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1巻
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第一話 はじまりのアップルパイ
綾辻桜花は緊張した表情で、趣のある蕎麦屋の正面に立っていた。
彼女はつい先日、大学に入学したばかり、ピカピカの一年生だ。
これから夢と希望にあふれためくるめくキャンパスライフが始まる予定だったが、彼女を取り巻く現実は厳しい。
この店が、そんな桜花にとっての最後の命綱だ。
覚悟を決め、呼び鈴を押してみる。
きちんと鳴ったのだろうか。いくら待てども、返事はない。
(どうしたのでしょう、面接の時間は確かに合っているはずですが)
そう考えながら、桜花はもう一度スケジュール帳に書かれた場所と時間を読み返す。
五月十五日、午後四時から、神依代町の駅から徒歩五分の蕎麦屋。間違いない。
一週間前に面接の電話をしたときにきちんと約束したはずだが、やはり反応はない。
(もしかしたら急用ができたのでしょうか。あまり何回も呼び鈴を押すと、失礼かもしれません)
桜花が店の正面で困惑していると、後ろから男性の声がした。
「あの、失礼ですがそちらのお嬢さん」
「はい、私ですか?」
振りむいた桜花は、男性の姿を見た瞬間、呆気に取られてしまった。
「執事さん……ですか?」
失礼かもしれないと思いつつ、そう言うしかなかった。
目の前に立っていた男性は、漫画やドラマでしか見たことのないような、燕尾服姿だった。
それに、とても端整な顔立ちをしている。
かっこいいよりは、綺麗といった方がふさわしい気がした。まるで西洋の人形のように白い肌に、切れ長の目、艶やかな漆黒の髪。
彼はにこりと品よく微笑み、礼儀正しく、まるでお手本のようなお辞儀をした。
「初めまして、私は月影と申します」
桜花はつられてぺこりと頭を下げる。
「あっ、こんにちは、私は綾辻桜花ですっ!」
「そちらのお店に御用ですか?」
「はいっ、私、今日アルバイトの面接をしていただく約束をしていまして……」
すると月影は端整な顔を傾げ、言いづらそうに話した。
「その蕎麦屋さんは、数日前に夜逃げしたようですよ」
桜花は驚きに目を見開く。
「えっ⁉ そうなのですか⁉ 私、一週間前に面接の電話をしたのですが!」
それを聞いた月影は、苦笑して気の毒そうな声で告げる。
「繁盛していた様子だったのですが、何やらトラブルがあったらしく、ある日突然ご家族全員で夜逃げされたようで。私も含め、近所の住人は驚いています。今はもぬけのからですよ」
「そう、なんですね。どうしましょう。ここでなら、住み込みで働けると言っていただいたのに……」
もうこの店では働くことができない。今住んでいるところが急な耐震工事を行うそうで、今月いっぱいで出ていかねばならず、しかも頼れる身内がいない彼女にとって、この事実はあまりに残酷だった。
桜花は絶望で目の前が真っ黒になった。
「大丈夫ですか、お嬢さん⁉」
月影の声が、だんだん遠くなっていく。それに、彼の姿がだんだん傾いていく。
いや、正確に言うと、傾いているのは桜花の方なのだが。
「しっかりしてください!」
身体の力を失いながら、桜花は考える。
(そういえば、今日は朝からまともなものを食べていません。このお店で働けると思って安心していたのに、どうしましょう、これから……)
どうしても住む場所がないのなら、野宿するしかないだろうか。
悩みつつ、桜花はふっと意識を手放した。
――どこかから、甘い匂いがする。
優しい香りに惹かれ、桜花は無意識に息を吸い込んだ。
甘くて、優しくて、それになんだか懐かしい。
(これはお菓子の匂いでしょうか?)
そういえば桜花が小さい頃、休日の朝は、よく父がこんな風にお菓子を焼いてくれた。
「桜花さん、大丈夫ですか?」
考えていると、年上の男性の声がした。
よく通る、穏やかな声だ。
(……お兄ちゃん?)
