ぼくらの森

ivi

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第一章 はじまり

第36話 招かれざる者

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 地図に示されたバツ印に着く頃には、太陽はとっくに空の頂点を過ぎていた。

 休むことなく走り続けた馬たちは汗だくになり、鼻息を荒くしている。鞍にまたがる騎士たちもまた、苦痛に顔を歪めていた。

 北の地にあるサンブレラ街道に差し掛かった一行は、走っていた馬を止めて古いレンガの道を進んだ。クウェイが手綱を放すと、馬は首を伸ばして歩いた。

 クウェイは上体を起こして、レンガの隙間や巨木の幹を這うツルを目で追った。近くに小川が流れているのか、流れる水の音が聞こえてくる。

 木の葉の隙間から陽がさして、道に斑な影を落としている。午後の街道は晴れていても薄暗く、汗ばんだ肌をなでる風は冷たかった。

 三人はいくつかの小さな橋を渡り、一直線に続く並木道を抜けた。巨木のトンネルから出た彼らは、丘の先にひっそりと佇む一軒の家をみつける。

 あれだ……あれがジアン・オルティスの家だ。

 小さな森に囲まれた家は古く、こじんまりとしている。薄いレースの掛かった窓には温かな明かりが灯り、煙突からは白い煙が夕空に向かってゆらゆらと登っていた。

 丸い石が積まれた垣根のそばに馬を止め、クウェイは古い木のドアの前に立つ。胃がギュッと縮み上がり、ノックをするために構えた右手が小刻みに震えている。

 背後で待機している二人の視線を感じる。クウェイは覚悟を決める間もなく扉を叩いた。

 少し間があってから「はい。」という短い返事とともに、長身の男がドアを開けた。黒い髪に青い瞳の彼は、どことなくジアンに似ている。

 「あの……オルティスさんのお宅でしょうか」

 「ああ、そうだが。……学舎の人間が、一体何の用だ」

 制服を着た三人を訝しげに睨みつけて、ジアンの父親はぶっきらぼうに答えた。クウェイは父親の目をまっすぐに見据える。

 「単刀直入に申し上げます。ジアンが――」

 そのとき、父親の背後から女性が慌てた様子でやって来た。長いオレンジ色の髪を頭の後ろでまとめ、生成りのエプロンを身に着けている。彼女がジアンの母親であることは、すぐにわかった。

 クウェイは言いかけていた言葉を飲み込んで、懐に入れていたジアンの遺品を取り出した。

 これは、彼らが門をくぐり抜けたときに、不死身の少女が落とした物だ。

 ゴーグルのついた、ジアンの白い飛行帽。

 それを、クウェイは黙って母親に手渡した。

 彼女は戸惑いながらも受け取ると、青く澄んだ瞳を震わせて、帽子を胸に抱きしめた。手で口を抑えて嗚咽を堪えているが、白く細い指の上を伝う涙が袖を濡らしていく。

 息子の身に何が起こったのか。クウェイが言わずとも、両親は理解したのだろう。母親の震える肩に手を置いて、父親は怒鳴った。

 「帰れっ!もう二度と、私たちの前に姿を見せるな!」

 クウェイは父親の喰らいつくような勢いに怯みそうになったが、拳を強く握りしめて耐えた。

 学長の命令とはいえ……クウェイが今からしようとしていることは大罪だ。この任務を無事遂行できたとしても、クウェイ・エクトスはその罪を背負って生きていくことになる。

 締め付けられるような胸の痛みに、クウェイは息を細く吸った。

 どれほど悔やんだところで、もう引き返すことはできない。ここまで来たら、最後までやり遂げるしかないんだ。

 「……待って下さい」

    クウェイは閉じるドアに手をかけた。がっしりと扉をつかむ彼の手は、父親の力でも振りほどくことができない。

 「ジアンの遺したドラゴンが、彼の弟を必要としています」

 父親は怒りに顔を歪めて何か言おうとしたが、クウェイは物言う隙を与えない。

 「僕たちは、学長の命令によりジアン・オルティスの弟さんをお迎えに上がりました。誠に勝手ではございますが……ドラゴン乗りとして、学舎に迎えさせてはいただけませんか」

