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一通目②

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『甲斐さん』という男性は、一人だけ知っている。
以前の職場で、最初の1年間だけ同僚だった。
実は、ユリは資格を持って仕事をしている専門職、技師だ。
結婚が理由とはいえ、ユリの転勤希望がわりと簡単に通ったのはそのためだ。
どこの支店でも、専門職は人手不足なので歓迎される。
また、専門職だけの社内会議などもあり、他の支店の同僚とも接点がある。
ちなみに秀夫は総合職で、出会った当時は、社内でSVと呼ばれるマネージャー業務だった。
甲斐さんは、専門職。同じ部屋で仕事をしていたけれど、ユリに直接指導してくれたのは別の女性の先輩だったし、部署の飲み会で少し話した程度の接点しかない。
2年目には、彼は一身上の都合で退職して、それ以降は見かけたこともない。

そう、この手紙の『甲斐さん』が、ユリの知っている甲斐さんのはずはないのだ。
だって、甲斐さんが退職した理由は、奥さんの実家の家業を継ぐため。
ユリが知り合った時にはすでに、彼は既婚者だったのだから。
思えば、甲斐という名字は少ないけれど、そんなに珍しいわけでもない。

つまり、この手紙は…まったく意味が分からない。
「どうしよう…これ」
何だか触ることすら薄気味悪く、ユリはじっとテーブルの上の手紙を見つめた。


翌日、クロワッサンとカフェオレの簡単な朝食をとった後、ユリは段ボールを開けた。
衣類を片付けたいが、タンスは寝室にあり、秀夫はまだ寝ている。
予想通り、秀夫の帰宅は明け方近く。少しイラついたが、起こすのは気が引けた。
流石にお昼には声をかけて、食べたいものを聞いてみよう。
二日酔いで、何も食べられない確率のほうが高そうだけど。
おかしな手紙の相談をしてみようかとも思ったが、『甲斐さん』の名前がなんとなく引っかかって、躊躇してしまう。他人の秘密を勝手にばらすような、妙な罪悪感があった。
時計を見ると、10時半になるところだった。午前中に、食料品の買い出しをしてしまおう。
新品の冷蔵庫の中身は、ほぼ空なのだ。
中途半端に開けた段ボールを放置して、ユリは近所のスーパーに出かけた。
1時間ほどで買い物を終えて帰宅すると、浴室からシャワーの音がする。
秀夫が起きていたらしい。飲み会の翌日に、声をかけなくても起きてくるのは珍しいなと思いながら、ユリは浴室に向かって声をかけた。
「秀夫さん?おはよう。お昼、食べられそう?」
返事はないが、シャワーが止まり、脱衣場で体を拭いている気配がする。
お昼は冷たいおそばにしよう。まだお酒が残っていても、食べやすいだろうから。
そう考えて、乾麺をゆでるための大きめの鍋を火にかけた。
「おはよ。飯はいらないよ。先輩に呼ばれてるから」
濡れた髪をタオルで拭きながら、秀夫がいきなり告げた。
「え?今日もでかけるの?聞いてないけど」
「うん。先輩、昨日の飲み会来られなかったんだ。でも、俺の結婚は祝ってくれたいみたいで。明日は仕事だから、昼から飲んで、早めに解散しようと思ってさ」
「どこで?」
「先輩の家でバーベキュー。バスで行って、タクシーで帰ってくるよ」
「送っていくわよ?」
「いや~いいよ。だってさ。ユリ、忙しいだろ?」
「そんなこと無…」
秀夫の目が、半端に開いた段ボールを見ていることに気が付いて、ユリは口を閉じた。
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