桜花は一瞬そう思ったけれど、きっとそれは勘違いだ。
だって兄は、桜花の手が届かない、遠くに行ってしまった。
「桜花さん? 大丈夫ですか、桜花さん」
名前を呼ばれ、桜花ははっとして目を開いた。
「あっ、はい⁉ ええと、ここはどこでしょう?」
気がつくと、桜花はなんだかとってもおしゃれな空間にいた。
さっきまでは蕎麦屋の前にいたはずなのに、一体どこにワープしたのだろう。
まるでアートギャラリーを思わせる、洗練された、天井の高い白い部屋。
白い壁には色鮮やかな写真が、何種類か飾られている。
天井からは花のつぼみのようなかわいらしい形の電灯がいくつも下がり、室内を明るく彩っている。
どうやらここはお店の中のようだ。なんの店なのかは、店内が広いこともあり、桜花のいるところからはわからない。ただ、このスペースには小さなテーブルと椅子がいくつか置かれている。
桜花は自分がソファに横になっていて、誰かがタオルケットをかけてくれたことに気づいた。しかし、名前を呼んでくれた声の主はこの部屋にいない。
(月影さんが、助けてくれたのでしょうか)
そう考えていると、桜花の足元、タオルケットの下で何かふわふわしたものが、もぞりと動いた。
「ひゃっ⁉」
桜花は驚いてタオルケットを引く。
そこにいたのは、真っ白な猫だった。
「猫さんでしたか!」
毛が長く、ふわふわで、なんだか上品な顔立ちをしている。
「美人さんですね。こんにちは」
白い猫は桜花が撫でようと手を伸ばすと、シャーッと毛を逆立てて威嚇した。
嫌われてしまったらしい。少し残念に思っていたら、誰かが歩いてくる気配がした。
「よかった、気がついたんですね」
燕尾服に白い手袋をはめた男性が姿を現した。
「月影さん!」
名前を呼ぶと、彼は聡明そうな瞳を細め、にこりと微笑んだ。
「あのっ、月影さんが私のことを助けてくださったのですか?」
「はい、話している途中に倒れてしまったので、こちらに運ばせていただきました」
桜花は顔がかぁっと熱くなるのを感じた。自分はどうしてこうなのだろう。いつも誰かに迷惑をかけてばっかりだ。
「ご迷惑をおかけしてしまって、本当にすみません! 私、すぐに出ていきますからっ!」
そう言って立ち上がろうとした、その瞬間。
ふらりと目眩がして、再び倒れそうになる。月影はすかさず桜花の身体を支えてくれた。
それから手袋を取り、長い指を桜花のおでこにあて、じっと視線を向ける。
「あっ、あの……!」
最初から赤かった顔が、別の理由で熱くなりそうだった。
月影は手袋をつけ直し、優しい声で言う。
「少し熱があるようですよ? もう少し、休んだ方がよいかと」
「いえ、そういうわけには……」
いつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。
月影は、本当にただ通りすがっただけの人だ。
それなのに図々しく家まで上がり込んでしまうなんて、申し訳ない。
「助けていただいてありがとうございました。私、大丈夫ですから……」
そう話していたときだった。
再びどこかから、ふわりと甘い香りが漂ってくる。
さっきより強いこの匂いは、どこからするのだろう。
そう思って背筋を伸ばすと、桜花は今いる場所の奥、カフェカーテンの向こうに、もう一つ部屋があるのに気づいた。どうやら甘い香りはそこから流れてくるようだ。
何か、果物の。
「これは……リンゴ?」
そう言った瞬間、ぐううううう、とお腹の音が鳴った。
月影は無表情で、じっと桜花の顔を見下ろす。
恥ずかしすぎて死んでしまいそうだった。
月影は目を細め、少しお待ちくださいと言って、奥の部屋へと歩いていってしまう。
「えっ、あの、月影さん?」
