても遠慮のない言い方になってしまう。心が十代に戻りかけているようだ。
 賢一は考えるような顔をした。
「なら、今も自分を大切にするべきじゃないか? 絵梨花ちゃんのためにも」
「わかったようなこと言わないでよ。子どももいないくせに」
「厳しいね」
 今度は賢一は笑った。自分の名前が出てきた絵梨花が、目を赤くした母を心配そうに見上げた。
「じゃあ、やめるよ。確かに、そんなこと言える義理じゃないな」
 そんな賢一の言葉の、何が庸子に響いたのかわからない。
 そのとき、ようやく庸子の嗅覚があの磯場を思い出した。
 きっと賢一は、あの頃の三人のことを、退屈に飽かした高校生があてもなく海辺をうろついていただけとでも思っていたのだろう。
 そんなわけがないのだ。
 進学校ゆえの民度のおかげか、今で言うカーストというほどのものは、あのころの母校にはなかった。ただ、詩郎と庸子の間には明確な文化の違いがある気がして、それが庸子を怯えさせた。
 飛び越えるきっかけを見失ったまま、卒業してしまったということだ。
 今さら思い返すこともなかったことなのに、賢一と話しているとダメだった。未消化の感情が庸子を子ども返りさせていくようだった。
 目を伏せた庸子から、賢一は何かを感じ取ったのだろうか。小さなため息をついた。
 それから、椅子から横向きに出した足を組み直すと、賢一はズボンのポケットから携帯を取り出した。
「高校時代、懐かしいと思う?」
「なによ、藪から棒に」
 不用意な質問のような気がして、庸子は思わずかみついた。
「あの弁当屋で俺たちが再会したのは、すごい偶然だって人に言われてさ。俺はそんなこと思いもしなかったんだ。でも、今日庸子が会社に来たのは、ありえないタイミングだと思ったよ。だって、夕方、詩郎と電話で話したんだぜ。すごい偶然じゃないか?」
「え?」
 庸子は目を上げた。
 賢一は楽しくはなさそうな笑みを浮かべて、スマートホンを揺らして見せた。
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