 クウェイは父親の目を見つめて、無音の時が流れるのをひたすらに待った。俯いた父親の感情を読み取ることができるのは、歯をくいしばった口元だけだ。

 永遠に続くかと思われた長い沈黙が破られたとき、クウェイは胸ぐらをつかまれていた。

 「……ふざけるなっ!」

 襟元をつかまれたまま激しく揺さぶられ、首が締りそうになる。それでも、クウェイは抵抗一つせず黙って父親の声を聞いていた。

 「貴様らのような学舎の犬に、息子は絶対に渡さない!おまえを、この手で殺してでもな!セロをジアンの二の舞にはさせない!これが私たちの答えだ……わかったら、さっさと帰れっ!」

 「父さん……どうしたの?」

 怒鳴り声を聞いてやって来たのだろう。幼さの残る声につられて目を向けると、家の中から姉弟がこちらを見ていた。

 母親似の少女と、父親似の少年だ。

 「馬鹿っ、こっちに来るな!」

 子をふり返った父親の手から、わずかに力が抜けた隙をクウェイは見逃さなかった。

 「それなら……」

 クウェイは父親の手を振りほどく。彼の抵抗を合図に、待機していた二人の騎士が両隣に並んだ。

 「何としてでも連れて行きます。先ほども申し上げた通り、これは学長直々の命令……。学舎の犬を止めたければ、あなたの手で止めて下さい」

 そうだ……犬だ。

 クウェイ・エクトスは、主人の望みとあらば、どんなに無慈悲な命令にも従ってしまう愚かな犬だ。

 「……その手を、穢れた犬の血で汚す覚悟があればの話ですが」

 言い終えるや否や、クウェイは立ち塞がる父親の腕を、目にも止まらぬ速さでくぐり抜けた。反応が遅れた父親を青年騎士が押さえ込み、我が子に駆け寄ろうとした母親をもう一人が引き止める。

 家の中に入り込んだクウェイがセロの腕を捕らえると、十四歳の彼はわあっと声を張り上げて泣き出した。

 「やめてっ、お願い!セロを連れて行かないで!」

 脱出経路を求めて周囲を見渡していたそのとき。クウェイの腕に姉がすがりついた。彼女の手は小刻みに震え、青い瞳には溢れんばかりの涙が溜まっている。

 当然だ……知らない男がいきなり来たかと思えば、ジアンの死を告げ、挙句の果てには家族をまた一人奪い取ろうとしているのだから。怖くないはずがない。

 それでも、彼女は必死で弟を守ろうとしていた。どれほど涙でいっぱいになっても、その優しい瞳はしっかりとクウェイの姿を捉えている。

    子どもを誘拐する気など微塵もない、臆病な彼の本当の姿を。

 「……ごめんなさい」

 彼女の手をそっと握りしめて、優しく引き離す。クウェイは完全な悪人になることも、演じることもできなかった。

 クウェイは泣き叫ぶセロを脇に抱えて、開いた窓から外へ飛び出した。玄関には騎士に押さえられた両親がいる。出られる状態ではなかった。

 「離せっ、この人でなし共!」

 「お願いしますっ!セロを返して!」

 暴れるセロを抱きかかえ、クウェイは石垣から馬に跳び乗った。

 背後では二人の騎士が「早く行け!」と叫んでいる。クウェイが馬の腹を蹴ると、鹿毛の馬は全速力で駆け出した。

 「おまえたちは一体、私からどれほど奪えば気がすむんだ!」

 遠ざかっていく犬の背中を、父親の叫びが虚しく追いかける。クウェイは耳を塞ぐ代わりに馬を駆り立てて、サンブレラ街道に逃げ込んだ。
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