どうしようかなと考えながら、もう一度周囲に目をやる。
すると入り口に近い場所に、大きなガラスのショーケースがあるのが見えた。
桜花のいる場所からは角度があるので、ケースの中身は見えない。
何が入っているのだろう。宝石やアクセサリーかなあと桜花が考えていると、再び月影が戻ってくる。
「やはり空腹だったのですね。ご病気でしたら救急車を呼ぼうかと思ったのですが、顔色はよかったので。もしよろしければ、召し上がってください」
そう言って月影が運んできたのは、ティーポットとカップ、それに白いお皿にのった、アップルパイだった。
「えっ、あの、月影さん、これは……!」
月影はやわらかく微笑んで、ソファの前にあるテーブルにカップを置き、紅茶を淹れてくれる。
「焼きたてです。アップルパイはお嫌いですか? もしかして、アレルギーなどございますか?」
「いえ、あの、そういうわけではないですがっ!」
アップルパイが嫌いなんてことはない。むしろその逆だ。
しかし、突然倒れたところを助けてもらっただけでもありがたいのに、その上お菓子までいただくわけにはいかない。
桜花が遠慮しているのに気づいたのか、月影は懇願するように眉を下げる。
「このアップルパイ、裏にまだまだたくさんあるんです。桜花さんに食べるのを手伝っていただけると、とても助かるのですが?」
「そんなにたくさん、ですか?」
桜花はきょとんとした。
アップルパイがそんなに大量に余っている理由とは、一体なんだろう。
「ええ。私も彼に付き合わされて、連日たくさん食べているのですが、さすがにこう何日も続くと、ちょっと。なので、よかったら」
桜花は焦りながら、それでも目の前で甘い香りを漂わせているアップルパイの誘惑にぐらぐらと心が揺らいでいた。
そんなとき、今さらながら気がついた。
「あ! もしかして、ここはケーキ屋さんですか?」
「ええ、その通り。洋菓子店です」
桜花は立ち上がり、月影に案内され、先ほど目にしたショーケースの正面へ歩いていく。
並んでいたのは、彼の言葉通り、色とりどりのケーキだった。
その美しさに、思わず溜め息をついた。
定番の生クリームと苺のショートケーキ。きつね色の焼き目がついたチーズケーキ。円形で艶やかに光るチョコレートケーキに、何種類ものフルーツがのったフルーツタルト。
どれもこれも、全部おいしそうに見える。
そう考えると、店全体がなんだか甘い香りなのも納得がいった。
「でもここまでお世話になって、さすがにケーキまでご馳走になるわけにはっ!」
すると、月影は少しいたずらっぽい口調で続ける。
「むしろここまできて、遠慮される必要なんてありませんよ。逆に食べていただかないと引き下がれません」
「そ、そうでしょうか……」
「ええ、お願いします」
桜花はとうとうアップルパイの誘惑に負けてしまった。
テーブルまで戻り、ドキドキしながらまずは紅茶の入ったカップを口元に運ぶ。
飲んだ瞬間、柑橘系の爽やかな香りが広がった。
目を閉じて、胸いっぱいにその香りを吸い込む。
「この紅茶、とってもおいしいです。心が穏やかになる感じがして……」
「アールグレイに含まれているベルガモットには、リラックス効果があります。桜花さんにお気に召していただけて、何よりです」
それから桜花はフォークを手に取り、そっとパイに沈める。
アップルパイの表面には、こんがりときれいなきつね色の焼き目がついている。
焼きたてだからか、まだほわりと白い湯気が立ち上っていた。
「それでは、いただきます」
一口それを食べると、あまりにおいしくて溜め息が出た。
「わっ、おいしい……!」
外のパイはサクサクとした歯ごたえだ。中のとろりとしたカスタードクリームを味わっていると、ごろっとしたリンゴがこぼれてきた。
あたたかくて甘酸っぱくて、少しシナモンの香りがする。
まるで木陰で母親が読んでくれる童話を聞きながら、うとうと眠ってしまった子供の頃を思い出すような、優しくてやわらかい味がした。
桜花はそのおいしさに夢中になって、時折紅茶を飲みつつ、あっという間にアップルパイを完食する。
そして両手を合わせ、月影に頭を下げた。
「ごちそうさまでした、月影さん。とってもおいしかったです」
それを聞いた月影は、目を細めて嬉しそうに微笑んだ。
「お口に合ったようで何よりです」
月影は流れるような動作で、ティーポットを持ち上げた。
「よろしければ、もう一杯どうぞ。外は雨です。もう少しここで雨宿りしていかれませんか?」
「あ、はい、ありがとうございます……」
執事に紅茶を淹れてもらうなんて、まるでお嬢様にでもなったような気分だ。きっとこんな体験、もう一生できないだろう。
彼は一体何者で、どうしてこんなに親切にしてくれるのだろう。
久しぶりにおいしい物を食べて、おいしい紅茶を飲んで、ようやく人間らしさを取り戻せた気がした。
ソファに座ったまま、店の透明なガラス越しに、外の景色を眺める。
確かに、蕎麦屋に行くために外を歩いていたときも、空は曇っていた。
桜花が倒れている間に、本降りになってしまったようだ。
傘を持っていなかったので、ここで雨宿りしていいという言葉はありがたかった。
「そういえばこのアップルパイは、月影さんが作られたのですか?」
問いかけると、彼は二杯目の紅茶を注ぎながら、意味ありげな笑みを浮かべる。
「いえいえ、私はこの店では飲みものと接客専門です」
「そうなのですか。では、ケーキは他の方が作っていらっしゃるのですね」
そういえば、さっき『彼に付き合わされて』と話していた気がする。
「はい。それでは当店のパティシエを紹介しましょう」
そう言って、月影はカフェカーテンのかかる奥の部屋へと身体を向けた。
すると、ちょうどタイミングよく、骨張った手がそのカフェカーテンをめくる。だが、まだ奥にいるため、桜花の位置から当人の姿は見えない。
「ん、月影。さっき拾ったやつ、気がついたのか?」
月影の穏やかな声と違い、少しぶっきらぼうで険のある男性の声音だ。
「このアップルパイ、ものすごくおいしいらしいですよ、坊ちゃま」
月影は桜花と話すときより、ほんの少しだけ砕けた口調で返事をする。
「その呼び方やめろっつってんだろ! いい年して坊ちゃまはねーよ」
桜花は思わず呟いた。
「坊ちゃま……?」
なるほど、おそらく声の主は月影の主人なのだろう。
そして月影が仕えている人なら、きっと紳士的な人物なのだろう。
例えば年を召した、落ち着きのある上品な老紳士なんてぴったりだ。
けれど声は若かったから、金髪の王子様のような人かもしれない。
一瞬の間に、桜花はそんな想像を広げた。
しかし、奥から出てきたのは、白馬に乗った金髪の王子様、ではなく。
金髪は金髪だが、眼光が鋭い青年だった。その鋭さは、まるでカミソリのようだ。
彼の外見を一言で説明してください、と街行く人にたずねれば、ライオン、般若、鬼、ヤンキー――そんなワードを口にするだろう。
月影も、決して小柄ではない。百八十センチ近くあるのではないか。しかし、月影の隣に並んだ金髪の青年は、さらに上背があった。
真っ白なコックコートと茶色いカフェエプロンを身につけているし、頭にも帽子を被っているから、青年が料理人だということは分かる。
それなのに、桜花と向かい合うと、なんだか獲物を見つけた獅子と、今にも食べられそうな草食動物といった構図になった。
(この方は、もしかして私がいることを怒っているのでしょうか?)
桜花は自分の身体がきゅっと小さくなった気がした。
「彼がここのケーキを作っているパティシエです」
月影にそう紹介され、桜花はぱちぱちと瞬きをして、獰猛な顔つきの青年をじっと見る。
彼の鋭い眼光が、より強い光を集めた。
桜花もじっと彼に視線を向ける。桜花がそうしたのには、理由があった。
金髪の青年に、見覚えがあったからだ。
青年の眉は今、険しくひそめられている。
「……あの、鬼束君、ですよね?」
「は? どうして知ってるんだ?」
「同じ大学の、鬼束真澄君、ですよね?」
桜花は確信を持って言葉を続ける。
間違いない。
鬼束を見ることができたのはほんの数回だったが、そのインパクトは鮮烈だった。
ちなみに、桜花は知らなかったが、鬼束は入学早々に起こした“事件”のせいで、学内では有名人だった。
綾辻桜花は緊張した表情で、趣のある蕎麦屋の正面に立っていた。
彼女はつい先日、大学に入学したばかり、ピカピカの一年生だ。
これから夢と希望にあふれためくるめくキャンパスライフが始まる予定だったが、彼女を取り巻く現実は厳しい。
この店が、そんな桜花にとっての最後の命綱だ。
覚悟を決め、呼び鈴を押してみる。
きちんと鳴ったのだろうか。いくら待てども、返事はない。
(どうしたのでしょう、面接の時間は確かに合っているはずですが)
そう考えながら、桜花はもう一度スケジュール帳に書かれた場所と時間を読み返す。
五月十五日、午後四時から、神依代町の駅から徒歩五分の蕎麦屋。間違いない。
一週間前に面接の電話をしたときにきちんと約束したはずだが、やはり反応はない。
(もしかしたら急用ができたのでしょうか。あまり何回も呼び鈴を押すと、失礼かもしれません)
桜花が店の正面で困惑していると、後ろから男性の声がした。
「あの、失礼ですがそちらのお嬢さん」
「はい、私ですか?」
振りむいた桜花は、男性の姿を見た瞬間、呆気に取られてしまった。
「執事さん……ですか?」
失礼かもしれないと思いつつ、そう言うしかなかった。
目の前に立っていた男性は、漫画やドラマでしか見たことのないような、燕尾服姿だった。
それに、とても端整な顔立ちをしている。
かっこいいよりは、綺麗といった方がふさわしい気がした。まるで西洋の人形のように白い肌に、切れ長の目、艶やかな漆黒の髪。
彼はにこりと品よく微笑み、礼儀正しく、まるでお手本のようなお辞儀をした。
「初めまして、私は月影と申します」
桜花はつられてぺこりと頭を下げる。
「あっ、こんにちは、私は綾辻桜花ですっ!」
「そちらのお店に御用ですか?」
「はいっ、私、今日アルバイトの面接をしていただく約束をしていまして……」
すると月影は端整な顔を傾げ、言いづらそうに話した。
「その蕎麦屋さんは、数日前に夜逃げしたようですよ」
桜花は驚きに目を見開く。
「えっ⁉ そうなのですか⁉ 私、一週間前に面接の電話をしたのですが!」
それを聞いた月影は、苦笑して気の毒そうな声で告げる。
「繁盛していた様子だったのですが、何やらトラブルがあったらしく、ある日突然ご家族全員で夜逃げされたようで。私も含め、近所の住人は驚いています。今はもぬけのからですよ」
「そう、なんですね。どうしましょう。ここでなら、住み込みで働けると言っていただいたのに……」
もうこの店では働くことができない。今住んでいるところが急な耐震工事を行うそうで、今月いっぱいで出ていかねばならず、しかも頼れる身内がいない彼女にとって、この事実はあまりに残酷だった。
桜花は絶望で目の前が真っ黒になった。
「大丈夫ですか、お嬢さん⁉」
月影の声が、だんだん遠くなっていく。それに、彼の姿がだんだん傾いていく。
いや、正確に言うと、傾いているのは桜花の方なのだが。
「しっかりしてください!」
身体の力を失いながら、桜花は考える。
(そういえば、今日は朝からまともなものを食べていません。このお店で働けると思って安心していたのに、どうしましょう、これから……)
どうしても住む場所がないのなら、野宿するしかないだろうか。
悩みつつ、桜花はふっと意識を手放した。
――どこかから、甘い匂いがする。
優しい香りに惹かれ、桜花は無意識に息を吸い込んだ。
甘くて、優しくて、それになんだか懐かしい。
(これはお菓子の匂いでしょうか?)
そういえば桜花が小さい頃、休日の朝は、よく父がこんな風にお菓子を焼いてくれた。
「桜花さん、大丈夫ですか?」
考えていると、年上の男性の声がした。
よく通る、穏やかな声だ。
(……お兄ちゃん?)
桜花は一瞬そう思ったけれど、きっとそれは勘違いだ。
だって兄は、桜花の手が届かない、遠くに行ってしまった。
「桜花さん? 大丈夫ですか、桜花さん」
名前を呼ばれ、桜花ははっとして目を開いた。
「あっ、はい⁉ ええと、ここはどこでしょう?」
気がつくと、桜花はなんだかとってもおしゃれな空間にいた。
さっきまでは蕎麦屋の前にいたはずなのに、一体どこにワープしたのだろう。
まるでアートギャラリーを思わせる、洗練された、天井の高い白い部屋。
白い壁には色鮮やかな写真が、何種類か飾られている。
天井からは花のつぼみのようなかわいらしい形の電灯がいくつも下がり、室内を明るく彩っている。
どうやらここはお店の中のようだ。なんの店なのかは、店内が広いこともあり、桜花のいるところからはわからない。ただ、このスペースには小さなテーブルと椅子がいくつか置かれている。
桜花は自分がソファに横になっていて、誰かがタオルケットをかけてくれたことに気づいた。しかし、名前を呼んでくれた声の主はこの部屋にいない。
(月影さんが、助けてくれたのでしょうか)
そう考えていると、桜花の足元、タオルケットの下で何かふわふわしたものが、もぞりと動いた。
「ひゃっ⁉」
桜花は驚いてタオルケットを引く。
そこにいたのは、真っ白な猫だった。
「猫さんでしたか!」
毛が長く、ふわふわで、なんだか上品な顔立ちをしている。
「美人さんですね。こんにちは」
白い猫は桜花が撫でようと手を伸ばすと、シャーッと毛を逆立てて威嚇した。
嫌われてしまったらしい。少し残念に思っていたら、誰かが歩いてくる気配がした。
「よかった、気がついたんですね」
燕尾服に白い手袋をはめた男性が姿を現した。
「月影さん!」
名前を呼ぶと、彼は聡明そうな瞳を細め、にこりと微笑んだ。
「あのっ、月影さんが私のことを助けてくださったのですか?」
「はい、話している途中に倒れてしまったので、こちらに運ばせていただきました」
桜花は顔がかぁっと熱くなるのを感じた。自分はどうしてこうなのだろう。いつも誰かに迷惑をかけてばっかりだ。
「ご迷惑をおかけしてしまって、本当にすみません! 私、すぐに出ていきますからっ!」
そう言って立ち上がろうとした、その瞬間。
ふらりと目眩がして、再び倒れそうになる。月影はすかさず桜花の身体を支えてくれた。
それから手袋を取り、長い指を桜花のおでこにあて、じっと視線を向ける。
「あっ、あの……!」
最初から赤かった顔が、別の理由で熱くなりそうだった。
月影は手袋をつけ直し、優しい声で言う。
「少し熱があるようですよ? もう少し、休んだ方がよいかと」
「いえ、そういうわけには……」
いつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。
月影は、本当にただ通りすがっただけの人だ。
それなのに図々しく家まで上がり込んでしまうなんて、申し訳ない。
「助けていただいてありがとうございました。私、大丈夫ですから……」
そう話していたときだった。
再びどこかから、ふわりと甘い香りが漂ってくる。
さっきより強いこの匂いは、どこからするのだろう。
そう思って背筋を伸ばすと、桜花は今いる場所の奥、カフェカーテンの向こうに、もう一つ部屋があるのに気づいた。どうやら甘い香りはそこから流れてくるようだ。
何か、果物の。
「これは……リンゴ?」
そう言った瞬間、ぐううううう、とお腹の音が鳴った。
月影は無表情で、じっと桜花の顔を見下ろす。
恥ずかしすぎて死んでしまいそうだった。
月影は目を細め、少しお待ちくださいと言って、奥の部屋へと歩いていってしまう。
「えっ、あの、月影さん?」
どうしようかなと考えながら、もう一度周囲に目をやる。
すると入り口に近い場所に、大きなガラスのショーケースがあるのが見えた。
桜花のいる場所からは角度があるので、ケースの中身は見えない。
何が入っているのだろう。宝石やアクセサリーかなあと桜花が考えていると、再び月影が戻ってくる。
「やはり空腹だったのですね。ご病気でしたら救急車を呼ぼうかと思ったのですが、顔色はよかったので。もしよろしければ、召し上がってください」
そう言って月影が運んできたのは、ティーポットとカップ、それに白いお皿にのった、アップルパイだった。
「えっ、あの、月影さん、これは……!」
月影はやわらかく微笑んで、ソファの前にあるテーブルにカップを置き、紅茶を淹れてくれる。
「焼きたてです。アップルパイはお嫌いですか? もしかして、アレルギーなどございますか?」
「いえ、あの、そういうわけではないですがっ!」
アップルパイが嫌いなんてことはない。むしろその逆だ。
しかし、突然倒れたところを助けてもらっただけでもありがたいのに、その上お菓子までいただくわけにはいかない。
桜花が遠慮しているのに気づいたのか、月影は懇願するように眉を下げる。
「このアップルパイ、裏にまだまだたくさんあるんです。桜花さんに食べるのを手伝っていただけると、とても助かるのですが?」
「そんなにたくさん、ですか?」
桜花はきょとんとした。
アップルパイがそんなに大量に余っている理由とは、一体なんだろう。
「ええ。私も彼に付き合わされて、連日たくさん食べているのですが、さすがにこう何日も続くと、ちょっと。なので、よかったら」
桜花は焦りながら、それでも目の前で甘い香りを漂わせているアップルパイの誘惑にぐらぐらと心が揺らいでいた。
そんなとき、今さらながら気がついた。
「あ! もしかして、ここはケーキ屋さんですか?」
「ええ、その通り。洋菓子店です」
桜花は立ち上がり、月影に案内され、先ほど目にしたショーケースの正面へ歩いていく。
並んでいたのは、彼の言葉通り、色とりどりのケーキだった。
その美しさに、思わず溜め息をついた。
定番の生クリームと苺のショートケーキ。きつね色の焼き目がついたチーズケーキ。円形で艶やかに光るチョコレートケーキに、何種類ものフルーツがのったフルーツタルト。
どれもこれも、全部おいしそうに見える。
そう考えると、店全体がなんだか甘い香りなのも納得がいった。
「でもここまでお世話になって、さすがにケーキまでご馳走になるわけにはっ!」
すると、月影は少しいたずらっぽい口調で続ける。
「むしろここまできて、遠慮される必要なんてありませんよ。逆に食べていただかないと引き下がれません」
「そ、そうでしょうか……」
「ええ、お願いします」
桜花はとうとうアップルパイの誘惑に負けてしまった。
テーブルまで戻り、ドキドキしながらまずは紅茶の入ったカップを口元に運ぶ。
飲んだ瞬間、柑橘系の爽やかな香りが広がった。
目を閉じて、胸いっぱいにその香りを吸い込む。
「この紅茶、とってもおいしいです。心が穏やかになる感じがして……」
「アールグレイに含まれているベルガモットには、リラックス効果があります。桜花さんにお気に召していただけて、何よりです」
それから桜花はフォークを手に取り、そっとパイに沈める。
アップルパイの表面には、こんがりときれいなきつね色の焼き目がついている。
焼きたてだからか、まだほわりと白い湯気が立ち上っていた。
「それでは、いただきます」
一口それを食べると、あまりにおいしくて溜め息が出た。
「わっ、おいしい……!」
外のパイはサクサクとした歯ごたえだ。中のとろりとしたカスタードクリームを味わっていると、ごろっとしたリンゴがこぼれてきた。
あたたかくて甘酸っぱくて、少しシナモンの香りがする。
まるで木陰で母親が読んでくれる童話を聞きながら、うとうと眠ってしまった子供の頃を思い出すような、優しくてやわらかい味がした。
桜花はそのおいしさに夢中になって、時折紅茶を飲みつつ、あっという間にアップルパイを完食する。
そして両手を合わせ、月影に頭を下げた。
「ごちそうさまでした、月影さん。とってもおいしかったです」
それを聞いた月影は、目を細めて嬉しそうに微笑んだ。
「お口に合ったようで何よりです」
月影は流れるような動作で、ティーポットを持ち上げた。
「よろしければ、もう一杯どうぞ。外は雨です。もう少しここで雨宿りしていかれませんか?」
「あ、はい、ありがとうございます……」
執事に紅茶を淹れてもらうなんて、まるでお嬢様にでもなったような気分だ。きっとこんな体験、もう一生できないだろう。
彼は一体何者で、どうしてこんなに親切にしてくれるのだろう。
久しぶりにおいしい物を食べて、おいしい紅茶を飲んで、ようやく人間らしさを取り戻せた気がした。
ソファに座ったまま、店の透明なガラス越しに、外の景色を眺める。
確かに、蕎麦屋に行くために外を歩いていたときも、空は曇っていた。
桜花が倒れている間に、本降りになってしまったようだ。
傘を持っていなかったので、ここで雨宿りしていいという言葉はありがたかった。
「そういえばこのアップルパイは、月影さんが作られたのですか?」
問いかけると、彼は二杯目の紅茶を注ぎながら、意味ありげな笑みを浮かべる。
「いえいえ、私はこの店では飲みものと接客専門です」
「そうなのですか。では、ケーキは他の方が作っていらっしゃるのですね」
そういえば、さっき『彼に付き合わされて』と話していた気がする。
「はい。それでは当店のパティシエを紹介しましょう」
そう言って、月影はカフェカーテンのかかる奥の部屋へと身体を向けた。
すると、ちょうどタイミングよく、骨張った手がそのカフェカーテンをめくる。だが、まだ奥にいるため、桜花の位置から当人の姿は見えない。
「ん、月影。さっき拾ったやつ、気がついたのか?」
月影の穏やかな声と違い、少しぶっきらぼうで険のある男性の声音だ。
「このアップルパイ、ものすごくおいしいらしいですよ、坊ちゃま」
月影は桜花と話すときより、ほんの少しだけ砕けた口調で返事をする。
「その呼び方やめろっつってんだろ! いい年して坊ちゃまはねーよ」
桜花は思わず呟いた。
「坊ちゃま……?」
なるほど、おそらく声の主は月影の主人なのだろう。
そして月影が仕えている人なら、きっと紳士的な人物なのだろう。
例えば年を召した、落ち着きのある上品な老紳士なんてぴったりだ。
けれど声は若かったから、金髪の王子様のような人かもしれない。
一瞬の間に、桜花はそんな想像を広げた。
しかし、奥から出てきたのは、白馬に乗った金髪の王子様、ではなく。
金髪は金髪だが、眼光が鋭い青年だった。その鋭さは、まるでカミソリのようだ。
彼の外見を一言で説明してください、と街行く人にたずねれば、ライオン、般若、鬼、ヤンキー――そんなワードを口にするだろう。
月影も、決して小柄ではない。百八十センチ近くあるのではないか。しかし、月影の隣に並んだ金髪の青年は、さらに上背があった。
真っ白なコックコートと茶色いカフェエプロンを身につけているし、頭にも帽子を被っているから、青年が料理人だということは分かる。
それなのに、桜花と向かい合うと、なんだか獲物を見つけた獅子と、今にも食べられそうな草食動物といった構図になった。
(この方は、もしかして私がいることを怒っているのでしょうか?)
桜花は自分の身体がきゅっと小さくなった気がした。
「彼がここのケーキを作っているパティシエです」
月影にそう紹介され、桜花はぱちぱちと瞬きをして、獰猛な顔つきの青年をじっと見る。
彼の鋭い眼光が、より強い光を集めた。
桜花もじっと彼に視線を向ける。桜花がそうしたのには、理由があった。
金髪の青年に、見覚えがあったからだ。
青年の眉は今、険しくひそめられている。
「……あの、鬼束君、ですよね?」
「は? どうして知ってるんだ?」
「同じ大学の、鬼束真澄君、ですよね?」
桜花は確信を持って言葉を続ける。
間違いない。
鬼束を見ることができたのはほんの数回だったが、そのインパクトは鮮烈だった。
ちなみに、桜花は知らなかったが、鬼束は入学早々に起こした“事件”のせいで、学内では有名人だった。
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※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
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